『1789-バスティーユの恋人たち-』の、革命家チームのどうしようもなさは、どうしたもんか。

 本来なら、革命家たちのポジションは、オイシイはずだ。
 主人公陣営で、物語の中心であり、革命を「起こす」というわかりやすいアクションがある。
 ただあるがままに書くだけで、勝手に物語の主流として盛り上がってしまう、目立ってしまう役のはず。

 なのに、この目立たなさは、わざとか、と思う。

 わざと……意図的に、やっている。

 役者の力量云々という話は別次元なので、今は置く。
 「どんなにおいしくない、目立たない役でも、天才が演じれば主役になる」という北島マヤ理論(=なのに、革命家チームがキャラ立ちしないのは、カチャ・たまきち・コマが天才でないせい、彼らの能力不足が原因、という見方)は混ぜないで。
 そんなもん、この世のありとあらゆることが、「天才なら出来た」「できない凡才が悪い」で終わってしまう。
 脚本・演出上の話。
 また、原作がこうだから、も関係ナシ。なんでもかんでも原作のせいにしたら、「ここが変だよ」「だって元のミュージカルがそうなんだもん、仕方ないよ」で思考終了してしまう。
 あくまでも、タカラヅカの舞台のみの話。

 全50話の大河ドラマなら、いろんなキャラクタに焦点をあてて描けるけれど、タカラヅカの通常公演はそうじゃない。
 短い上演時間内では、主人公の仲間である革命家たちを、描くことができなかった。
 だから3人の革命家たちは、いつも一緒に出て来て一緒に喋り、3人で1個の印象。「なんか3人いた」という印象のみ残す。

 何故そうなるか。
 革命家たちの物語上の役割が、ひとつしかないためだ。

 3人いるけれど、役割はひとつ。
 別に、3人である必要はない。5人でも7人でもいい。7人のこびとが7人である意味を問うなってなもん。彼らは7人で「7人のこびと」という存在であって、ひとりずつに意味はない。ドジっこがいたりリーダーがいたりと性格があるとしても、役割はひとつ。
 革命家トリオも、それし同じだ。

 5人でも7人でもいい……つまり、ひとりでいい。役割がひとつだから、ひとりで十分。
 革命家がひとりだけなら、主人公ロナンの親友として、十分目立っただろうし、キャラ立ちもしただろう。
 が、3人にすることで、あるのは役割だけになり、キャラは埋没した。

 タカラヅカは80人からの出演者にできるだけ多く役を付けなくてはならない、という縛りがある。
 ひとつの役割を3人にやらせることは、「役を水増しする」という観点においては、ありがちなこと。
 だから、革命家トリオだけなら、『ベルばら』における「ジャルジェ家の姉妹たち」が何人いても同じようにしか見えないのと同じ意味、仕方ないことかと思える。

 が。
 もうひとつ、腑に落ちないことがある。

 悪役のアルトワは「いなくてもいい役」だが、革命家たちは「必要な役」だ。
 いなくてもいい役が単体で目立ち、必要な役が埋没している、この現状。
 いなくてもいいアルトワには、ストーリーと無関係だからこそ脈絡なく派手な場面が用意されており、必要なはずの革命家たちには単体での見せ場がない。
 作り方が、いびつなんだ。

 ふつうに作劇するならば、派手な見せ場、キャラを特徴付けるエピソードや場面は「必要な役」に与える。いなくてもかまわない役には、見せ場なんかない。
 が、わざわざ逆にしてある。

 つまりそれは、「すべての役を、等しく目立たなくする」という目的があるのではないだろうか?

 必要な役に派手な見せ場を作ったら、その役が「オイシイ役」に、つまりは2番手役になってしまう。
 2番手を作ってはならないので、必要な役にピンでの見せ場は与えない。
 そして、いなくてもいい役には見せ場を作って底上げする。
 凸は削って、凹は埋めて、平坦にする。

 ……そんなことをしても「つまらない」出来になるだけなんだが……。

 群像劇だから、キャラクタの描き方や見せ場を「等しく」しているのだ、という理屈は通らない。
 群像劇というのは、面白い部分を削って「等しくつまらなく」したものを言うわけじゃないだろう。
 それぞれ単体でも魅力あるドラマを持ったキャラクタたちが、平行して描かれるはずだよな? なにも描かれていないモブに毛が生えただけの役をたくさん並べて「群像劇です」とは言わないよな? 「ジャルジェ家の姉妹たち」が何人いても「姉妹たちの群像劇」と言わないのと同じで。


 このいびつさは、アントワネットとオランプにも共通している。
 いてもいいけど重要なキャラクタではない、せいぜい「象徴」として扱う程度が相当、と思われるアントワネットに見せ場を複数用意し、ヒロインのオランプには芯となる場面がナイ。
 凸は削って、凹は埋めて、平坦にする作業が、丁寧に行われている。

 この物語を、魅力あふれる面白い作品にしてはならない。
 最低限の体裁は取り繕うけれど、作劇の基本をぐちゃぐちゃにして、あえて、わざと、意図的に、つまらなくする。

 そんな作為を感じるんだ。

 や、んなことしてなんの得があるのかわかんないけど。

 作劇の基本をあえて壊し、ぐちゃぐちゃにしてなお面白いモノを作る!!という、実験作だったのかな?
 必要な役に見せ場を作るなんてあたりまえのことはしない、見せ場がなくても話は進むし、不要な役だろうと派手な場面があれば客は喜ぶんだから、どーでもいいじゃん。とか?

 それとも、人事的劇団指示がきついことへの、抗議? 開き直り?

 なんにせよ、本来凸であるはずの革命家たちが、突出した部分を削られて、つまらない平地にされてしまっているっぽいのは、歯がゆいです。

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