毎年、ギャンブルだ。
 『1万人の第九』の座席は。

 当日になるまで、どこの席になるかはわからないんだよね。係の人の指示に従うこと。わがままは言わないこと。
 運を天に任せること。

 わたしは佐渡先生と同期なの。『1万人の第九』。
 佐渡裕が監督・総指揮をするよーになってから、このイベントに参加するようになったんだ。
 そのいちばん最初の年は、大当たり。
 スタンドのいちばん前の座席だった。
 アリーナはプロだとかセミプロの合唱団の席だから、素人である一般参加者たちのいちばんいい席ってのが、スタンドのいちばん前。
 しかも、アルトのいちばん端、わたしたちの隣のブロックは観客席、てなところだったからさー。
 目立つ目立つ。
 テレビに映りっぱなしの席だった(笑)。

 大当たりはその年だけで、あとは良くもなく悪くもなく。

 そして今年は。

 席の当たりはずれってのは、ステージがよく見えるとか、テレビによく映るとかだけのことじゃないんだよね。
 そんなのは二次的なモノで、わたしがいちばん重要視していることは。

 後ろに音痴がいないこと。

 てなわけで、今年は大ハズレでした、オーマイガッ!!

 座席的には、悪くなかったのよ。平井堅がばっちし見えたわ。
 でもねでもね。

 後ろの列に、ものすごい人がいたのよーっ。涙。

 わたしには、絶対音感なんてものは備わってないの。
 耳元で破壊された音程をがなられたら、正しいメロディがわからなくなるの。
 誰か助けて。

 ほんものの音痴の人って、自覚できないものね。自分の音がまちがっていること。
 だから自信満々、大声で歌うのよ。
 そしてスタンドは急勾配。後ろの席の人の声は、前列の後頭部を直撃する。

 わたしが頼りにするのは、隣の席のあらっちの正しい歌声。反対側の隣の見知らぬおばさまは、完璧な発音で美しいドイツ語を歌われる。ああ、よかった。両隣が正しいメロディならなんとか、後ろの音痴と戦えるかもしれない。
 そう思った、のに。

 歌うときはもちろん起立。
 立ち上がれば……うわーーーんっ、両隣はわたしよりアタマひとつ小さいよーっ。歌声がわたしの耳まで届かないよーっ。
 そして後ろの音痴さんは、年配のおばさま。当然小柄だ。一段上に立つ彼女の破壊音は、わたしの耳にこれでもかと飛び込んでくる。
 ひとより背が高いと、こ、こんなところでもつらいめにあうの……?!

 リハのとき、すでに後ろの音痴さんに辟易していたわたしたち。
 本番で音痴さんと席が離れることだけを祈っておりました。
 なのに、神はわたしたちの願いを聞いてはくれなかった。
 席はそのまま。音痴さんはそのまま。あうあう。

「んで、例の音痴はどーなったの?」
 と、お昼休憩にやってきたキティちゃんは意地悪く笑う。
「席、そのまま? まー、不幸(笑)」
 笑うな、人ごとだと思って。
 声楽科卒のあなたは、どんな音のなかでも正しく歌えるのかもしれないけど、素人にはつらいんだぞ。
「緑野、前も言ってなかった? 後ろが音痴だって」
 それははじめて参加したとき。まだ歌詞もメロディも今よりずっとアタマに入ってなくて、不安だけはめいっぱいだった年のリハーサルで、後ろの席に音痴さんがいたのよ。どれだけ恐怖したか。
 しかし本番では席が替わったので、なんの問題もなかった。
 とはいえ、あのときの恐怖は染みついてるのよ。後ろに音痴がいたら最悪、と。
 そして、今年はその最悪な座席。
 歌のうまいあらっちでさえ「つらい……」と暗い表情をしている。
 音痴さんは、あらっちの真後ろの席なんだよなー。

 音痴さんは、第九が歌えない。
 音程がぶっとんでいる。
 とくに、第一音からとんでもない音を出すので、最後まで狂いきっている。ときおり途中で直りかけることもあるけど。
 入るところもよく間違える。歌詞もよく間違えている。
 だけど、声は大きい。
 そのうえ、地声だ。喋っているのと同じ声で歌う。……そりゃ、高い音も低い音も出ないよ……。

 彼女が歌えないのは、第九だけではなかった。
 『大きな古時計』も歌えない。「おじいさんといっしょに チクタクチクタク」を、お経のように歌われてしまい、周囲になんとも言えない空気が広がった。

 なのに。
 不思議だなー。
 『蛍の光』はけっこー歌えるのよ。民謡みたいな歌い方だけど。

 なにはともあれ、わたしとあらっちの握り拳。

「音痴に負けるな!」

 大きな声で歌うんだ。
 後ろの怪音波をかき消すために。

 精神力だ、集中力だ。
 ちょっとでも気力が萎えたら、爆笑してしまう。
 音痴さんを笑うんじゃないよ。ただ、集中している狭間に変な音が聞こえたら、笑いの発作が起きてしまうの。真剣な分、反動かな。

 『1万人の第九』。
 それはすばらしいイベント。

 そこにあるのは非日常。
 わきあがるパワー。

 音楽という奇跡。

 ベートーベンという、とてつもない力。
 1万人という、とてつもない力。
 佐渡裕という、とてつもない力。

 それらがひとつになる。

「今年はすごかったわ」
 と、キティちゃんは言う。

 ひとから「『1万人の第九』ってすごいの?」と聞かれ、
「ま、所詮1万人は1万人ね」
 と、シニカルに答えていた彼女が。

「今年はすごかったわ。去年なんかと比べものにならない。歌ってる最中に背中がゾクッとしたもの」

 と、感嘆するほどの出来だった。

 うん、素人のわたしにだってわかるよ。今年はすごかった。
 佐渡先生のテンションも、昨年とは雲泥の差だった。

 しかし。
 わたしは、歌っている最中にあの電流を感じることができなかった。
 練習とかでは、ときおり感じることができたのに。

「音痴と戦うだけで、精一杯だったよ……」

 肩を落とすわたしに、爆笑を返さないで、友よ。

 

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