今年の第九はよい第九。@『1万人の第九』
2002年12月2日 その他 未だ『1万人の第九』の話。
わたしは指揮者の佐渡裕と同じ年に初参加した。予備知識はほとんどナシ。
なんつーか佐渡先生。
めちゃくちゃ、アツかったんだわ。
最初の特別レッスンのとき、そのバイタリティとパッションに押され、クラクラしたよ。
握り拳な人だなあ。
自分を信じ、自分の力を信じ、自分の道をばく進している。そんな感じ。
人生が、人間が、大好きなんだろうなあ。
なによりも、自分のことが大好きなんだろうなあ。
自分に「なにか」できると信じてるんだろうなあ。
実際、才能のある人だから、ソレが許されているんだろう。実際に評価を得ているから、そうやって自分を好きでいられるんだろう。
彼の「俺は俺が好きだぁぁああっっ!!」パワーには、圧倒されたんだ。
あれは1999年のことだ。初参加の年ね。
彼は握り拳な人だった。
自分を好きで自分の能力に自信を持ち、それゆえに「新しいこと」に挑戦しようとしていた。
それが『1万人の第九』だ。
すごい意気込み。鼻息。
素人の集団であるわたしたちに、音楽を語り、第九を語り、ベートーベンを語った。
彼の握り拳が気持ちよかった。
未知の世界に挑戦し、勝利しようと鍛え抜かれた拳を振り回している無邪気な戦士。彼の純粋な情熱に大いに酔った。
そして、2年目。2000年だ。
佐渡裕はそれでも意欲的だった。『1万人の第九』ってのはどーも、自分が夢見ていたモノとはチガウ気がする。でも、まだまだやれるはずだ。
司会の内藤剛志氏との漫才コンビも前年に引き続き快調。
3年目。2001年。つまり、去年。
佐渡先生は……失速していた。
つまんなかった。去年の『1万人の第九』。
佐渡先生に、あまりやる気を感じなかったせいだ。
1年目の無邪気な握り拳。1年目の不満をふまえてリベンジ上等! だった2年目の握り拳。
それが3年目になると、「惰性」になっていた。
限界を感じたのかな。素人1万人集めたって、自分の望む音楽は創れやしないと。
司会もノリのよかった内藤さんから、事務的な人に変わった。佐渡さんとの会話も台本通り。
惰性の感じられる合同レッスン、リハとゲネプロ、そして本番。
1年目2年目と、なにかしら新しいことにチャレンジしていた佐渡裕だったが、3年目にはなにも新企画はなし。
ある意味主役であるはずの、わたしたち1万人の合唱団を置き去りにして、自分の友人であるお気に入りのアーティストをゲストとして呼んで、プロのオーケストラと自分たちだけで、たのしそーにセッションしている。
なんだ、これは。
いやあ、去年は唖然としたねえ。
そりゃ君はたのしいかもしれんが、わたしたちはどうなるの? って感じ。
ちょっとあきれたな。
彼のテンションの低さと「1万人の合唱団」への興味の低さに感化され、わたしのテンションも低かった。
それでも、実際本番になると、佐渡さんはちゃんと「仕事」をするし、素人の合唱団も走り出す。
去年は、「1万人」であることに感動したよ。
それまでの年は、佐渡裕にも感動してたんだけどさ。
去年は、「こんだけテンション低くても、やっぱ1万人っていう人数はすごいわ。第九はすごいわ。このなかにいると、鳥肌立つわ」と実感した。
……本番になるまで、ちっとも感動しなかったんだけどな。本番ではやっぱり、もっていかれたよ。
んで、2002年。今年。
去年が去年だったから、ちょっと懐疑的。佐渡さん、やる気あるのかな? と。
もちろん、1年目や2年目のパッションはなかった。
でも、去年ともちがっていた。
「1万人の合唱団」には限界を感じているんだろう。かわりに彼は、「学生オーケストラ」を持ってきた。
プロのオケではなく、学生たち。
素人1万人に、学生オーケストラですか。
つくづく、「新しいこと」が好きな人だなあ。
同じことの繰り返しはつまらなく感じる人なんだろうな。
リハのとき、去年のやる気なさげな彼とは、明らかにちがっているのに気がついた。
わたしはそれを、学生オケの影響かと思ってたんだけど。
キティちゃん曰く。
「客演の手前よ」
……なるほど。
今回のコンサートには、本場ウィーンの演奏家たちを招いてるんだ。彼らの手前、手抜きなものを見せられない。
「幸運な学生たち。世界の最高クラスの演奏家たちと一緒に演奏できるのよ。あたしだって、やらせてもらえるなら、なにをさておいてもやるわ」
音大卒のキティちゃんの言葉には熱がこもる。
高校の部活でサッカーやってる子が、W杯クラスの外国選手と練習試合させてもらうようなもん?
それはたしかに……すごい経験だろうな。
関西の8つの音楽大学から選ばれた100人だかの学生たちは、将来プロを目指す音楽家の卵たちだという。
長い長い「第九」の演奏を聴きながら、わたしは彼らのことを考えていた。
「好きなこと」でプロになろうとする若者たち。
今いる場所にたどりつくまでにも、いろいろあったことだろう。音大に入れたところで、プロになれるのはほんの一部で、プロで食べていけるのはさらにほんの一握りの人だよね?
それでも今、こうやってここにいて、演奏しているんだよね。
たとえばキティちゃんも、その友人のフクスケさんも、音大を出て、今は音楽とは関係のないふつーの仕事をしている。
キティちゃんはそれでも、年に一度仲間たちとボーカル・コンサートを開いていたけれど、最近はそれもなくなっている。理由は聞いていない。
続けていけないなにかがあったんだろうと思う。
わたしの前の職場にも、音大や芸大出の人が何人もいた。
けど、彼らがやっているのはわたしと同じ、表現者ではあり得ないふつーの仕事だった。
「好きなこと」で生きていける人なんて、ほんのひと握りだ。
学生たちの演奏を聴きながら思う。
この中の何人が、ほんとうにプロとして生きていけるのだろう。
生きていけたらいいね。
ほんとうに、好きなことで。
そして、ウィーンの演奏家たちとの出会いが、彼らの人生で意味のあるものとして輝きますように。
今、ここにいることの意味。
わたしがハタチくらいのときって、なにやってただろう。
人生を変えるくらいの重い出会いが、いったいどれくらいあり、そしてそれを正しく受け止められることって、いったいどれくらいあるのだろう。
振り返ってみれば、後悔が残る。
どうしてあんなにわたし、幼かったんだろう。
どうしてあんなにわたし、無知だったんだろう。
今のわたしなら、あんなことにはならないのに。
……ほんとうに?
ほんとうにわたし、あのころより進化しているの?
無駄にトシくってるだけじゃないの?
感性が、能力が、好奇心が、行動力が、衰えているだけじゃないの?
可能性に満ちた若者たち。
世界のトップクラスの人との出会いを今まさに、体現している若者たち。
彼らの奏でる「第九」を聴きながら、わたしは思考の波を漂う。
実際、長いんだもんよ、「第九」。
考える時間が山ほどある。
隣ではあらっちが爆睡中。彼女はリハもゲネプロも本番も、いつもいつも演奏中は寝ている。平井堅の歌さえ、起きていたのはリハの1回だけ。あとは爆睡。
わたしは考えても仕方のない、思考のドツボに入って涙ぐんでいたりする。
泣きたがる左目が、勝手に涙を流したりもする。
佐渡先生のテンションは上がり続ける。走っている。ばく進している。
こうでなきゃだめだ。
音楽が変わる。
第4楽章、キターーーーッ!! ってか。
あの瞬間、すごく好き。スタンドに満ちる緊張感。
寝ているあらっちの目がぱちりと開く。
ティンパニーの音で、1万人が動く。立ち上がる。
空気が動く。
空気って、ほんと動く。
指揮者を中心に、14000人だかのホール内の人間が、ひとつになるよ。
来い来い来い。
わたしの人生でそうそうない、アグレッシヴな時間。
打って出るというか。
蓄積していたモノを、吐き出す瞬間。
次は次は次は。
大昔、演劇部にいたころ。
1幕目の出はわたしひとりだった。いきなりの長台詞。ピンライトでえんえんひとりで語って。ここで失敗したら、舞台全体にケチがつく。絶対失敗できない、カメない、まちがえられない。
緊張感、圧迫感、責任感。
ふるえて、逃げ出したくて。
だけどいったん動き出したら、こわいものなんかなかった。
高揚感、充実感、達成感。
出番を終えて舞台袖にハケるときは、両手でVサインをしていた。仲間たちに迎えられる。よろこばれる、ほめられる。「かかってきないサイ!(鼻息)」な気分。こわいものナシ。
そんな大昔のことを思い出す。
自分のなかにあるものを、地球に向けて吐き出す瞬間。
だから、快感なんだろう。
1万人の快感。
だから、空気を動かすんだろう。
後ろの音痴のおばさんもね。
音程も歌詞も発音もめちゃくちゃだけど、それでも大きな声を出しているよ。きっと、気持ちいいんだろうね。
『1万人の第九』は、すごいよ。
わたしは指揮者の佐渡裕と同じ年に初参加した。予備知識はほとんどナシ。
なんつーか佐渡先生。
めちゃくちゃ、アツかったんだわ。
最初の特別レッスンのとき、そのバイタリティとパッションに押され、クラクラしたよ。
握り拳な人だなあ。
自分を信じ、自分の力を信じ、自分の道をばく進している。そんな感じ。
人生が、人間が、大好きなんだろうなあ。
なによりも、自分のことが大好きなんだろうなあ。
自分に「なにか」できると信じてるんだろうなあ。
実際、才能のある人だから、ソレが許されているんだろう。実際に評価を得ているから、そうやって自分を好きでいられるんだろう。
彼の「俺は俺が好きだぁぁああっっ!!」パワーには、圧倒されたんだ。
あれは1999年のことだ。初参加の年ね。
彼は握り拳な人だった。
自分を好きで自分の能力に自信を持ち、それゆえに「新しいこと」に挑戦しようとしていた。
それが『1万人の第九』だ。
すごい意気込み。鼻息。
素人の集団であるわたしたちに、音楽を語り、第九を語り、ベートーベンを語った。
彼の握り拳が気持ちよかった。
未知の世界に挑戦し、勝利しようと鍛え抜かれた拳を振り回している無邪気な戦士。彼の純粋な情熱に大いに酔った。
そして、2年目。2000年だ。
佐渡裕はそれでも意欲的だった。『1万人の第九』ってのはどーも、自分が夢見ていたモノとはチガウ気がする。でも、まだまだやれるはずだ。
司会の内藤剛志氏との漫才コンビも前年に引き続き快調。
3年目。2001年。つまり、去年。
佐渡先生は……失速していた。
つまんなかった。去年の『1万人の第九』。
佐渡先生に、あまりやる気を感じなかったせいだ。
1年目の無邪気な握り拳。1年目の不満をふまえてリベンジ上等! だった2年目の握り拳。
それが3年目になると、「惰性」になっていた。
限界を感じたのかな。素人1万人集めたって、自分の望む音楽は創れやしないと。
司会もノリのよかった内藤さんから、事務的な人に変わった。佐渡さんとの会話も台本通り。
惰性の感じられる合同レッスン、リハとゲネプロ、そして本番。
1年目2年目と、なにかしら新しいことにチャレンジしていた佐渡裕だったが、3年目にはなにも新企画はなし。
ある意味主役であるはずの、わたしたち1万人の合唱団を置き去りにして、自分の友人であるお気に入りのアーティストをゲストとして呼んで、プロのオーケストラと自分たちだけで、たのしそーにセッションしている。
なんだ、これは。
いやあ、去年は唖然としたねえ。
そりゃ君はたのしいかもしれんが、わたしたちはどうなるの? って感じ。
ちょっとあきれたな。
彼のテンションの低さと「1万人の合唱団」への興味の低さに感化され、わたしのテンションも低かった。
それでも、実際本番になると、佐渡さんはちゃんと「仕事」をするし、素人の合唱団も走り出す。
去年は、「1万人」であることに感動したよ。
それまでの年は、佐渡裕にも感動してたんだけどさ。
去年は、「こんだけテンション低くても、やっぱ1万人っていう人数はすごいわ。第九はすごいわ。このなかにいると、鳥肌立つわ」と実感した。
……本番になるまで、ちっとも感動しなかったんだけどな。本番ではやっぱり、もっていかれたよ。
んで、2002年。今年。
去年が去年だったから、ちょっと懐疑的。佐渡さん、やる気あるのかな? と。
もちろん、1年目や2年目のパッションはなかった。
でも、去年ともちがっていた。
「1万人の合唱団」には限界を感じているんだろう。かわりに彼は、「学生オーケストラ」を持ってきた。
プロのオケではなく、学生たち。
素人1万人に、学生オーケストラですか。
つくづく、「新しいこと」が好きな人だなあ。
同じことの繰り返しはつまらなく感じる人なんだろうな。
リハのとき、去年のやる気なさげな彼とは、明らかにちがっているのに気がついた。
わたしはそれを、学生オケの影響かと思ってたんだけど。
キティちゃん曰く。
「客演の手前よ」
……なるほど。
今回のコンサートには、本場ウィーンの演奏家たちを招いてるんだ。彼らの手前、手抜きなものを見せられない。
「幸運な学生たち。世界の最高クラスの演奏家たちと一緒に演奏できるのよ。あたしだって、やらせてもらえるなら、なにをさておいてもやるわ」
音大卒のキティちゃんの言葉には熱がこもる。
高校の部活でサッカーやってる子が、W杯クラスの外国選手と練習試合させてもらうようなもん?
それはたしかに……すごい経験だろうな。
関西の8つの音楽大学から選ばれた100人だかの学生たちは、将来プロを目指す音楽家の卵たちだという。
長い長い「第九」の演奏を聴きながら、わたしは彼らのことを考えていた。
「好きなこと」でプロになろうとする若者たち。
今いる場所にたどりつくまでにも、いろいろあったことだろう。音大に入れたところで、プロになれるのはほんの一部で、プロで食べていけるのはさらにほんの一握りの人だよね?
それでも今、こうやってここにいて、演奏しているんだよね。
たとえばキティちゃんも、その友人のフクスケさんも、音大を出て、今は音楽とは関係のないふつーの仕事をしている。
キティちゃんはそれでも、年に一度仲間たちとボーカル・コンサートを開いていたけれど、最近はそれもなくなっている。理由は聞いていない。
続けていけないなにかがあったんだろうと思う。
わたしの前の職場にも、音大や芸大出の人が何人もいた。
けど、彼らがやっているのはわたしと同じ、表現者ではあり得ないふつーの仕事だった。
「好きなこと」で生きていける人なんて、ほんのひと握りだ。
学生たちの演奏を聴きながら思う。
この中の何人が、ほんとうにプロとして生きていけるのだろう。
生きていけたらいいね。
ほんとうに、好きなことで。
そして、ウィーンの演奏家たちとの出会いが、彼らの人生で意味のあるものとして輝きますように。
今、ここにいることの意味。
わたしがハタチくらいのときって、なにやってただろう。
人生を変えるくらいの重い出会いが、いったいどれくらいあり、そしてそれを正しく受け止められることって、いったいどれくらいあるのだろう。
振り返ってみれば、後悔が残る。
どうしてあんなにわたし、幼かったんだろう。
どうしてあんなにわたし、無知だったんだろう。
今のわたしなら、あんなことにはならないのに。
……ほんとうに?
ほんとうにわたし、あのころより進化しているの?
無駄にトシくってるだけじゃないの?
感性が、能力が、好奇心が、行動力が、衰えているだけじゃないの?
可能性に満ちた若者たち。
世界のトップクラスの人との出会いを今まさに、体現している若者たち。
彼らの奏でる「第九」を聴きながら、わたしは思考の波を漂う。
実際、長いんだもんよ、「第九」。
考える時間が山ほどある。
隣ではあらっちが爆睡中。彼女はリハもゲネプロも本番も、いつもいつも演奏中は寝ている。平井堅の歌さえ、起きていたのはリハの1回だけ。あとは爆睡。
わたしは考えても仕方のない、思考のドツボに入って涙ぐんでいたりする。
泣きたがる左目が、勝手に涙を流したりもする。
佐渡先生のテンションは上がり続ける。走っている。ばく進している。
こうでなきゃだめだ。
音楽が変わる。
第4楽章、キターーーーッ!! ってか。
あの瞬間、すごく好き。スタンドに満ちる緊張感。
寝ているあらっちの目がぱちりと開く。
ティンパニーの音で、1万人が動く。立ち上がる。
空気が動く。
空気って、ほんと動く。
指揮者を中心に、14000人だかのホール内の人間が、ひとつになるよ。
来い来い来い。
わたしの人生でそうそうない、アグレッシヴな時間。
打って出るというか。
蓄積していたモノを、吐き出す瞬間。
次は次は次は。
大昔、演劇部にいたころ。
1幕目の出はわたしひとりだった。いきなりの長台詞。ピンライトでえんえんひとりで語って。ここで失敗したら、舞台全体にケチがつく。絶対失敗できない、カメない、まちがえられない。
緊張感、圧迫感、責任感。
ふるえて、逃げ出したくて。
だけどいったん動き出したら、こわいものなんかなかった。
高揚感、充実感、達成感。
出番を終えて舞台袖にハケるときは、両手でVサインをしていた。仲間たちに迎えられる。よろこばれる、ほめられる。「かかってきないサイ!(鼻息)」な気分。こわいものナシ。
そんな大昔のことを思い出す。
自分のなかにあるものを、地球に向けて吐き出す瞬間。
だから、快感なんだろう。
1万人の快感。
だから、空気を動かすんだろう。
後ろの音痴のおばさんもね。
音程も歌詞も発音もめちゃくちゃだけど、それでも大きな声を出しているよ。きっと、気持ちいいんだろうね。
『1万人の第九』は、すごいよ。
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