未だ『1万人の第九』の話。

 わたしは指揮者の佐渡裕と同じ年に初参加した。予備知識はほとんどナシ。

 なんつーか佐渡先生。
 めちゃくちゃ、アツかったんだわ。

 最初の特別レッスンのとき、そのバイタリティとパッションに押され、クラクラしたよ。
 握り拳な人だなあ。
 自分を信じ、自分の力を信じ、自分の道をばく進している。そんな感じ。
 人生が、人間が、大好きなんだろうなあ。
 なによりも、自分のことが大好きなんだろうなあ。
 自分に「なにか」できると信じてるんだろうなあ。

 実際、才能のある人だから、ソレが許されているんだろう。実際に評価を得ているから、そうやって自分を好きでいられるんだろう。
 彼の「俺は俺が好きだぁぁああっっ!!」パワーには、圧倒されたんだ。

 あれは1999年のことだ。初参加の年ね。
 彼は握り拳な人だった。
 自分を好きで自分の能力に自信を持ち、それゆえに「新しいこと」に挑戦しようとしていた。
 それが『1万人の第九』だ。
 すごい意気込み。鼻息。
 素人の集団であるわたしたちに、音楽を語り、第九を語り、ベートーベンを語った。
 彼の握り拳が気持ちよかった。
 未知の世界に挑戦し、勝利しようと鍛え抜かれた拳を振り回している無邪気な戦士。彼の純粋な情熱に大いに酔った。

 そして、2年目。2000年だ。
 佐渡裕はそれでも意欲的だった。『1万人の第九』ってのはどーも、自分が夢見ていたモノとはチガウ気がする。でも、まだまだやれるはずだ。
 司会の内藤剛志氏との漫才コンビも前年に引き続き快調。

 3年目。2001年。つまり、去年。
 佐渡先生は……失速していた。

 つまんなかった。去年の『1万人の第九』。

 佐渡先生に、あまりやる気を感じなかったせいだ。
 1年目の無邪気な握り拳。1年目の不満をふまえてリベンジ上等! だった2年目の握り拳。
 それが3年目になると、「惰性」になっていた。

 限界を感じたのかな。素人1万人集めたって、自分の望む音楽は創れやしないと。
 司会もノリのよかった内藤さんから、事務的な人に変わった。佐渡さんとの会話も台本通り。
 惰性の感じられる合同レッスン、リハとゲネプロ、そして本番。

 1年目2年目と、なにかしら新しいことにチャレンジしていた佐渡裕だったが、3年目にはなにも新企画はなし。
 ある意味主役であるはずの、わたしたち1万人の合唱団を置き去りにして、自分の友人であるお気に入りのアーティストをゲストとして呼んで、プロのオーケストラと自分たちだけで、たのしそーにセッションしている。
 なんだ、これは。
 いやあ、去年は唖然としたねえ。
 そりゃ君はたのしいかもしれんが、わたしたちはどうなるの? って感じ。
 ちょっとあきれたな。

 彼のテンションの低さと「1万人の合唱団」への興味の低さに感化され、わたしのテンションも低かった。
 それでも、実際本番になると、佐渡さんはちゃんと「仕事」をするし、素人の合唱団も走り出す。

 去年は、「1万人」であることに感動したよ。
 それまでの年は、佐渡裕にも感動してたんだけどさ。
 去年は、「こんだけテンション低くても、やっぱ1万人っていう人数はすごいわ。第九はすごいわ。このなかにいると、鳥肌立つわ」と実感した。
 ……本番になるまで、ちっとも感動しなかったんだけどな。本番ではやっぱり、もっていかれたよ。

 んで、2002年。今年。
 去年が去年だったから、ちょっと懐疑的。佐渡さん、やる気あるのかな? と。

 もちろん、1年目や2年目のパッションはなかった。
 でも、去年ともちがっていた。
 「1万人の合唱団」には限界を感じているんだろう。かわりに彼は、「学生オーケストラ」を持ってきた。
 プロのオケではなく、学生たち。
 素人1万人に、学生オーケストラですか。
 つくづく、「新しいこと」が好きな人だなあ。
 同じことの繰り返しはつまらなく感じる人なんだろうな。

 リハのとき、去年のやる気なさげな彼とは、明らかにちがっているのに気がついた。
 わたしはそれを、学生オケの影響かと思ってたんだけど。
 キティちゃん曰く。
「客演の手前よ」
 ……なるほど。
 今回のコンサートには、本場ウィーンの演奏家たちを招いてるんだ。彼らの手前、手抜きなものを見せられない。

「幸運な学生たち。世界の最高クラスの演奏家たちと一緒に演奏できるのよ。あたしだって、やらせてもらえるなら、なにをさておいてもやるわ」
 音大卒のキティちゃんの言葉には熱がこもる。
 高校の部活でサッカーやってる子が、W杯クラスの外国選手と練習試合させてもらうようなもん?
 それはたしかに……すごい経験だろうな。

 関西の8つの音楽大学から選ばれた100人だかの学生たちは、将来プロを目指す音楽家の卵たちだという。
 長い長い「第九」の演奏を聴きながら、わたしは彼らのことを考えていた。
 「好きなこと」でプロになろうとする若者たち。
 今いる場所にたどりつくまでにも、いろいろあったことだろう。音大に入れたところで、プロになれるのはほんの一部で、プロで食べていけるのはさらにほんの一握りの人だよね?
 それでも今、こうやってここにいて、演奏しているんだよね。

 たとえばキティちゃんも、その友人のフクスケさんも、音大を出て、今は音楽とは関係のないふつーの仕事をしている。
 キティちゃんはそれでも、年に一度仲間たちとボーカル・コンサートを開いていたけれど、最近はそれもなくなっている。理由は聞いていない。
 続けていけないなにかがあったんだろうと思う。

 わたしの前の職場にも、音大や芸大出の人が何人もいた。
 けど、彼らがやっているのはわたしと同じ、表現者ではあり得ないふつーの仕事だった。

 「好きなこと」で生きていける人なんて、ほんのひと握りだ。

 学生たちの演奏を聴きながら思う。
 この中の何人が、ほんとうにプロとして生きていけるのだろう。

 生きていけたらいいね。
 ほんとうに、好きなことで。

 そして、ウィーンの演奏家たちとの出会いが、彼らの人生で意味のあるものとして輝きますように。

 今、ここにいることの意味。

 わたしがハタチくらいのときって、なにやってただろう。
 人生を変えるくらいの重い出会いが、いったいどれくらいあり、そしてそれを正しく受け止められることって、いったいどれくらいあるのだろう。
 振り返ってみれば、後悔が残る。
 どうしてあんなにわたし、幼かったんだろう。
 どうしてあんなにわたし、無知だったんだろう。
 今のわたしなら、あんなことにはならないのに。

 ……ほんとうに?
 ほんとうにわたし、あのころより進化しているの?

 無駄にトシくってるだけじゃないの?
 感性が、能力が、好奇心が、行動力が、衰えているだけじゃないの?

 可能性に満ちた若者たち。
 世界のトップクラスの人との出会いを今まさに、体現している若者たち。
 彼らの奏でる「第九」を聴きながら、わたしは思考の波を漂う。

 実際、長いんだもんよ、「第九」。
 考える時間が山ほどある。
 隣ではあらっちが爆睡中。彼女はリハもゲネプロも本番も、いつもいつも演奏中は寝ている。平井堅の歌さえ、起きていたのはリハの1回だけ。あとは爆睡。
 わたしは考えても仕方のない、思考のドツボに入って涙ぐんでいたりする。
 泣きたがる左目が、勝手に涙を流したりもする。

 佐渡先生のテンションは上がり続ける。走っている。ばく進している。
 こうでなきゃだめだ。

 音楽が変わる。
 第4楽章、キターーーーッ!! ってか。
 あの瞬間、すごく好き。スタンドに満ちる緊張感。
 寝ているあらっちの目がぱちりと開く。
 ティンパニーの音で、1万人が動く。立ち上がる。
 空気が動く。

 空気って、ほんと動く。
 指揮者を中心に、14000人だかのホール内の人間が、ひとつになるよ。

 来い来い来い。
 わたしの人生でそうそうない、アグレッシヴな時間。
 打って出るというか。
 蓄積していたモノを、吐き出す瞬間。
 次は次は次は。
 大昔、演劇部にいたころ。
 1幕目の出はわたしひとりだった。いきなりの長台詞。ピンライトでえんえんひとりで語って。ここで失敗したら、舞台全体にケチがつく。絶対失敗できない、カメない、まちがえられない。
 緊張感、圧迫感、責任感。
 ふるえて、逃げ出したくて。
 だけどいったん動き出したら、こわいものなんかなかった。
 高揚感、充実感、達成感。
 出番を終えて舞台袖にハケるときは、両手でVサインをしていた。仲間たちに迎えられる。よろこばれる、ほめられる。「かかってきないサイ!(鼻息)」な気分。こわいものナシ。
 そんな大昔のことを思い出す。

 自分のなかにあるものを、地球に向けて吐き出す瞬間。

 だから、快感なんだろう。
 1万人の快感。
 だから、空気を動かすんだろう。

 後ろの音痴のおばさんもね。
 音程も歌詞も発音もめちゃくちゃだけど、それでも大きな声を出しているよ。きっと、気持ちいいんだろうね。

 『1万人の第九』は、すごいよ。


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