すっかり忘れていたけど、この日記を書きはじめてもう1年経つ。2002年の5月3日からはじめたんだ。
人間何事も修行。わたしは不器用なので、練習なしになにかがうまくできることはない。
わたしはずっと、エッセイの類いが書けなかった。あとがきは大嫌いだし、フリートークなんかもってのほかだ。
フィクションなら書ける。物語を創ることならできる。でも、「自分」の考えていることを書くのは超苦手。
理由は簡単、「恥ずかしいから」。
小説を書いていたって、書いているのがわたしである以上、「わたし」の生の姿がどこかに関与していると思う。ある意味、フリートークよりも明らかに「わたし」が丸見えであったりもすると思う。
……だがそれは、べつにいいのだ。だってそれはあくまでも「フィクション(作り物)」であって、「生のわたし」ではないから。
しかしエッセイだとかトークだとかで、「生のわたし」を「自分で」書くのは嫌なんだ。
自分で書く以上、そこには見栄だとか欲だとか、いろんなものが入って純粋ではなくなるだろう。純粋でもないのに、純粋なふりをする、それが恥ずかしい。
自意識過剰もいいところだが、わたしはわたしを愛しすぎていて、わたしの考えをそのまま文章にすることができないのだ。
そうやってわたしは、小説以外の文章は書けない人間として、長く生きてきた。
転機が訪れたのは、同人誌を作るようになってからだ。
わたしと盟友オレンジはある作品にハマり、ものすごい勢いでその作品のパロディ同人誌を作った。なんせ毎月発行だ。月に1冊は本を作っていた。
パロを書くだけでは、愛が止まらなかった。萌えが止まらなかった。わたしたちは、その作品がどれだけすばらしいか、わたしたちを虜にしているのかを、紙面で語りまくった。
……紙面で語る? 自分の萌えを、自分の言葉で? それって、わたしがもっとも苦手とすることじゃないか。
萌えを語りたい。だけど、わたしには語ることができない。
二律背反。
苦悩の果てに。
わたしは、ある方法にたどりついた。
それは、「わたしというキャラを作って、わたしの意見を語らせる」という方法だ。
神が舞い降りた。
この手法でなら、わたしはいくらでも萌えを語ることができた。自分の意見を文章にすることができた。
具体的に言うと、どーゆー方法かって?
今の、この日記のようなこと。
わたしはこの日記で、わたしの言いたいことを言いたいままに書き散らかしている。
が、この日記は「生のわたし」とは微妙にチガウ。言っていることもやっていることも、ありのままのわたしだが、語っているのは「わたしというキャラ」である。
「生のわたし」と、この日記に出てくる「わたし」には微妙に距離がある。それが「わたしというキャラ」である。
わたしはわたしというフィクションを作り上げることで、わたしのノンフィクションを文章にすることができるのだ。
人間何事も修行。わたしは不器用なので、練習なしになにかがうまくできることはない。
同人誌で鍛えたおかげで、わたしは「わたし」というキャラでWeb日記を書くことができるようになったわけだ。
使わない刃物はさびるし、使っていない電化製品は勝手に壊れる。せっかく手に入れたこの手法も、使わないとさびついてしまうかもしれない。
日々、エクササイズ。
わたしは文章修行をする。
日記を書くことで、わたしは「日記の書き方」の修行をする。
そうして、1年だ。
わたしはこのキャラで、これからも日記を書き続けるつもりだ。
ところで、この日記を読んでいるリアル界のわたしを知っている人は何人いるの? なんか、回っているカウンターのすべてが友人知人だったら嫌なんですけど。
だってわたし、自分からこの日記のことを誰かに教えたことは一度もないのよ? 秘密なのよ?
なのに友人たちにばれてたら、それってちょっとな。
かねすきさんのお友だちは、自力で発見しちゃったのよね。んでもってかねすきさんにもばれちゃったのよね。……で、他は? 他は誰もいない? いたら名乗り出てくれ。
オレンジは言った。「『佐藤浩市/総受』、で検索したらヒットするんじゃないの? 地球上の日本語サイト全部合わせても、そんな検索ワードでヒットするのはあんたの日記くらいなもんでしょ?」
…………やってみたけど、ヒットしなかったもん。それならオレンジは、ここにはたどりついてないかな?
人間何事も修行。わたしは不器用なので、練習なしになにかがうまくできることはない。
わたしはずっと、エッセイの類いが書けなかった。あとがきは大嫌いだし、フリートークなんかもってのほかだ。
フィクションなら書ける。物語を創ることならできる。でも、「自分」の考えていることを書くのは超苦手。
理由は簡単、「恥ずかしいから」。
小説を書いていたって、書いているのがわたしである以上、「わたし」の生の姿がどこかに関与していると思う。ある意味、フリートークよりも明らかに「わたし」が丸見えであったりもすると思う。
……だがそれは、べつにいいのだ。だってそれはあくまでも「フィクション(作り物)」であって、「生のわたし」ではないから。
しかしエッセイだとかトークだとかで、「生のわたし」を「自分で」書くのは嫌なんだ。
自分で書く以上、そこには見栄だとか欲だとか、いろんなものが入って純粋ではなくなるだろう。純粋でもないのに、純粋なふりをする、それが恥ずかしい。
自意識過剰もいいところだが、わたしはわたしを愛しすぎていて、わたしの考えをそのまま文章にすることができないのだ。
そうやってわたしは、小説以外の文章は書けない人間として、長く生きてきた。
転機が訪れたのは、同人誌を作るようになってからだ。
わたしと盟友オレンジはある作品にハマり、ものすごい勢いでその作品のパロディ同人誌を作った。なんせ毎月発行だ。月に1冊は本を作っていた。
パロを書くだけでは、愛が止まらなかった。萌えが止まらなかった。わたしたちは、その作品がどれだけすばらしいか、わたしたちを虜にしているのかを、紙面で語りまくった。
……紙面で語る? 自分の萌えを、自分の言葉で? それって、わたしがもっとも苦手とすることじゃないか。
萌えを語りたい。だけど、わたしには語ることができない。
二律背反。
苦悩の果てに。
わたしは、ある方法にたどりついた。
それは、「わたしというキャラを作って、わたしの意見を語らせる」という方法だ。
神が舞い降りた。
この手法でなら、わたしはいくらでも萌えを語ることができた。自分の意見を文章にすることができた。
具体的に言うと、どーゆー方法かって?
今の、この日記のようなこと。
わたしはこの日記で、わたしの言いたいことを言いたいままに書き散らかしている。
が、この日記は「生のわたし」とは微妙にチガウ。言っていることもやっていることも、ありのままのわたしだが、語っているのは「わたしというキャラ」である。
「生のわたし」と、この日記に出てくる「わたし」には微妙に距離がある。それが「わたしというキャラ」である。
わたしはわたしというフィクションを作り上げることで、わたしのノンフィクションを文章にすることができるのだ。
人間何事も修行。わたしは不器用なので、練習なしになにかがうまくできることはない。
同人誌で鍛えたおかげで、わたしは「わたし」というキャラでWeb日記を書くことができるようになったわけだ。
使わない刃物はさびるし、使っていない電化製品は勝手に壊れる。せっかく手に入れたこの手法も、使わないとさびついてしまうかもしれない。
日々、エクササイズ。
わたしは文章修行をする。
日記を書くことで、わたしは「日記の書き方」の修行をする。
そうして、1年だ。
わたしはこのキャラで、これからも日記を書き続けるつもりだ。
ところで、この日記を読んでいるリアル界のわたしを知っている人は何人いるの? なんか、回っているカウンターのすべてが友人知人だったら嫌なんですけど。
だってわたし、自分からこの日記のことを誰かに教えたことは一度もないのよ? 秘密なのよ?
なのに友人たちにばれてたら、それってちょっとな。
かねすきさんのお友だちは、自力で発見しちゃったのよね。んでもってかねすきさんにもばれちゃったのよね。……で、他は? 他は誰もいない? いたら名乗り出てくれ。
オレンジは言った。「『佐藤浩市/総受』、で検索したらヒットするんじゃないの? 地球上の日本語サイト全部合わせても、そんな検索ワードでヒットするのはあんたの日記くらいなもんでしょ?」
…………やってみたけど、ヒットしなかったもん。それならオレンジは、ここにはたどりついてないかな?
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