途方に暮れる。@野風の笛
2003年5月23日 タカラヅカ よせばいいのに、花組初日に行って来ました。
……なんで「よせばいいのに」なのかというと、この日東京へ旅立つ予定だったから。ムラになんぞ行ってる時間はなかったのに……。
んで、観ましたさ。『野風の笛』と『レヴュー誕生』。
組トップがちゃんといるのにトド様降臨主演という、みょーな公演。その是非は置くとして。
『野風の笛』……。
はじめに言っておく。わたしは、谷正純のファンである。彼の欠点は理解したうえで、愛すべき点を認めているのだ。
あの皆殺し癖は大嫌いだし、人を殺せば感動だと勘違いしているところは創作者として軽蔑している。女を描けない、恋愛を描けない半端ぶりも情けないし、同じ話、同じ主人公しか描けないことも観ていて恥ずかしい。
でもな。
谷センセの、赤面ものの「ベタ」さは美点だと思っているんだ。
ハッタリの威勢のよさというか。
かったるい場面の多さも物語の破綻もキャラクタの人格崩壊も、とりあえずその一瞬忘れさせるような、ハッタリの効いたシーン。よく考えるとめちゃくちゃなんだけど、力尽くで感動に持っていく強引さ。常識とか羞恥心とか持ってたらこうはできないよな、てな、壊れきった展開による強制、「さあ、感動しろ!」。
……それは、力だと思っている。ふつーならあんなベタなこと、恥ずかしくて書けないよ。うん、才能でしょう。
そういう意味で、わたしは谷センセのベッタベタなエンタメ力を評価しているのだ。
そのわたしでも。
今回、ほとほと思ったよ。
もー、見捨てようかな、谷センセ。
ハッタリ以外才能なかったのに。そのハッタリさえ、作品を重ねるごとにショボくなってきている。メッキが剥げたっていうか。
ハッタリの効かなくなった谷作品なんか、ただの駄作じゃん。……いやもちろん、駄作でない谷作品を探す方が困難なのはわかって言ってるのよ。
とりあえず、観ていてこまったわ、『野風の笛』。
この芝居の「おもしろさ」って、どこにあるんだろー? 美しいシーンってのは、どこにあるんだろー?
どこもおもしろくないし、美しくもない。つまらないシーンがつづき、そのくせ物語としてはつぎはぎ感ばかりで全体が見えない。……いつになったら終わるんだろう……苦痛な時間。
もちろん、出演者はがんばっている。彼らひとりひとりは美しい。
だが、そーじゃなくてだな、場面として息をのむよーなおもしろさや美しさはどこにあるんだってことなんだな。
トド様降臨作品、ということは、つまりトド様と寿美礼ちゃんの「W主演」作品ということなんだな、と理解した。寿美礼ちゃんは2番手というより、もうひとりの主役だったからだ。
W主演作ってのは、規制の多いタカラヅカではむずかしいのかもしれないが、うまくハマればとてもオイシイ作品になる。ふたりの役者が競い合うことで、熱気のある深い舞台になるからだ。
たった1時間半でふたりの主役を描くのはむずかしい。だが、不可能ではない。ふたりの男を中心に、腹を据えて描けば、自ずから他の人物たちも見えてくる。多くの出演者たちに役をふるのは困難だが、主役を取り巻くマトリックスを正しく構築すればある程度までは役割が決まるはずだ。
わたしは素人で、外野にいるからこそ無責任にほざいているだけだけどさ。……なんか、ヅカの演出家たちって、どーやって物語を作っているんだろう、って不思議に思えるのよ。ふつーに作ってたらしないよーな失敗ばっかり目につくんだもん。
ふたりの主役を1時間半で描くのがむずかしいなら、ストーリーの方を減らせばいいじゃん。厳選したエピソードのなかで、主役たちをみっちり描けよ。そのエピソードは、できるだけ派手で登場人物が多いものをチョイスする。……それだけで、魅力的な物語は創造可能じゃないのか?
この間の『傭兵ピエール』もそうだけど、ヅカの芝居を見ていて思うのは、物語というモノの本末転倒さ加減。
1枚の大きな絵から、いろんな部分を切り取ってならべただけみたい。
そんなことをする意味が分からない。
その最初の1枚の絵は魅力的なものかもしれないが、そこから切り抜いたものを並べられても、それって「絵」じゃないよ。隣同士の切り抜きは、絵としてつながってないもの。切り抜きはただの切り抜き、そのままじゃただのゴミ。並べただけじゃ、最初の絵になるはずがない。
原作のある作品を舞台化するってのは、原作を切り抜いてただのゴミにすることじゃないでしょ?
新しい作品を1から創りあげるうえでの、企画書でしかないはずでしょ?
どこが必要でなにが不必要かを判断し、「自分で」物語を作ってよ。
つぎはぎで、ひとつの物語としてのつながりや流れが見えない。
そんな印象の作品なんて、どうしてできるの。
1から作っているなら、そんなふうにはならないよね。
はじめからあるモノから、切り抜いて並べることを前提にしているからとしか、思えない。それ、「自分で」作ってないじゃん。
同じ話、同じ主人公しか書くことができない谷せんせ。もちろんこの『野風の笛』も、今までの作品と同じ、固有名詞だけ別の焼き直し作品だった。
主人公は「英雄」。人格はない。周りの人間が彼を褒め称えるだけが、彼の存在価値。何故彼が英雄なのか、周りの人々が彼を褒め称えるのか、理由はない。理由がないからこそ、登場人物たちは二言目には主人公を褒め称える。……そーでもないと、彼が英雄だと観客にわからないからだ。彼には人格がないから、ひとを愛することもない。憎むこともない。美しいだけの人形を真ん中において、残りの登場人物全員で、ただただ褒め称えつづける。
……これが、谷作品のすべて。タイトルがちがっても、全部この話。『アナジ』『エルドラード』『春櫻賦』『ささら笹舟』『バッカスと呼ばれた男』『望郷は海を越えて』『ミケランジェロ』。
『プラハの春』だけはちょっとちがうんだけど……あれ、谷せんせが主役にしたかったのはヤン・パラフだよね。ヤンが主役なら、いつもの谷作品になっていたはず。
英雄になりたかったんだね、谷せんせ。周囲の人たちに誉められたかったんだね。女なんか捨てて、男たちに崇めたてられながら、壮絶な最期を遂げたかったんだね……。
そうして、自分の果てしない欲望を、妄想を、えんえんえんえん、描きつづけるんだね……。
信じられない恥ずかしさだ。
わたしなんか、到底真似できない。
だからこそ、谷作品が好きだった。谷正純という男の抱く妄想が恥ずかしければ恥ずかしいほど、わたしは萌えた。それはある意味、ロマンだったからだ。男は誰しも「永遠の『少年ジャンプ』大好き人間」なのだ。わたしはもう『少年ジャンプ』は読めないが、それを好きで読んでいる人に愛しさを感じたりするんだ。そーゆー恥ずかしい男の恥ずかしいところを、可愛らしく感じるんだ。
谷作品にある『少年ジャンプ』なところが、好きなんだ。
『野風の笛』が「いつもの谷作品」であることは、はじめからわかっていた。いやむしろ、期待していた。
トド様は人格を持たないいつもの英雄だろう。熱愛者や崇拝者たちに囲まれ、いつも褒め称えられているのだろう。そのときの事件によって都合よく行動し、なにもかも彼のすばらしさを称えるだけに終始するから、性格は破綻して見えるだろう。
寿美礼ちゃんの役が、トド様の部下であり親友であると聞いたときから、彼の役所も観る前からわかった。トド様を熱愛し、トド様を褒め称えるだけに存在する二枚目にちがいない。寿美礼ちゃんが好人物であればあるほど、そんなすばらしい男に愛されるトド様の価値が上がる。英雄の価値をあげるためだけに用意された役だ。この男が英雄のために壮絶な死に方をすれば、「あんな立派な男が命を投げ出してまで従った相手は、この世でもっともすばらしい英雄にちがいない」と観客が思いこむだろうという、いやらしい計算で作られた役だ。
観る前からわかっていた。原作も史実も知らないが、谷作品を知っているから、ストーリーなんかわかっていたよ。
……その通りだったさ。『野風の笛』。
溜息。
時間がないのに、無理矢理観に行き、あわてふためいて夜行バスに飛び乗った。
文字数がないので、このつづきはまた明日の欄に。
……なんで「よせばいいのに」なのかというと、この日東京へ旅立つ予定だったから。ムラになんぞ行ってる時間はなかったのに……。
んで、観ましたさ。『野風の笛』と『レヴュー誕生』。
組トップがちゃんといるのにトド様降臨主演という、みょーな公演。その是非は置くとして。
『野風の笛』……。
はじめに言っておく。わたしは、谷正純のファンである。彼の欠点は理解したうえで、愛すべき点を認めているのだ。
あの皆殺し癖は大嫌いだし、人を殺せば感動だと勘違いしているところは創作者として軽蔑している。女を描けない、恋愛を描けない半端ぶりも情けないし、同じ話、同じ主人公しか描けないことも観ていて恥ずかしい。
でもな。
谷センセの、赤面ものの「ベタ」さは美点だと思っているんだ。
ハッタリの威勢のよさというか。
かったるい場面の多さも物語の破綻もキャラクタの人格崩壊も、とりあえずその一瞬忘れさせるような、ハッタリの効いたシーン。よく考えるとめちゃくちゃなんだけど、力尽くで感動に持っていく強引さ。常識とか羞恥心とか持ってたらこうはできないよな、てな、壊れきった展開による強制、「さあ、感動しろ!」。
……それは、力だと思っている。ふつーならあんなベタなこと、恥ずかしくて書けないよ。うん、才能でしょう。
そういう意味で、わたしは谷センセのベッタベタなエンタメ力を評価しているのだ。
そのわたしでも。
今回、ほとほと思ったよ。
もー、見捨てようかな、谷センセ。
ハッタリ以外才能なかったのに。そのハッタリさえ、作品を重ねるごとにショボくなってきている。メッキが剥げたっていうか。
ハッタリの効かなくなった谷作品なんか、ただの駄作じゃん。……いやもちろん、駄作でない谷作品を探す方が困難なのはわかって言ってるのよ。
とりあえず、観ていてこまったわ、『野風の笛』。
この芝居の「おもしろさ」って、どこにあるんだろー? 美しいシーンってのは、どこにあるんだろー?
どこもおもしろくないし、美しくもない。つまらないシーンがつづき、そのくせ物語としてはつぎはぎ感ばかりで全体が見えない。……いつになったら終わるんだろう……苦痛な時間。
もちろん、出演者はがんばっている。彼らひとりひとりは美しい。
だが、そーじゃなくてだな、場面として息をのむよーなおもしろさや美しさはどこにあるんだってことなんだな。
トド様降臨作品、ということは、つまりトド様と寿美礼ちゃんの「W主演」作品ということなんだな、と理解した。寿美礼ちゃんは2番手というより、もうひとりの主役だったからだ。
W主演作ってのは、規制の多いタカラヅカではむずかしいのかもしれないが、うまくハマればとてもオイシイ作品になる。ふたりの役者が競い合うことで、熱気のある深い舞台になるからだ。
たった1時間半でふたりの主役を描くのはむずかしい。だが、不可能ではない。ふたりの男を中心に、腹を据えて描けば、自ずから他の人物たちも見えてくる。多くの出演者たちに役をふるのは困難だが、主役を取り巻くマトリックスを正しく構築すればある程度までは役割が決まるはずだ。
わたしは素人で、外野にいるからこそ無責任にほざいているだけだけどさ。……なんか、ヅカの演出家たちって、どーやって物語を作っているんだろう、って不思議に思えるのよ。ふつーに作ってたらしないよーな失敗ばっかり目につくんだもん。
ふたりの主役を1時間半で描くのがむずかしいなら、ストーリーの方を減らせばいいじゃん。厳選したエピソードのなかで、主役たちをみっちり描けよ。そのエピソードは、できるだけ派手で登場人物が多いものをチョイスする。……それだけで、魅力的な物語は創造可能じゃないのか?
この間の『傭兵ピエール』もそうだけど、ヅカの芝居を見ていて思うのは、物語というモノの本末転倒さ加減。
1枚の大きな絵から、いろんな部分を切り取ってならべただけみたい。
そんなことをする意味が分からない。
その最初の1枚の絵は魅力的なものかもしれないが、そこから切り抜いたものを並べられても、それって「絵」じゃないよ。隣同士の切り抜きは、絵としてつながってないもの。切り抜きはただの切り抜き、そのままじゃただのゴミ。並べただけじゃ、最初の絵になるはずがない。
原作のある作品を舞台化するってのは、原作を切り抜いてただのゴミにすることじゃないでしょ?
新しい作品を1から創りあげるうえでの、企画書でしかないはずでしょ?
どこが必要でなにが不必要かを判断し、「自分で」物語を作ってよ。
つぎはぎで、ひとつの物語としてのつながりや流れが見えない。
そんな印象の作品なんて、どうしてできるの。
1から作っているなら、そんなふうにはならないよね。
はじめからあるモノから、切り抜いて並べることを前提にしているからとしか、思えない。それ、「自分で」作ってないじゃん。
同じ話、同じ主人公しか書くことができない谷せんせ。もちろんこの『野風の笛』も、今までの作品と同じ、固有名詞だけ別の焼き直し作品だった。
主人公は「英雄」。人格はない。周りの人間が彼を褒め称えるだけが、彼の存在価値。何故彼が英雄なのか、周りの人々が彼を褒め称えるのか、理由はない。理由がないからこそ、登場人物たちは二言目には主人公を褒め称える。……そーでもないと、彼が英雄だと観客にわからないからだ。彼には人格がないから、ひとを愛することもない。憎むこともない。美しいだけの人形を真ん中において、残りの登場人物全員で、ただただ褒め称えつづける。
……これが、谷作品のすべて。タイトルがちがっても、全部この話。『アナジ』『エルドラード』『春櫻賦』『ささら笹舟』『バッカスと呼ばれた男』『望郷は海を越えて』『ミケランジェロ』。
『プラハの春』だけはちょっとちがうんだけど……あれ、谷せんせが主役にしたかったのはヤン・パラフだよね。ヤンが主役なら、いつもの谷作品になっていたはず。
英雄になりたかったんだね、谷せんせ。周囲の人たちに誉められたかったんだね。女なんか捨てて、男たちに崇めたてられながら、壮絶な最期を遂げたかったんだね……。
そうして、自分の果てしない欲望を、妄想を、えんえんえんえん、描きつづけるんだね……。
信じられない恥ずかしさだ。
わたしなんか、到底真似できない。
だからこそ、谷作品が好きだった。谷正純という男の抱く妄想が恥ずかしければ恥ずかしいほど、わたしは萌えた。それはある意味、ロマンだったからだ。男は誰しも「永遠の『少年ジャンプ』大好き人間」なのだ。わたしはもう『少年ジャンプ』は読めないが、それを好きで読んでいる人に愛しさを感じたりするんだ。そーゆー恥ずかしい男の恥ずかしいところを、可愛らしく感じるんだ。
谷作品にある『少年ジャンプ』なところが、好きなんだ。
『野風の笛』が「いつもの谷作品」であることは、はじめからわかっていた。いやむしろ、期待していた。
トド様は人格を持たないいつもの英雄だろう。熱愛者や崇拝者たちに囲まれ、いつも褒め称えられているのだろう。そのときの事件によって都合よく行動し、なにもかも彼のすばらしさを称えるだけに終始するから、性格は破綻して見えるだろう。
寿美礼ちゃんの役が、トド様の部下であり親友であると聞いたときから、彼の役所も観る前からわかった。トド様を熱愛し、トド様を褒め称えるだけに存在する二枚目にちがいない。寿美礼ちゃんが好人物であればあるほど、そんなすばらしい男に愛されるトド様の価値が上がる。英雄の価値をあげるためだけに用意された役だ。この男が英雄のために壮絶な死に方をすれば、「あんな立派な男が命を投げ出してまで従った相手は、この世でもっともすばらしい英雄にちがいない」と観客が思いこむだろうという、いやらしい計算で作られた役だ。
観る前からわかっていた。原作も史実も知らないが、谷作品を知っているから、ストーリーなんかわかっていたよ。
……その通りだったさ。『野風の笛』。
溜息。
時間がないのに、無理矢理観に行き、あわてふためいて夜行バスに飛び乗った。
文字数がないので、このつづきはまた明日の欄に。
コメント