だからわたしは劇場へ行く。@花組新人公演『マラケシュ・紅の墓標』
2005年4月12日 タカラヅカ 絶好調でギャグ芝居『さすらいの果てに』の感想を書いているところだが、日付の関係で本日は花組新人公演『マラケシュ・紅の墓標』の話。
……そーいや本公演の感想もまだ書いていないよーな気もするが……まあいいか。
☆
温度の上がる瞬間、てのがあると思う。
ナマモノ−−ライヴであることの醍醐味。
映像を一方的に眺めるのではなく、同じ空間を共有するということ。
それがあるから、この映像の進化した時代に「舞台」なんちゅーエンタメが存続しているのだろう。
クリエイター荻田浩一の、はじめての「新人公演」。
そーなんだよ、オギーってばキャリアはもうそこそこ重ねてきているっていうのに、新人公演ははじめてなんだよ!
今さら説明するのもなんだが、新公ってのは、本公があったうえで存在するものだ。
宝塚大劇場で上演される公演を、1日だけ研究科7年以下の若手たちだけで上演する。衣装も舞台セットもなにもかも本公演まんまに。
キャスト以外はすべて、本公演と同じ。
つまり、本公上演経験がない作家の作品は、新公もない。
バウホールその他のハコで何本芝居を作っていようと、新公はない。
オギーはバウホール作家であり、ショー作家だ。
バウホール作品に、新公はない。いくら大劇場作品でも、通常ショーは新公にならない。
オギーは、大劇場で以前一度だけ芝居を上演している。
しかし。
そのときの新公は、芝居ではなく名作ショー『ノバ・ボサ・ノバ』だった。芝居『螺旋のオルフェ』ではなく。
だからこの期に及んで、はじめてなんだ。オギーの新公って。
オギーの独特の作品を、別キャストで観られる。
この意義は、大きい。
なにしろオギーは、同タイトルの同作品でも、キャストが替わると新キャスト用に新作と言っていいくらいのアレンジをしてしまう人なので。
純粋な「役替わり公演」は、はぢめてだ。
さあ、いったいどうなるのか。
結論から言えば、役替わり公演などではなく、ほんとに純粋に「新人公演」だった。
キャストに合わせた変更皆無。
淡々と本公のコピーをしていた。演出も演技もテイストも。
なるほど、こうくるのか。
それはそれで、いろいろ感慨深いし、おもしろい。
主役リュドヴィーク@朝夏まなと。2002年初舞台の研4、たぶんまだハタチ……。
こんな若い若いお嬢さんが、いきなり主役に抜擢されてびっくりだ。
えー、男役で若い子のまさかの抜擢って、いつ以来だ? 研4以下で主役やったのって、最近では2001年の音月桂ぐらい? 20世紀のうちは、きりやん、タニ、水といろいろ抜擢してたけどさー。
最近は手堅く研6や7でよーやく主演、それでもいっぱいいっぱいだよねえ。
研4で抜擢といったって、キムくんはそれまでも十分抜擢されていた。研2のときからトウコの役をやっていたりしたわけだからな。研4で主演が来ても、それほど早すぎた感はない。
大型新人として早くから注目されていたれおんだって、研5でよーやく主演。
しかしまなとくんは、マジで抜擢だ。だって前回の新公でも、名前のある役やってないよねえ? 群衆とかやっていたよねえ?
観た人が極端に少ないバウホール公演『くらわんか』の、いちばん知名度の低い役替わり配役(初日も楽も含まない、映像にも残らないパターン)で、2番手の貧ちゃん役をしただけ。
そんな子が、突然主役。
それだけで、ドラマだわ(笑)。
まさかの抜擢、ヲイヲイ主役ハタチの小僧だってぇ、大丈夫かよぅ、大人の男が演じられるのかぁ? とか、観客の期待を懸念を一斉に受けての1時間半。
立ち姿の美しさ、スーツの着こなし、演技、歌、すべてふつーに新公メインキャスト・レベル。
とくにこれといった破綻もなく、これといった売りもなく。
もちろん、その若さ、突然の抜擢を受けてこのレベルを見せているのだ、ということ自体が売りと言えるだろう。
しかし不思議なもので、「若さ」以外に破綻のないキャラは新鮮味に欠けるのだ(笑)。
むしろ、レオン@みつるの愉快にブッちぎれている歌や、登場時から変態ムード最高潮のギュンター@りせの方が、話題になったりする。
まなとくんはいろいろと「ふつー」だから、ふつーに流して観てしまいそうだなあ、てな。
そのふつーに若くてきれーで破綻のない主役がだ。
どんどん、役に入り込んでくるのがわかるのな。
彼のまとう緊張感ゆえ観客も拳握って観ていたんだが、観客が「なあーんだ、ふつーにやれる子なんだ」と緊張を解いていくのに比例して、彼も「役」に入っていく。
ライヴだということ。
同じ空間を共有しているということ。
彼は「役」に入り、動き出す。
折りも折り、無理な大人の演技、厭世観が必要なマラケシュの場面が終わり、等身大の姿で勝負できるパリの回想シーンになる。
田舎から出てきた青年が、ステージスターに恋をする。
はじめは高嶺の花。手の届かない大輪の花。
しかしどんな巡り合わせなのか、彼の一途な瞳に彼女が振り返り、ふたりはあるがままの姿で向かい合う。
舞台の上のスターと、裏方の掃除夫としてではなく。
ひとりの男と女として、恋をする者同士として、向かい合う。
温度の上がる瞬間、てのがあると思う。
リュドヴィークとイヴェット@きほちゃんが見つめ合い、歌い出したそのときに、温度が上がった。
あ、舞台が変わった。リュドヴィークが、イヴェットが、変わった。
空気が動く。
熱が動く。
ふたりの間にある熱、ひとりでは出せない熱。
見つめ合ったときに、なにかが起こった。
うわ。
気持ちいい。
今、ここにいるということ。
同じ空間を共有しているということ。
ひとは、ひとを動かす力がある。
感動させる力がある。
もちろんそれは技術も大きいけれど、それ以外の部分もある。それが、ナマの舞台……ライヴのおもしろいところだ。
茶の間でビデオを見ているだけじゃわからない、皮膚感覚。
それがあるから、どんなに映像技術が発達しても、完璧なSFXがあってもCGがあっても、ひとはひとの演じる生の舞台を観に行くのだろー。
なにはともあれ、初主演おめでとー、貧ちゃん。
涙をこぼしながらの挨拶に、どれだけの想いを乗り越えて君がここに立っているのか、逃げずに戦い抜いて、立っているのかがあらためてわかったよ。
キャストの成長を見守るのが、ヅカの楽しみ方のひとつ。まなとくんの成長過程は、きっと多くのヅカファンをたのしませることでしょうな。
……そーいや本公演の感想もまだ書いていないよーな気もするが……まあいいか。
☆
温度の上がる瞬間、てのがあると思う。
ナマモノ−−ライヴであることの醍醐味。
映像を一方的に眺めるのではなく、同じ空間を共有するということ。
それがあるから、この映像の進化した時代に「舞台」なんちゅーエンタメが存続しているのだろう。
クリエイター荻田浩一の、はじめての「新人公演」。
そーなんだよ、オギーってばキャリアはもうそこそこ重ねてきているっていうのに、新人公演ははじめてなんだよ!
今さら説明するのもなんだが、新公ってのは、本公があったうえで存在するものだ。
宝塚大劇場で上演される公演を、1日だけ研究科7年以下の若手たちだけで上演する。衣装も舞台セットもなにもかも本公演まんまに。
キャスト以外はすべて、本公演と同じ。
つまり、本公上演経験がない作家の作品は、新公もない。
バウホールその他のハコで何本芝居を作っていようと、新公はない。
オギーはバウホール作家であり、ショー作家だ。
バウホール作品に、新公はない。いくら大劇場作品でも、通常ショーは新公にならない。
オギーは、大劇場で以前一度だけ芝居を上演している。
しかし。
そのときの新公は、芝居ではなく名作ショー『ノバ・ボサ・ノバ』だった。芝居『螺旋のオルフェ』ではなく。
だからこの期に及んで、はじめてなんだ。オギーの新公って。
オギーの独特の作品を、別キャストで観られる。
この意義は、大きい。
なにしろオギーは、同タイトルの同作品でも、キャストが替わると新キャスト用に新作と言っていいくらいのアレンジをしてしまう人なので。
純粋な「役替わり公演」は、はぢめてだ。
さあ、いったいどうなるのか。
結論から言えば、役替わり公演などではなく、ほんとに純粋に「新人公演」だった。
キャストに合わせた変更皆無。
淡々と本公のコピーをしていた。演出も演技もテイストも。
なるほど、こうくるのか。
それはそれで、いろいろ感慨深いし、おもしろい。
主役リュドヴィーク@朝夏まなと。2002年初舞台の研4、たぶんまだハタチ……。
こんな若い若いお嬢さんが、いきなり主役に抜擢されてびっくりだ。
えー、男役で若い子のまさかの抜擢って、いつ以来だ? 研4以下で主役やったのって、最近では2001年の音月桂ぐらい? 20世紀のうちは、きりやん、タニ、水といろいろ抜擢してたけどさー。
最近は手堅く研6や7でよーやく主演、それでもいっぱいいっぱいだよねえ。
研4で抜擢といったって、キムくんはそれまでも十分抜擢されていた。研2のときからトウコの役をやっていたりしたわけだからな。研4で主演が来ても、それほど早すぎた感はない。
大型新人として早くから注目されていたれおんだって、研5でよーやく主演。
しかしまなとくんは、マジで抜擢だ。だって前回の新公でも、名前のある役やってないよねえ? 群衆とかやっていたよねえ?
観た人が極端に少ないバウホール公演『くらわんか』の、いちばん知名度の低い役替わり配役(初日も楽も含まない、映像にも残らないパターン)で、2番手の貧ちゃん役をしただけ。
そんな子が、突然主役。
それだけで、ドラマだわ(笑)。
まさかの抜擢、ヲイヲイ主役ハタチの小僧だってぇ、大丈夫かよぅ、大人の男が演じられるのかぁ? とか、観客の期待を懸念を一斉に受けての1時間半。
立ち姿の美しさ、スーツの着こなし、演技、歌、すべてふつーに新公メインキャスト・レベル。
とくにこれといった破綻もなく、これといった売りもなく。
もちろん、その若さ、突然の抜擢を受けてこのレベルを見せているのだ、ということ自体が売りと言えるだろう。
しかし不思議なもので、「若さ」以外に破綻のないキャラは新鮮味に欠けるのだ(笑)。
むしろ、レオン@みつるの愉快にブッちぎれている歌や、登場時から変態ムード最高潮のギュンター@りせの方が、話題になったりする。
まなとくんはいろいろと「ふつー」だから、ふつーに流して観てしまいそうだなあ、てな。
そのふつーに若くてきれーで破綻のない主役がだ。
どんどん、役に入り込んでくるのがわかるのな。
彼のまとう緊張感ゆえ観客も拳握って観ていたんだが、観客が「なあーんだ、ふつーにやれる子なんだ」と緊張を解いていくのに比例して、彼も「役」に入っていく。
ライヴだということ。
同じ空間を共有しているということ。
彼は「役」に入り、動き出す。
折りも折り、無理な大人の演技、厭世観が必要なマラケシュの場面が終わり、等身大の姿で勝負できるパリの回想シーンになる。
田舎から出てきた青年が、ステージスターに恋をする。
はじめは高嶺の花。手の届かない大輪の花。
しかしどんな巡り合わせなのか、彼の一途な瞳に彼女が振り返り、ふたりはあるがままの姿で向かい合う。
舞台の上のスターと、裏方の掃除夫としてではなく。
ひとりの男と女として、恋をする者同士として、向かい合う。
温度の上がる瞬間、てのがあると思う。
リュドヴィークとイヴェット@きほちゃんが見つめ合い、歌い出したそのときに、温度が上がった。
あ、舞台が変わった。リュドヴィークが、イヴェットが、変わった。
空気が動く。
熱が動く。
ふたりの間にある熱、ひとりでは出せない熱。
見つめ合ったときに、なにかが起こった。
うわ。
気持ちいい。
今、ここにいるということ。
同じ空間を共有しているということ。
ひとは、ひとを動かす力がある。
感動させる力がある。
もちろんそれは技術も大きいけれど、それ以外の部分もある。それが、ナマの舞台……ライヴのおもしろいところだ。
茶の間でビデオを見ているだけじゃわからない、皮膚感覚。
それがあるから、どんなに映像技術が発達しても、完璧なSFXがあってもCGがあっても、ひとはひとの演じる生の舞台を観に行くのだろー。
なにはともあれ、初主演おめでとー、貧ちゃん。
涙をこぼしながらの挨拶に、どれだけの想いを乗り越えて君がここに立っているのか、逃げずに戦い抜いて、立っているのかがあらためてわかったよ。
キャストの成長を見守るのが、ヅカの楽しみ方のひとつ。まなとくんの成長過程は、きっと多くのヅカファンをたのしませることでしょうな。
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