総合芸術のような彼。@長崎しぐれ坂
2005年6月23日 タカラヅカ ガイチの退団発表で、すっかり『長崎…』を語る気概が失せ、ゲームのコントローラを握ってしまったが。
『九怨』、電波ねーちゃんに2連続でヌッコロされてゲームオーバーになったので(今、咲耶シナリオ。「うふふ」「あはは」のバカップル合体形を倒したあと、ねーちゃんに殺された……)、疲れ切って電源を落とす。
頭の体操をするためにも、『長崎しぐれ坂』の失敗について考えてみよう。
テーマは、卯之助とゆーキャラクタの歪み方について。
この作品において、卯之助が二面性を持つことが、植爺のこだわりなんだと思う。
「伊佐次をこの手で捕まえる」と公言する、岡っ引きとしての顔。
「伊佐次を愛し、守りたい」と思う、ほんとうの顔。
この二面性はアリだと思う。作劇上において。
だがそれをやるならば、「ルール」を明確にしなければならない。
すなわち、表の顔を見せるべき相手と、真の顔を見せるべき相手の区別。
奉行所の人間たちに「表の顔」で通す。伊佐次はこの手で捕まえると言い続ける。
これは、正しい。
次、伊佐次の仲間たち。
彼らには、どの顔を見せるべきか。
「真の顔」を見せてもいいが、万が一にも情報が漏れてはまずいので、ここでもあえて「表の顔」で通す。
これも、正しい。
だが、当の伊佐次に対して。
「表の顔」で通す意味は、どこにある?
卯之助は伊佐次の味方だ。彼を守ることしか考えていない。
なのに何故、伊佐次本人にも「敵」のふりをしなければならない?
伊佐次の仲間たちに対して「情報が漏れてはいけない」という危惧を持っているのと同じ理由だろうか。
味方だと伊佐次本人に知らせてしまっては、どうしても馴れ合いが生じる。それで他人に疑問を持たれてはいけない。
という意味だろうか。
それはアリだと思う。
ほんとーに伊佐次を守るつもりなら、自分は泥をかぶるつもりなら、伊佐次本人相手にも嘘を突き通し、「表の顔」で通すのは筋が通っている。
だがそれは。
絶対に、馴れ合わないという前提でだ。
あの。
卯之助、めっちゃ馴れ合ってますがな、伊佐兄と。
いちゃいちゃしまくっておきながら、何故「敵のふり」なの?
意味ないでしょ、ソレ。
はい、ここでひとつ、破綻。
卯之助が気持ち悪い男になっている理由。
伊佐次を守るために、本人にさえ知らせずに「敵役」をやっているならば、敵に徹しなければならない。
相手のために泥を被る、という「きれいごと」を口にしながら、ちっとも泥を被っていない。
しっかりオイシイ思いをしている。
言っていることと、やっていることがバラバラ。偽善者。
今のままでは、
「風俗店の取り締まりが仕事だが、キャバクラの女の子たちにきゃーきゃー言われるのはたのしいし気持ちいいから、役得しておこう。でも、取り締まりが仕事だからな。肉体接待も受けるけど、いざとなったらみんな逮捕だ、ははは」
と、言ってる警察の人、と同じだよなー。気持ちいいことだけは甘受して、そのくせ「仕事」とか「役目」を振りかざしている。
どの人にどの「顔」を見せるか。その理由はなにか。それによって、どんな言動を取るか。
「二面性」を描くならば、ルールが必要。これが確立していないと、めちゃくちゃになる。数学的な問題だな。1+1=2、みたいな、歴然とした話。
植爺には、その理念がない。
アタマ悪い人は、ややこしい話は描こうとしない方がボロが出なくていいんだけどな……。
伊佐次といちゃいちゃさせたいのなら、はじめから伊佐次にだけは「真の顔」を見せておくべきだった。
ひとの目のあるところでは敵同士(多少の軽口はOK)で通し、ふたりっきりになると、気の置けない幼なじみに戻る。
これならルールは破綻しないし、卯之助も偽善者にならないですむ。
しかし植爺は、最初にあげた通り「二面性」にこだわっている。
クライマックスで、卯之助が真実を告白し「そうだったのか!」と伊佐次と観客を「あっ」と言わせることが、目的だったのだろう。
それならばなおさら、卯之助は「表の顔」を徹底しなければならなかった。
伊佐次や観客が「あっ」と驚くほど完璧に、冷徹に、「敵」に徹さなければ意味がない。
中途半端なこうもり野郎が、「実は伊佐次の味方だった」と告白してもやっぱりなとあきれられるだけだ。
ここでも、破綻。
せっかくの「二面性」によるカタルシスがない。
もちろん、「実は味方だった」とどんでん返しをやるためには、伏線が必要だ。まったくの「敵」ではなく、あちこちに「ん?」と思わせるような、「引っかかり」を作っておくのがセオリーだ。あとになって、「そうだったのか! だから、あそこでああ言ってたんだ」とか思わせるよーな。
推理小説のような、仕掛けが必要なんだ。
植爺はいちおー、ソレを試みてはいるようだ。ことごとく、失敗してるが。
植爺的「仕掛け」は、すべて卯之助の言動不一致と挙動不審のことである。
伊佐次のことを敵だと言ってみたり、そのくせその身を案じてみたり。この人、心の病気かしら? てな、わけのわからない言動を、「推理小説の仕掛け」的な意味合いで使っている。
ソレちがうから! そんなの、伏線でもなんでもないから! ただのご都合主義だから!
ここでも、破綻。
どんでん返しのための伏線、を正しく構築できず、素人臭いその場しのぎの展開でお茶を濁す。
と、ここまでももう取り返しがつかないくらい華麗に大失敗してるんだが、そこにもうひとつ、「演出の問題」を加えたいと思う。
構成がここまでまちがえまくっていても、まだ最低限、卯之助をマシなキャラクタにすることはできる。
壊れた脚本を渡されたとしても、それをどう演出するかで変わってくるからだ。
たとえば、上で例に挙げた「風俗取り締まりの警察官」。
取り締まる、と口では言いながら、女の子の肉体接待はよろこんで受ける、みたいな男。女の子たちは、お目こぼしが欲しくて彼にコビを売る。
最悪の循環。
この警官が、へらへら笑って卑屈に軽薄で、「でもオレは警官だ、取り締まるぜ」と、さんざん女の子を弄んだあとでかっこつけるのと、どっしり構えて変に気取らない骨のある態度でいるのとでは、どうだろう?
印象がまったく変わるはずだ。
卯之助は何故か、最悪にもへらへら笑って卑屈に軽薄にふるまう。「密告」という最低な行為をするときも、やはり卑屈な態度を取る。そのくせ、あちこちでかっこつける。
もちろん、卯之助が最悪な男であるならソレで構わないが、植爺は「かっこいい男」だと思って描いている。
ならば何故、ああまで卑屈な男として演出するんだ? ずっと一貫して卑屈なら「そういう性格」ですむが、なまじあちこちで二枚目ぶるのが不可解だ。
それがまた、彼の卑劣さをクローズアップする。
と、演出面においても、破綻。
卯之助の壊れ方は、半端じゃない。
二重三重に壊れ、いろんな要素が集まっての総合芸術のような気持ち悪さだ。
ある意味すごい。
『九怨』、電波ねーちゃんに2連続でヌッコロされてゲームオーバーになったので(今、咲耶シナリオ。「うふふ」「あはは」のバカップル合体形を倒したあと、ねーちゃんに殺された……)、疲れ切って電源を落とす。
頭の体操をするためにも、『長崎しぐれ坂』の失敗について考えてみよう。
テーマは、卯之助とゆーキャラクタの歪み方について。
この作品において、卯之助が二面性を持つことが、植爺のこだわりなんだと思う。
「伊佐次をこの手で捕まえる」と公言する、岡っ引きとしての顔。
「伊佐次を愛し、守りたい」と思う、ほんとうの顔。
この二面性はアリだと思う。作劇上において。
だがそれをやるならば、「ルール」を明確にしなければならない。
すなわち、表の顔を見せるべき相手と、真の顔を見せるべき相手の区別。
奉行所の人間たちに「表の顔」で通す。伊佐次はこの手で捕まえると言い続ける。
これは、正しい。
次、伊佐次の仲間たち。
彼らには、どの顔を見せるべきか。
「真の顔」を見せてもいいが、万が一にも情報が漏れてはまずいので、ここでもあえて「表の顔」で通す。
これも、正しい。
だが、当の伊佐次に対して。
「表の顔」で通す意味は、どこにある?
卯之助は伊佐次の味方だ。彼を守ることしか考えていない。
なのに何故、伊佐次本人にも「敵」のふりをしなければならない?
伊佐次の仲間たちに対して「情報が漏れてはいけない」という危惧を持っているのと同じ理由だろうか。
味方だと伊佐次本人に知らせてしまっては、どうしても馴れ合いが生じる。それで他人に疑問を持たれてはいけない。
という意味だろうか。
それはアリだと思う。
ほんとーに伊佐次を守るつもりなら、自分は泥をかぶるつもりなら、伊佐次本人相手にも嘘を突き通し、「表の顔」で通すのは筋が通っている。
だがそれは。
絶対に、馴れ合わないという前提でだ。
あの。
卯之助、めっちゃ馴れ合ってますがな、伊佐兄と。
いちゃいちゃしまくっておきながら、何故「敵のふり」なの?
意味ないでしょ、ソレ。
はい、ここでひとつ、破綻。
卯之助が気持ち悪い男になっている理由。
伊佐次を守るために、本人にさえ知らせずに「敵役」をやっているならば、敵に徹しなければならない。
相手のために泥を被る、という「きれいごと」を口にしながら、ちっとも泥を被っていない。
しっかりオイシイ思いをしている。
言っていることと、やっていることがバラバラ。偽善者。
今のままでは、
「風俗店の取り締まりが仕事だが、キャバクラの女の子たちにきゃーきゃー言われるのはたのしいし気持ちいいから、役得しておこう。でも、取り締まりが仕事だからな。肉体接待も受けるけど、いざとなったらみんな逮捕だ、ははは」
と、言ってる警察の人、と同じだよなー。気持ちいいことだけは甘受して、そのくせ「仕事」とか「役目」を振りかざしている。
どの人にどの「顔」を見せるか。その理由はなにか。それによって、どんな言動を取るか。
「二面性」を描くならば、ルールが必要。これが確立していないと、めちゃくちゃになる。数学的な問題だな。1+1=2、みたいな、歴然とした話。
植爺には、その理念がない。
アタマ悪い人は、ややこしい話は描こうとしない方がボロが出なくていいんだけどな……。
伊佐次といちゃいちゃさせたいのなら、はじめから伊佐次にだけは「真の顔」を見せておくべきだった。
ひとの目のあるところでは敵同士(多少の軽口はOK)で通し、ふたりっきりになると、気の置けない幼なじみに戻る。
これならルールは破綻しないし、卯之助も偽善者にならないですむ。
しかし植爺は、最初にあげた通り「二面性」にこだわっている。
クライマックスで、卯之助が真実を告白し「そうだったのか!」と伊佐次と観客を「あっ」と言わせることが、目的だったのだろう。
それならばなおさら、卯之助は「表の顔」を徹底しなければならなかった。
伊佐次や観客が「あっ」と驚くほど完璧に、冷徹に、「敵」に徹さなければ意味がない。
中途半端なこうもり野郎が、「実は伊佐次の味方だった」と告白してもやっぱりなとあきれられるだけだ。
ここでも、破綻。
せっかくの「二面性」によるカタルシスがない。
もちろん、「実は味方だった」とどんでん返しをやるためには、伏線が必要だ。まったくの「敵」ではなく、あちこちに「ん?」と思わせるような、「引っかかり」を作っておくのがセオリーだ。あとになって、「そうだったのか! だから、あそこでああ言ってたんだ」とか思わせるよーな。
推理小説のような、仕掛けが必要なんだ。
植爺はいちおー、ソレを試みてはいるようだ。ことごとく、失敗してるが。
植爺的「仕掛け」は、すべて卯之助の言動不一致と挙動不審のことである。
伊佐次のことを敵だと言ってみたり、そのくせその身を案じてみたり。この人、心の病気かしら? てな、わけのわからない言動を、「推理小説の仕掛け」的な意味合いで使っている。
ソレちがうから! そんなの、伏線でもなんでもないから! ただのご都合主義だから!
ここでも、破綻。
どんでん返しのための伏線、を正しく構築できず、素人臭いその場しのぎの展開でお茶を濁す。
と、ここまでももう取り返しがつかないくらい華麗に大失敗してるんだが、そこにもうひとつ、「演出の問題」を加えたいと思う。
構成がここまでまちがえまくっていても、まだ最低限、卯之助をマシなキャラクタにすることはできる。
壊れた脚本を渡されたとしても、それをどう演出するかで変わってくるからだ。
たとえば、上で例に挙げた「風俗取り締まりの警察官」。
取り締まる、と口では言いながら、女の子の肉体接待はよろこんで受ける、みたいな男。女の子たちは、お目こぼしが欲しくて彼にコビを売る。
最悪の循環。
この警官が、へらへら笑って卑屈に軽薄で、「でもオレは警官だ、取り締まるぜ」と、さんざん女の子を弄んだあとでかっこつけるのと、どっしり構えて変に気取らない骨のある態度でいるのとでは、どうだろう?
印象がまったく変わるはずだ。
卯之助は何故か、最悪にもへらへら笑って卑屈に軽薄にふるまう。「密告」という最低な行為をするときも、やはり卑屈な態度を取る。そのくせ、あちこちでかっこつける。
もちろん、卯之助が最悪な男であるならソレで構わないが、植爺は「かっこいい男」だと思って描いている。
ならば何故、ああまで卑屈な男として演出するんだ? ずっと一貫して卑屈なら「そういう性格」ですむが、なまじあちこちで二枚目ぶるのが不可解だ。
それがまた、彼の卑劣さをクローズアップする。
と、演出面においても、破綻。
卯之助の壊れ方は、半端じゃない。
二重三重に壊れ、いろんな要素が集まっての総合芸術のような気持ち悪さだ。
ある意味すごい。
コメント