宙組公演の感想を書いていない。

 いい作品だったら鼻息荒く早々に書いていただろうけど、なにしろアレな出来だったので、書くのが面倒で先送りしてしまった。

 面倒、というのは、宙組公演に対してじゃないよ。
 今回の作品がどうアレなのか、それを論理立てて説明するのがものすげー労力を必要とする類のアレさだから面倒、って意味ね。
 『ベルばら』みたいに「クレーンペガちゃんの上で、コムちゃんオスカルが手を振るんだよ?! 最悪!!」と、わかりやすい駄作じゃないんだもの。

 宙組公演『NEVER SAY GOODBYE−ある愛の軌跡−』
 天下のフランク・ワイルドホーン作曲、「演出」で高い評価を受ける小池修一郎の「オリジナル」新作。

 なんつーかねぇ。
 小池氏に対し、とてもとほほなものを感じました(笑)。

 『NEVER SAY GOODBYE』を観て、思い出したモノがある。強烈なデジャヴ。
 映画『CASSHERN』。

 ストーリーとか設定が似てるって意味じゃないよ。
 そのテイスト。

 ものすごーく大袈裟で、「高尚な深淵な独創的な非凡なことを言っている」よーな作りなんだけど、じつはなーんにも「言いたいこと」がない。

 なにか言いたい、伝えたいことがあって叫んでいるのではなく、「高尚な深淵な独創的な非凡なことを言っているって素晴らしい!」とゆーよーな作り、ってことね。

 見ていて、「言いたいことがないなら、無理して言わなくていいのに……」と、なまあたたかい気持ちになった、あの映画。

 『ネバー』を観ていて、なんかに似てる、なんかを思い出す、なんだっけなんだっけ……そうか、『CASSHERN』だ!!と、思い至ったときは、あまりのハマリ具合に感動したね(笑)。
 kineさんに言うと、彼女も大ウケしながら同意してくれました。あの映画を見てとほほ感を味わった人には、通じるみたいだ。ありがとう共通言語。
 

 小池修一郎は、とても才能のある演出家だ。『エリザベート』の成功もそうだし、今回の『ネバー』にしたって、その実力の高さを如実にしている。
 でもなー。演出力と、物語を作る力は、まったく別の才能だからなー。
 そりゃ、両方を持ち合わせている人もいくらでもいるだろうけれど、小池はそうじゃない。それだけのことなのに。

 マンガで言えば、少年マンガとかによくあるじゃん、「原作」と「マンガ」が別の人っていうの。『北斗の拳』とかもそうだよね。
 物語を書く人と、絵を描く人が別。だからといって、絵だけを描いている人が劣っているとか、そーゆーわけじゃない。文章を「マンガ」にするのはそのマンガ家さんの力であり、演出力なんだから。『北斗の拳』が誰か別の人の作画だったら、あんなにヒットしたかどうかわからないぞっと。(最近のアニメ映画『北斗の拳』には、言いたいこといろいろですが・笑)

 小池せんせーは、「作家」になりたいんだね。
 どれだけ「演出家」として高い評価を得ていても、それだけではなく、「作家」になりたいんだね。

 小池くらい演出力があれば、「物語を作る力」が大してなくても、ある程度まではなんとかなる。
 ノリや雰囲気だけで乗り切る系の他愛ない話なら、演出のノウハウのみでなんとかできる。

 でも、チガウんだね。小池がなりたいのはそーゆー作家ではなくて。

 自分でキャラクタを作り、出来事を動かし、テーマを伝える。自分の想いを表現し、それによって他人にはたらきかける作家。
 そのなかでもさらに、強い主張を持った、作品によって人々を啓蒙できるよーなカリスマ系の作家に、なりたいんだね……。
 よりによってね……。

 「作家」とひとくくりに言っても、誰も彼もが、
「コレが言いたい! コレを言いたくて、そのための表現方法としてこの物語を作った。世界よ、オレの叫びを聴けぇええ!!」
 とゆー人ばっかじゃないんだけどな。
 もっとふつーに、ささやかな共感や一時たのしませることを目的に、物語を作る作家だってアリなんだけど。

 もちろんわたしは、その確固たる主張で、「コレが書きたいっ、コレが言いたいっ」と鼻息荒い人の作品が好きだけどね。書きたいモノもないのに、なんとなーく書いたモノより絶対そっちの方が、たとえ失敗していたとしてもたのしめる作品になると思っているクチだけど。だから、そっちにあこがれる気持ちはわかるんだけど。

 えー、人間、向き不向きがありまして。
 なりたいからといって、なれるもんぢゃない。

 できないことにチャレンジするのはアリだと思っているけれど、主張したいこともないのに、ファッションでそれらしいことを主張するのは、やめとこうよ。

 いくら、「叫ぶ人」になりたいからってさぁ。「叫ぶ人」にあこがれてるからってさぁ。闇雲に叫んでも、意味ないよ〜〜。

 という、とほほ感で、感想を書くのを後回しにしてました。今回の宙組公演。

 
「まあ今回の作品は、社会派で、タカラヅカらしくないですからね。いかにもタカラヅカ!なものを求めている人には、おもしろくないんじゃないですか?」
 とか、言われたんですけど。
 いやいやいや、そーゆー問題ぢゃないから(笑)。

 まず、「社会派」ではありえませんよ。『CASSHERN』が「社会派」作品でなかったように。
 そりゃね、「社会派」だとかっこいいなー、と思って作ってることはわかるけど。望んだことは「社会派」と呼ばれることであって、ほんとーの意味で社会派の脚本を書いたわけぢゃないって。
 それが透けて見えるあたりがもー、かっこわるっいちゅーか、小池かわいいな、というか。
 小池、誘い受?!(笑)

 「タカラヅカらしくない」というのも、よくわかんないカテゴライズだ。
 わたしにとってのもっとも「タカラヅカらしくないもの」は、主人公たちに「愛」がないもののことだ。ほれ、この間バウでやっていた『スカウト』とかな。(自虐的なネタふり)出てくるキャラクタに「愛」も「心」もなかったら、それはすなわち「タカラヅカではない」。どんな時代になろうとも、ヅカだけは「愛」を歌うべきだと思っている。
 どれだけ他が壊れていても、間違っていても、最低限コレだけはクリアしていなければ、「タカラヅカ」で上演してはならないと思う。あ、『スカウト』は、脚本の不誠実さを、キャストが力尽くでフォローしてたからセーフだと思ってるよ。主役が愛がだだ漏れのらんとむ氏でよかった。

 とりあえず、そこに「愛」があること。
 そのうえで、「画面が美しいこと」だな。
 現実離れした八頭身の美男美女が美しい衣装で愛を語るところが、ヅカの醍醐味、存在意義。江戸のびんぼー長屋の話であっても、パリの下町の話であっても、インドの下層民の話であっても、とにかく美しくなきゃ。
 わっかのドレスのお姫様とフリルきらきらの王子様の話、てのは「ヅカらしい」もののひとつでしかない。ジャンルのなかのたったひとつをあげて、「お姫様が出てこないから、ヅカらしくない」というのはおかしい。

 『ネバー』には、「愛」がある。
 主人公ふたりは、愛し合っている。
 むしろ、ソレしかない。
 スペイン内戦を背景にしているが、ほんっとーにただ「背景」なだけで、「社会派」でも「歴史物」でもなく、とても小さな「男と女の恋愛モノ」になってしまっている。
 これって典型的な「タカラヅカ」ぢゃん。

 でもって画面がきれい。美しい人たちが、美しい衣装を着て美しいことをやっている。
 完璧に「タカラヅカらしい」作品。

 
 わたしがこの作品に萎えるのは、「社会派」であるからでも「タカラヅカらしくない」からでもなく、作者が「社会派」で「タカラヅカらしくない」作品だと言われたくて、叫びたいこともないのに「叫ぶことがかっこいいから」と無理矢理叫んで見せている、よーに感じられるから、なのよ。
 ステイタスが欲しくて書いてるから、「社会派」っぽいふりをするために気を散らしているから、肝心の「愛」の部分が足りなくなっている。
 ただでさえ書いていることは男と女の狭い恋愛なのに、それが薄く浅くなっているんだよ。
 それだから、最初に公演を観た友人の感想が、「『不滅の恋人たちへ』みたい」になっちゃうんだよ。「『不滅の恋人たちへ』と『カステル・ミラージュ』を足したよーな話」って、ソレ、駄作って言われてるよーなもんぢゃん? 小池修一郎ともあろうものが、太田哲則と一緒にされたらイカンでしょう。
 とほほだわ。

 とまあ、小池の「物語を作る力」は相当アレだと思ってますが、彼の「演出力」のすばらしさは認めております。
 『ネバー』がややこしいのは、「物語」のアレさと、「演出」のすばらしさが、ものすげー不協和音を奏でているから、なのよねえ。
 「演出」だけだと、すばらしい「名作」だから、「なんかすごいもの見たかも?」と一瞬誤解させられるんだよなあ(笑)。

 まったく、語るのが面倒な作品だ(笑)。


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