幸福の王子。@ファントム
2006年7月22日 タカラヅカ 彼は、ひとりぼっちでぬいぐるみを抱いている。
母は亡く、父は仕事でいつも不在。
「パパは忙しいんだ。仕事の邪魔をしないように」
と父に言いつけられたので、その通りにしている。
家からは出ない。子ども部屋でひとり、ぬいぐるみだけを話し相手に、おもちゃのピアノを弾いている。
たとえ熱を出していても、ケガをしていても、「パパの邪魔はしちゃいけない」と、黙って耐えている。与えられた部屋の中で、ぬいぐるみを抱いて、おもちゃのピアノを弾いている。
ひとりぼっちで。
なにも、欲しがらない。
外に出たい、友だちが欲しい、他の子どもたちがあたりまえに持っている自由が欲しい……それら全部を飲み込んで、今そこにあるものだけで満足している。……しようとしている。彼は、そーゆー子どもだ。
生意気なことも言うし、いたずらもしてみせる。でもそれらはみんな他愛のないモノで、ほんとうの意味で父を煩わせるようなことはしない。
わきまえた、あきらめた、あわれな子ども。
ある日、彼の部屋に小鳥が舞い込んできた。
弱々しいけれど、美しい声で鳴く小鳥だ。彼はよろこんで、小鳥の歌声に合わせてピアノを弾いた。
ぬいぐるみは歌わない。動かない。小鳥は、彼が生まれてはじめて出会った、自分で歌い、動く友だちだった。彼は小鳥に夢中になった。幼いころに聴いた母の歌声のように、小鳥の声は心地よかった。
でも小鳥は、飛んでいってしまう。
彼は部屋の窓から、小鳥を見送った。小鳥には翼があり、彼にはない。彼はそれをよく知っていた。自分はこの窓の中から外を見つめることしかできないのだと……知っていた。
小鳥の翼を折ろうとは思わなかった。彼はわきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
彼はまたひとり、ぬいぐるみを抱いて、ピアノを弾いた。返事をしないぬいぐるみに話しかけ、手の届かない窓の外を眺めた。ひとりで、眺めていた。小鳥が彼と同じ年頃の少年の肩にとまり、たのしそうにしている姿をも、ただ黙って眺めた。きっと、あの少年の小鳥だったのだ。彼のものなど、なにひとつない。彼にゆるされた世界は、この部屋の中だけなのだから。
その小鳥がまた、彼の部屋に飛び込んできた。外でいじめられたのだ。彼は窓から手を伸ばし、必死になって小鳥を守った。
小鳥をいじめるすべてのものから、守りたいと思った。
彼は誠心誠意小鳥をもてなした。
以前迷い込んできたときは、はじめからあきらめていたけれど。自分とは別の世界の存在だと、なにものぞまなかったけれど。
小鳥は外の世界でいじめられ、ここに逃げ込んできた。ここにいれば、安全だ。外を嫌い、ここに彼と一緒にいてくれるかもしれない。
なにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもは、生まれてはじめて欲しいものを「欲しい」と思った。
話さないぬいぐるみを捨て、彼は小鳥と歌った。ふたりで歌った。
生まれてはじめて、ふたりで歌った。
だけど。
小鳥はまた、逃げ出した。
一緒にいて欲しい、と言った彼の元から。彼の抱える孤独や愛、願い、すべて知っていたはずなのに、それでも逃げ出した。その翼で。無邪気に。本能的に。
彼は叫ぶ。
なにも欲しがらなかった、わきまえたはずだった、あきらめたはずだった、あわれな子どもは慟哭する。
逃げた小鳥。
彼が欲した唯一のもの。
残されたのは、物言わぬぬいぐるみ。彼はもう、ぬいぐるみに話しかけない。だって知ってしまった。彼に必要なのは、ぬいぐるみじゃない。
彼は部屋を出る。
ぬいぐるみとおもちゃのピアノで守られた、歪んだ檻をあとにする。
彼は小鳥を憎んでいない。
小鳥の翼を折らなかったのは、彼自身。自由に無邪気に飛ぶ小鳥の存在すべてを愛している。
彼はわきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
小鳥と同じ空を飛べないことを、承知の上でそれでも叫んだ。
「その小鳥は、ぼくのものだ」
なにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもは、生まれてはじめて欲しいものを「欲しい」と叫んだ。
彼が部屋からいなくなったのを知り、父があわててやってきた。忙しくてろくにかまってやれずにいたけれど、父は彼を愛していた。安全な檻に閉じこめることしかできなかったけれど、それでも愛していた。
彼は父に愛されていることを知っていた。だから、与えられたぬいぐるみを抱いて部屋にいた。
今、ぬいぐるみは捨ててしまった。でも彼は父に微笑みかける。父もまた、彼に微笑みかける。
ほんとうは、もっと早く、微笑み合うべきだったのかもしれない。あの部屋の中ではなく、大空の下で。
父に見守られながら、彼は飛んだ。
小鳥と同じように。
小鳥と同じ翼は持たないまま。
彼はなにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
飛べないことは、知っていた。
だけど一瞬、小鳥と同じ空にいた。小鳥は彼を見、彼のために歌った。
飛べないことは、知っていた。
動かなくなった彼のかたわらで、小鳥が歌った。彼が愛した声で、歌い続けた。
彼は、幸福だったのだと思う。
母は亡く、父は仕事でいつも不在。
「パパは忙しいんだ。仕事の邪魔をしないように」
と父に言いつけられたので、その通りにしている。
家からは出ない。子ども部屋でひとり、ぬいぐるみだけを話し相手に、おもちゃのピアノを弾いている。
たとえ熱を出していても、ケガをしていても、「パパの邪魔はしちゃいけない」と、黙って耐えている。与えられた部屋の中で、ぬいぐるみを抱いて、おもちゃのピアノを弾いている。
ひとりぼっちで。
なにも、欲しがらない。
外に出たい、友だちが欲しい、他の子どもたちがあたりまえに持っている自由が欲しい……それら全部を飲み込んで、今そこにあるものだけで満足している。……しようとしている。彼は、そーゆー子どもだ。
生意気なことも言うし、いたずらもしてみせる。でもそれらはみんな他愛のないモノで、ほんとうの意味で父を煩わせるようなことはしない。
わきまえた、あきらめた、あわれな子ども。
ある日、彼の部屋に小鳥が舞い込んできた。
弱々しいけれど、美しい声で鳴く小鳥だ。彼はよろこんで、小鳥の歌声に合わせてピアノを弾いた。
ぬいぐるみは歌わない。動かない。小鳥は、彼が生まれてはじめて出会った、自分で歌い、動く友だちだった。彼は小鳥に夢中になった。幼いころに聴いた母の歌声のように、小鳥の声は心地よかった。
でも小鳥は、飛んでいってしまう。
彼は部屋の窓から、小鳥を見送った。小鳥には翼があり、彼にはない。彼はそれをよく知っていた。自分はこの窓の中から外を見つめることしかできないのだと……知っていた。
小鳥の翼を折ろうとは思わなかった。彼はわきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
彼はまたひとり、ぬいぐるみを抱いて、ピアノを弾いた。返事をしないぬいぐるみに話しかけ、手の届かない窓の外を眺めた。ひとりで、眺めていた。小鳥が彼と同じ年頃の少年の肩にとまり、たのしそうにしている姿をも、ただ黙って眺めた。きっと、あの少年の小鳥だったのだ。彼のものなど、なにひとつない。彼にゆるされた世界は、この部屋の中だけなのだから。
その小鳥がまた、彼の部屋に飛び込んできた。外でいじめられたのだ。彼は窓から手を伸ばし、必死になって小鳥を守った。
小鳥をいじめるすべてのものから、守りたいと思った。
彼は誠心誠意小鳥をもてなした。
以前迷い込んできたときは、はじめからあきらめていたけれど。自分とは別の世界の存在だと、なにものぞまなかったけれど。
小鳥は外の世界でいじめられ、ここに逃げ込んできた。ここにいれば、安全だ。外を嫌い、ここに彼と一緒にいてくれるかもしれない。
なにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもは、生まれてはじめて欲しいものを「欲しい」と思った。
話さないぬいぐるみを捨て、彼は小鳥と歌った。ふたりで歌った。
生まれてはじめて、ふたりで歌った。
だけど。
小鳥はまた、逃げ出した。
一緒にいて欲しい、と言った彼の元から。彼の抱える孤独や愛、願い、すべて知っていたはずなのに、それでも逃げ出した。その翼で。無邪気に。本能的に。
彼は叫ぶ。
なにも欲しがらなかった、わきまえたはずだった、あきらめたはずだった、あわれな子どもは慟哭する。
逃げた小鳥。
彼が欲した唯一のもの。
残されたのは、物言わぬぬいぐるみ。彼はもう、ぬいぐるみに話しかけない。だって知ってしまった。彼に必要なのは、ぬいぐるみじゃない。
彼は部屋を出る。
ぬいぐるみとおもちゃのピアノで守られた、歪んだ檻をあとにする。
彼は小鳥を憎んでいない。
小鳥の翼を折らなかったのは、彼自身。自由に無邪気に飛ぶ小鳥の存在すべてを愛している。
彼はわきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
小鳥と同じ空を飛べないことを、承知の上でそれでも叫んだ。
「その小鳥は、ぼくのものだ」
なにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもは、生まれてはじめて欲しいものを「欲しい」と叫んだ。
彼が部屋からいなくなったのを知り、父があわててやってきた。忙しくてろくにかまってやれずにいたけれど、父は彼を愛していた。安全な檻に閉じこめることしかできなかったけれど、それでも愛していた。
彼は父に愛されていることを知っていた。だから、与えられたぬいぐるみを抱いて部屋にいた。
今、ぬいぐるみは捨ててしまった。でも彼は父に微笑みかける。父もまた、彼に微笑みかける。
ほんとうは、もっと早く、微笑み合うべきだったのかもしれない。あの部屋の中ではなく、大空の下で。
父に見守られながら、彼は飛んだ。
小鳥と同じように。
小鳥と同じ翼は持たないまま。
彼はなにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
飛べないことは、知っていた。
だけど一瞬、小鳥と同じ空にいた。小鳥は彼を見、彼のために歌った。
飛べないことは、知っていた。
動かなくなった彼のかたわらで、小鳥が歌った。彼が愛した声で、歌い続けた。
彼は、幸福だったのだと思う。
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