彼は、ひとりぼっちでぬいぐるみを抱いている。
 母は亡く、父は仕事でいつも不在。
「パパは忙しいんだ。仕事の邪魔をしないように」
 と父に言いつけられたので、その通りにしている。
 家からは出ない。子ども部屋でひとり、ぬいぐるみだけを話し相手に、おもちゃのピアノを弾いている。
 たとえ熱を出していても、ケガをしていても、「パパの邪魔はしちゃいけない」と、黙って耐えている。与えられた部屋の中で、ぬいぐるみを抱いて、おもちゃのピアノを弾いている。
 ひとりぼっちで。

 なにも、欲しがらない。
 外に出たい、友だちが欲しい、他の子どもたちがあたりまえに持っている自由が欲しい……それら全部を飲み込んで、今そこにあるものだけで満足している。……しようとしている。彼は、そーゆー子どもだ。
 生意気なことも言うし、いたずらもしてみせる。でもそれらはみんな他愛のないモノで、ほんとうの意味で父を煩わせるようなことはしない。
 わきまえた、あきらめた、あわれな子ども。

 ある日、彼の部屋に小鳥が舞い込んできた。
 弱々しいけれど、美しい声で鳴く小鳥だ。彼はよろこんで、小鳥の歌声に合わせてピアノを弾いた。
 ぬいぐるみは歌わない。動かない。小鳥は、彼が生まれてはじめて出会った、自分で歌い、動く友だちだった。彼は小鳥に夢中になった。幼いころに聴いた母の歌声のように、小鳥の声は心地よかった。

 でも小鳥は、飛んでいってしまう。
 彼は部屋の窓から、小鳥を見送った。小鳥には翼があり、彼にはない。彼はそれをよく知っていた。自分はこの窓の中から外を見つめることしかできないのだと……知っていた。
 小鳥の翼を折ろうとは思わなかった。彼はわきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
 彼はまたひとり、ぬいぐるみを抱いて、ピアノを弾いた。返事をしないぬいぐるみに話しかけ、手の届かない窓の外を眺めた。ひとりで、眺めていた。小鳥が彼と同じ年頃の少年の肩にとまり、たのしそうにしている姿をも、ただ黙って眺めた。きっと、あの少年の小鳥だったのだ。彼のものなど、なにひとつない。彼にゆるされた世界は、この部屋の中だけなのだから。

 その小鳥がまた、彼の部屋に飛び込んできた。外でいじめられたのだ。彼は窓から手を伸ばし、必死になって小鳥を守った。
 小鳥をいじめるすべてのものから、守りたいと思った。

 彼は誠心誠意小鳥をもてなした。
 以前迷い込んできたときは、はじめからあきらめていたけれど。自分とは別の世界の存在だと、なにものぞまなかったけれど。
 小鳥は外の世界でいじめられ、ここに逃げ込んできた。ここにいれば、安全だ。外を嫌い、ここに彼と一緒にいてくれるかもしれない。
 なにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもは、生まれてはじめて欲しいものを「欲しい」と思った。

 話さないぬいぐるみを捨て、彼は小鳥と歌った。ふたりで歌った。

 生まれてはじめて、ふたりで歌った。

 だけど。
 小鳥はまた、逃げ出した。
 一緒にいて欲しい、と言った彼の元から。彼の抱える孤独や愛、願い、すべて知っていたはずなのに、それでも逃げ出した。その翼で。無邪気に。本能的に。

 彼は叫ぶ。
 なにも欲しがらなかった、わきまえたはずだった、あきらめたはずだった、あわれな子どもは慟哭する。

 逃げた小鳥。
 彼が欲した唯一のもの。

 残されたのは、物言わぬぬいぐるみ。彼はもう、ぬいぐるみに話しかけない。だって知ってしまった。彼に必要なのは、ぬいぐるみじゃない。
 彼は部屋を出る。
 ぬいぐるみとおもちゃのピアノで守られた、歪んだ檻をあとにする。

 彼は小鳥を憎んでいない。
 小鳥の翼を折らなかったのは、彼自身。自由に無邪気に飛ぶ小鳥の存在すべてを愛している。
 彼はわきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
 小鳥と同じ空を飛べないことを、承知の上でそれでも叫んだ。

「その小鳥は、ぼくのものだ」

 なにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもは、生まれてはじめて欲しいものを「欲しい」と叫んだ。

 彼が部屋からいなくなったのを知り、父があわててやってきた。忙しくてろくにかまってやれずにいたけれど、父は彼を愛していた。安全な檻に閉じこめることしかできなかったけれど、それでも愛していた。
 彼は父に愛されていることを知っていた。だから、与えられたぬいぐるみを抱いて部屋にいた。
 今、ぬいぐるみは捨ててしまった。でも彼は父に微笑みかける。父もまた、彼に微笑みかける。
 ほんとうは、もっと早く、微笑み合うべきだったのかもしれない。あの部屋の中ではなく、大空の下で。

 父に見守られながら、彼は飛んだ。
 小鳥と同じように。
 小鳥と同じ翼は持たないまま。

 彼はなにも欲しがらない、わきまえた、あきらめた、あわれな子どもだった。
 飛べないことは、知っていた。
 だけど一瞬、小鳥と同じ空にいた。小鳥は彼を見、彼のために歌った。

 飛べないことは、知っていた。

 動かなくなった彼のかたわらで、小鳥が歌った。彼が愛した声で、歌い続けた。

 
 彼は、幸福だったのだと思う。


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