誰が、誰を治めるのか? その2。@暁のローマ
2006年8月27日 タカラヅカ このブルータスって、あんまりぢゃね? という見識による、『暁のローマ』語りその2。前日欄からの続き。
ブルータスたちが、カエサル暗殺に踏み切る直接的原因もひどい。
罪を犯し追放された兄を許してくれ、と、剣を抜いて脅迫する男を、ブルータスたちで擁護する。
いたましい交通事故が起こった。
被害者は亡くなり、運転していた加害者は交通刑務所へ送られた。
その加害者の家族が、裁判所に刃物を持って乗り込んできた。
「兄に悪気はなかった! 運が悪かっただけなんだ! もし兄を許してくれないならここで死ぬ!! 命を懸けた願いなんだ、聞いてくれてもいいだろう!!」
えーと。
命さえ懸ければ、なにやってもいいんすか?
カエサルが「法」だということで、この男はカエサルに許しを請うわけだけど。
これが現代日本の裁判所だとしても、同じこと。
この男のやってること、変。
彼の兄が犯した罪がなんであるか、作中では語られていないので、ひょっとしたら冤罪に近いものだったのかもしれない。だとしても、「悪気はなかった」ことを楯に、刃物で脅迫されてもこまる。
「悪気はなくても、罪は罪だ」
「カエサル、それがあなたの答えか」
……で、みんなで暗殺。
カエサル、まちがってねえ。ふつーの裁判官でも、同じこと言うでしょ。
その罪の重さやどう償うかを争議することはあっても、「悪気がないんだから、許して」だとか、「命懸けの頼みだから、きいてくれて当然。きかないのは反人道的」というのはおかしすぎる。
王制、共和制以前の話だろ。
秩序を守る立場の人間が、情や暴力に流されて、コロコロ意見を変えていたら、それこそ問題だ。
刃物を持って泣き落としをすれば、なんでも思い通りになるって前例を作ることになる。
まー、そもそも共和制を守るのならば、「殺人」という手段はおかしいしな。
意にそまない者を個人の判断で抹殺することこそが、共和制がもっとも憎む過ちではないのか。
それを言っちゃあおしまいだが。
で、なんかとってもアタマ悪くカエサルを暗殺したブルータス。
アントニウスによってあっさりと、市民の支持を失い、あとは敗走一直線。
気になるのは、もしもアントニウスの台頭がなかったとして、ブルータスにローマが治められたかということだ。
ローマは小さな国ではない。
戦争につぐ戦争で、領地を広げまくった超軍事大国だ。明確なビジョンを持って、今後のローマの秩序を保つことができたのだろうか。
「そんなのダメだ!」
と、否定することはたやすい。でも、否定するなら、ソレに変わるものを差し出さなければならない。
ブルータスはただ否定するだけの男だ。
「ローマはみんなのもの」
と、耳障りのいいことを言うだけで、現実的なことはなにも示していない。なにしろ「個人が治める」=「奴隷にする」だから、彼も彼の仲間もなにかひとつ決めるたびに、ローマ市民全員の意志を仰がなければならない。ローマ市民は奴隷ではないからな。
えーとまず、総選挙? 多数決やらなきゃ、多数決。カエサル色一層のための大掃除からスタートだよな。パルティア遠征はいいのか? 他国に侵略されるぞ? 属国に造反されるぞ?
実際はアントニウスが勝利し、ブルータスは権力を失うだけでなく自殺までまっしぐらになるわけだけど。
この敗走っぷりもが、「私は愛された」とか、政治的な見解ではなく、あくまでも「情」の話しかしない。
もちろん、心は大切だ。愛は偉大だ。
しかし、施政者はソレだけではつとまらないんだ。
「真実の愛を貫け、フェルゼン!」
と言って、他国の王妃を横恋慕して誘拐してこいと命令する、某スウェーデン国王のように、「自分が気持ちいい」「自分の良心にやさしい」だけでは、国は治められない。王様でも大統領でも同じ。
「わたしにアナタを殺させないで!」
と泣いた某エジプト女王、愛する男を「女王であるがゆえに」処刑しなければならなかった彼女の姿こそが、正しい施政者だろう。
ブルータスはあまりにも、幼稚すぎた。
彼がかざすのは、子どもの正義と子どもの理屈だ。
情に流され、その場限り正義感でのみ動く。たしかに善良ではあるが、それだけだ。
彼の善良さは、多くの罪なき人々を不幸にするだろう。
「いかなる善意からはじまった行いも、終わりがすべてを決める」
それでも彼は言うのだろう。
「悪気がなかったんだから、いいじゃないか」
彼は自分がまちがったとは思わないんだ。だって正義ゆえ、善ゆえだもんよ。「私は愛された」そうだから。「人生肯定」で死んでいくんだから。
ブルータス、かっこわるい。
このブルータスがどーにもこうにも引っかかっていたのは、こーゆーことだったのだと思う。や、キャストの演技力の問題もあるにしろ。
でもそれは、すべて作者の計算だったのだと思う。
だって物語の冒頭部分で、
「ローマは王制を廃し、共和制となった歴史を持っています。ですから王様と聞くと、それだけでローマ市民は凍りつくのです」
と、揶揄たっぷりに解説してあるんだよ?
「解説」が劇中にあるのは、ここだけなの。
ここで、明らかな意図を持って、ミスリードしている。
言葉狩りの思想狩り。
「王」という存在に対する拒絶反応。それがどんなに複合的な意味を持つかとかはまーったく考えることもなく、ただ「王」というだけで反発する。
絶対悪なんかないし、真実もひとつではない。
なのに、「王」=「絶対悪」なの。市民たちの狭い狭い意識で、そしてそれはつまり、この『暁のローマ』の世界観でってこと。
絶対悪を示し、それに対してブルータスの「善」を表現する。
ここで絶対悪をわざとらしく解説して示すことで、逆転の構造で物語が進むことを表している……んぢゃないかな?
まちがってるブルータスを「正義」として描くパラドックス。
あさこちゃんも大変だ、こんな役。
ブルータスたちが、カエサル暗殺に踏み切る直接的原因もひどい。
罪を犯し追放された兄を許してくれ、と、剣を抜いて脅迫する男を、ブルータスたちで擁護する。
いたましい交通事故が起こった。
被害者は亡くなり、運転していた加害者は交通刑務所へ送られた。
その加害者の家族が、裁判所に刃物を持って乗り込んできた。
「兄に悪気はなかった! 運が悪かっただけなんだ! もし兄を許してくれないならここで死ぬ!! 命を懸けた願いなんだ、聞いてくれてもいいだろう!!」
えーと。
命さえ懸ければ、なにやってもいいんすか?
カエサルが「法」だということで、この男はカエサルに許しを請うわけだけど。
これが現代日本の裁判所だとしても、同じこと。
この男のやってること、変。
彼の兄が犯した罪がなんであるか、作中では語られていないので、ひょっとしたら冤罪に近いものだったのかもしれない。だとしても、「悪気はなかった」ことを楯に、刃物で脅迫されてもこまる。
「悪気はなくても、罪は罪だ」
「カエサル、それがあなたの答えか」
……で、みんなで暗殺。
カエサル、まちがってねえ。ふつーの裁判官でも、同じこと言うでしょ。
その罪の重さやどう償うかを争議することはあっても、「悪気がないんだから、許して」だとか、「命懸けの頼みだから、きいてくれて当然。きかないのは反人道的」というのはおかしすぎる。
王制、共和制以前の話だろ。
秩序を守る立場の人間が、情や暴力に流されて、コロコロ意見を変えていたら、それこそ問題だ。
刃物を持って泣き落としをすれば、なんでも思い通りになるって前例を作ることになる。
まー、そもそも共和制を守るのならば、「殺人」という手段はおかしいしな。
意にそまない者を個人の判断で抹殺することこそが、共和制がもっとも憎む過ちではないのか。
それを言っちゃあおしまいだが。
で、なんかとってもアタマ悪くカエサルを暗殺したブルータス。
アントニウスによってあっさりと、市民の支持を失い、あとは敗走一直線。
気になるのは、もしもアントニウスの台頭がなかったとして、ブルータスにローマが治められたかということだ。
ローマは小さな国ではない。
戦争につぐ戦争で、領地を広げまくった超軍事大国だ。明確なビジョンを持って、今後のローマの秩序を保つことができたのだろうか。
「そんなのダメだ!」
と、否定することはたやすい。でも、否定するなら、ソレに変わるものを差し出さなければならない。
ブルータスはただ否定するだけの男だ。
「ローマはみんなのもの」
と、耳障りのいいことを言うだけで、現実的なことはなにも示していない。なにしろ「個人が治める」=「奴隷にする」だから、彼も彼の仲間もなにかひとつ決めるたびに、ローマ市民全員の意志を仰がなければならない。ローマ市民は奴隷ではないからな。
えーとまず、総選挙? 多数決やらなきゃ、多数決。カエサル色一層のための大掃除からスタートだよな。パルティア遠征はいいのか? 他国に侵略されるぞ? 属国に造反されるぞ?
実際はアントニウスが勝利し、ブルータスは権力を失うだけでなく自殺までまっしぐらになるわけだけど。
この敗走っぷりもが、「私は愛された」とか、政治的な見解ではなく、あくまでも「情」の話しかしない。
もちろん、心は大切だ。愛は偉大だ。
しかし、施政者はソレだけではつとまらないんだ。
「真実の愛を貫け、フェルゼン!」
と言って、他国の王妃を横恋慕して誘拐してこいと命令する、某スウェーデン国王のように、「自分が気持ちいい」「自分の良心にやさしい」だけでは、国は治められない。王様でも大統領でも同じ。
「わたしにアナタを殺させないで!」
と泣いた某エジプト女王、愛する男を「女王であるがゆえに」処刑しなければならなかった彼女の姿こそが、正しい施政者だろう。
ブルータスはあまりにも、幼稚すぎた。
彼がかざすのは、子どもの正義と子どもの理屈だ。
情に流され、その場限り正義感でのみ動く。たしかに善良ではあるが、それだけだ。
彼の善良さは、多くの罪なき人々を不幸にするだろう。
「いかなる善意からはじまった行いも、終わりがすべてを決める」
それでも彼は言うのだろう。
「悪気がなかったんだから、いいじゃないか」
彼は自分がまちがったとは思わないんだ。だって正義ゆえ、善ゆえだもんよ。「私は愛された」そうだから。「人生肯定」で死んでいくんだから。
ブルータス、かっこわるい。
このブルータスがどーにもこうにも引っかかっていたのは、こーゆーことだったのだと思う。や、キャストの演技力の問題もあるにしろ。
でもそれは、すべて作者の計算だったのだと思う。
だって物語の冒頭部分で、
「ローマは王制を廃し、共和制となった歴史を持っています。ですから王様と聞くと、それだけでローマ市民は凍りつくのです」
と、揶揄たっぷりに解説してあるんだよ?
「解説」が劇中にあるのは、ここだけなの。
ここで、明らかな意図を持って、ミスリードしている。
言葉狩りの思想狩り。
「王」という存在に対する拒絶反応。それがどんなに複合的な意味を持つかとかはまーったく考えることもなく、ただ「王」というだけで反発する。
絶対悪なんかないし、真実もひとつではない。
なのに、「王」=「絶対悪」なの。市民たちの狭い狭い意識で、そしてそれはつまり、この『暁のローマ』の世界観でってこと。
絶対悪を示し、それに対してブルータスの「善」を表現する。
ここで絶対悪をわざとらしく解説して示すことで、逆転の構造で物語が進むことを表している……んぢゃないかな?
まちがってるブルータスを「正義」として描くパラドックス。
あさこちゃんも大変だ、こんな役。
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