想像でしかないけれど。

 『愛するには短すぎる』のラスト5分ほどは、小林公平作だよね?

 フレッド@ワタルとバーバラ@となみがフェアウェルパーティの花火を見上げてから、あと。

 そこから主題歌らしい曲に突入するんだけど、明らかに作風が変わるよね?

 この主題歌らしい曲がもー、目眩がするほど、ダサイ。

 正塚芝居の特徴は、台詞の少なさにある。
 台詞で解説せずに、短いやりとりによって背後にある設定や出来事を観客に想像させる。

 なのにこの主題歌がはじまると、正塚らしさは一気に消え、怒濤の物語解説がはじまる。

フレッド「♪思いもかけずに巡り会い たちまち燃えた恋の炎♪」
バーバラ「♪それぞれの人生背に負いながら たちまち燃えた恋の炎♪」

 おいおいおい。
 「解説」しないからいい作品なのに。
 なんでいきなり「さあ、あらすじのおさらいをしようねっ。ふたりは偶然めぐりあって、たちまち激しい恋に落ちたんだ。でも、残念だけどふたりにはもう時間がなかったんだよ」とストーリーもテーマもなにもかも、言葉で読み上げるの?!

フレッド「♪めくるめく♪」
バーバラ「♪めくるめく♪」
フレッド「♪しあわせを♪」
バーバラ「♪しあわせを♪」

 と、かけあいでムード歌謡の昭和世界が広がっていく。
 アメリカの豪華客船の、おしゃれな物語だったハズなのにっ?!

 船を降りてから、バーバラが走り去るまではまた、正塚芝居に戻っている。
 が。

 アンソニー@トウコもが去り、ひとりになったフレッドが、またしてもこれまでのあらすじとテーマと結末を、全部全部超絶ダサい長台詞で歌舞伎調に語り出す。これ、『ベルばら』だっけ? この人フェルゼンだっけ?

 …………ひどい。

 ここまで、最後に作品をぶっ壊してくれるなんて。

 フレッドならばあんなことは言わないし、言うとしても別の言葉を使うだろうし、あんなラストシーンにはならないだろう。

 最後まで、正塚芝居で観たかった。
 フェアウェルパーティのあと、フレッドとバーバラはどんなふうに過ごしたんだろう。
 正塚芝居だったら。
 愛し合うふたりのデュエットだったとしても、あんなひどい歌ではないだろう。歌は昭和歌謡か演歌なのに、手首のキスだとか正塚らしい美学のあるラヴシーンを合間に入れているからまだ、なんとか救いはあるんだけど。
 そして、あの最悪なラストシーン。
 長々と説明台詞を吐き、しかも現代日用語ではない時代錯誤な物言いで、観客の想像の余地も物語の余韻もすべてぶち壊し、ひとり去っていくフレッド。
 本当なら、ラストはどんなふうに「男の美学」を見せてくれたんだろう。小林公平の横槍さえなければ。

 そう思うと、くやしくてならない。

 もちろん、証拠はナニもない。
 「原案・小林公平」とあるが、彼がどんな風に制作に関わったのかはわからない。
 わたしが想像するのは、主要キャラクタの設定(細かい性格は除く)と舞台、そしてストーリーラインのみ公平氏原案で、あとはみんな正塚が好き勝手やったんじゃないかと。
 出てくる脇キャラの個性だとか役割、描き方、そーゆーものもみんないかにも正塚っぽい。
 主要キャラも正塚キャラまんまだし、彼らが船の上でどたばた巻き起こす展開は、無理がない。
 原案のみで自由にやらせてくれた……としても。
 主題歌とラストシーンだけは、自分が書いた。

 あの「物語のあらすじそのまんま解説します、芝居観なくてもこの歌1曲でぜーんぶわかります」なダサい歌謡曲。
 そして、「物語のあらすじそのまんま解説します、芝居観なくてもこの長台詞だけでぜーんぶわかります」なダサいラストシーン。

 漢ワタルが、男役芸の集大成ともいえる説得力で、芝居のカラーががくんと変わったこともいきなり昭和的ダサさ全開になったことも、力尽くで帳消しにして、「男の背中」で収束させちゃうけど。
 ワタさんの「トップスター」としての力を再確認させてもらう結果となったけれど。

 にしても、正しいラストシーンを、観てみたかった。

 正塚ってさあ、タイトルとかテーマとか、これみよがしに連呼したりしないじゃん、矜持に懸けて。
 主題歌にテーマを込めはするけれど、作中で同じことを全部台詞で説明したりしない。
 そーゆーの「かっこわるい」と思っている人でしょう?
 それが、こんなことになっちゃってさ。雇われクリエイターって大変だな。

 『SAY IT AGAIN』のタイトルの使い方なんて、すごいオシャレだったよ。
 言葉が足りないために誤解だの行き違いだので雪だるま的に悲惨になった、男ふたりの物語。言葉を操り、人を騙す商売の男ふたりの物語。彼らと、彼らを取り巻く愛すべき人々の物語。
 言わなくてもわかってくれる、なんて都合よく思い上がらないで、一歩を踏み出すこと。自分のために。相手のために。
 「言葉」……「伝える」ということをめぐる物語で、タイトルを口にするのは主役たちではないんだ。
 最後の最後に、振り回された中年男がつぶやく。「もう一度言ってくれ」……愛の言葉を。芝居の最後の台詞が、ソレ。

 これほどまでに「タイトル」「テーマ」にこだわった作劇をする人が、『愛するには短すぎる』のラストシーンを作ったとは思えないんだ。
 あれはどう考えても、公平氏の横槍でしょう。……横槍、というのはチガウか。彼の「原案」に、「これだけは譲れない」と明記してあったんでしょう。

 
 本来の正塚芝居なら、下船シーンがフレッドとバーバラだけっつーのもありえない。
 だって、船の中でさまざまな人生が交錯する、のもテーマのひとつだったでしょう?
 正塚芝居はモブの通行人までもが、なにかしら人生を感じさせるよーになっているでしょう?
 「♪船は進む 扉の数だけある物語を運んで♪」という作品なんだから。
 下船シーンもまた、登場人物全員が行きかうべきだ。それぞれの人生を感じさせながら。

 フレッドとバーバラも、特別なふたりなんかじゃない。
 世界はふたりを中心に回っていない。だからこそ、別れるんだから。
 世界でふたりきり、になって別れをするなんておかしい。

 下船していくたくさんの人々。
 挨拶する船長他スタッフ、思い思いに一旦解散するショーチーム、ぞろぞろ歩くバレエ団、秘書と奥方の真ん中でヘコヘコ笑っているスケベ貴族親父@くみちょ、警察と宝石泥棒カップル、オコーナー@すずみんにしなだれかかるドリー@ウメ、それを少し離れて見送るデイブ@和、港に奥さん@せあら希望(笑)が現れ、あわててドリーを突き飛ばしとりつくろうオコーナー……。
 そんな人々の姿があたりまえにある、雑踏の真ん中で。

 フレッドとバーバラの別れも、ある。

 背景が全部ストップモーションになってみたり、ふたりだけライトを浴びたりしながらも。
 あくまでも、雑踏の中。

 バーバラが一途に走り去るのだって、雑踏の中へだよ。や、銀橋から花道なのは変わらなくていいから。本舞台にふつーに人がいれば、どこを通ったってそこが雑踏だとわかるから。

 で、正塚お得意の行きかう人々の人生を歌う合唱だよ。
 これがなきゃ正塚芝居ぢゃない(笑)。

 そして最後に、フレッドが消えていくのさ。
 ラストシーンだけは本舞台カラにして、ひとりで締めてくれていいから。
 正塚なら、あんなにダラダラ喋らせず、台詞なしの演技だけで終わらせたかもな。
 タイトルの「愛するには短すぎる」も、一度も言わせなかったかも。公平氏は「愛するには短すぎる、とは決して言わない」というのがいちばんのこだわりみたいだけど。本人的にはひねってるつもりなんだろうけど。
 でも正塚なら、本編中に逆の言葉を言わせるのみでその言葉自体使わないんじゃないかな。
「でも、まだ時間はあるよ。だからまだまだ一緒にいられるわ」……あえて。
 

 正塚オリジナルで、完全版が観たい。
 観たいよー。


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