いろいろ文句も言っているが。

 わたしは、『堕天使の涙』が大好きだ。

 毎回ボロボロに泣いている。

 主役のルシファー@コム姫、ヒロイン・リリス@まーちゃんに集中して視ているもので、ぶっちゃけ作品の歪みなんか、どーでもいい。
 や、気になることは気になるんだけど。
 それすら、飛んじゃうの(笑)。

 ルシファーが可哀想で可哀想で。
 彼の孤独が、彼の飢えが、愛を求めながら愛を否定することしかできない姿が、せつなくてかなしくて、胸をかきむしられる。

 誰か、助けて。

 心から、そう思う。ルシファーを見ていて。

 この美しい人を、誰か救って。

 思うんだ。
 せつなくて痛くて苦しくて。

 なにもかも失ったのに、なにも恨まないセバスチャンに対し、声を荒らげるルシファー。
 セバスチャンの悲しい過去を聞いて、まるで彼自身が傷ついたかのように、痛い儚い荒んだ瞳をする。

 絶望のどん底で微笑むリリスに対し、うろたえるルシファー。
 リリスの境遇に自分自身を重ねながら、魂の有り様のちがいに愕然とする、その困惑と痛み、壮絶な孤独感。

 マルセルを殺す結果となってしまった盗作事件の結末に、人間たちの醜さをあげつらい、嘲笑うルシファー。
 嘲笑しているはずなのに、その声は泣き声のようで、突き放しているはずの魂は苦悩にあえいでいる。

 誰か、助けて。
 この美しい人を、誰か救って。

 ルシファーの慟哭にシンクロするからこそ。

 リリスに救われる。

 リリスが光と共に現れ、「光のパ・ドゥ・ドゥ」を踊る。
 ルシファーの心が解き放たれるその瞬間に、わたしの心もまた解き放たれる。

 その、カタルシス。

 生まれ直す刹那。

 そう、慟哭を抜け汚泥を抜け、新しい魂に生まれ変わる快感。

 ルシファーの、笑顔と共に。

 
 ……もお、溺れそうなほど、泣いてますよ。
 堕天使の涙と、その次にある解放に。

 
 大好きだ。

 
 景子タン、よくぞコム姫の最後に、まーちゃんの最後にこの作品を書いてくれた。
 まーちゃんの出番が少ないことや、タカラヅカらしいきれいな衣装を着ていないことはソレはソレで残念だとは思うけれど、それは「タカラヅカとして」思うだけで、「役者」として、この役を正しく担えることは、誇りにしていいだろうと思えるし。
 コム姫だから、まーちゃんだから、できる役。他の人では考えられない役。
 それで、「タカラジェンヌ」としての姿を、存分に焼き付けてくれるこの作品が、愛しくてならない。

 
 あと、わたしらしくヲタクな話をするならば。

 えー、セバスチャンとルシファー様で、もー少し突っ込んだ話が見たいです(笑)。

 今回ジャンP@水は、ただ男ふたりでダンスしているだけで、精神的にはなにもつながりがなく、萌えません(笑)。

 前日欄にも書いたけれど、セバスチャンって、リリスの代わりもできるんだよね、役的に。
 リリスは女性で、すぐに死んじゃうから美しいままで終わったけれど。

 リリスと出会わず、ルシファーがセバスチャンに興味を持ったまま、話が進んでいたらどーなったんだヲイ。
 強く正しく美しい彼を、誘惑しましたか、ルシファー様。
 清い彼を汚そうとしましたか、ルシファー様。

 セバスチャンには色気がないので、そーゆー想像がむずかしいですが。そーゆーことも含めて、興味津々だ〜〜。

 『天の鼓』の帝というキャラが萌えであるように、作品が歪む原因となった、作者の萌えポイントには、観客としても萌えポイントとなりうる、ということですなっ。
 それでストーリーがいびつになっていたとしてもだ。力点があるところは、磁場がチガウよなってことで。

 
 あと、今回壮くん単体にも、ものすげー萌えているのだが、ソレはまた別の機会に。


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