いつか好きになる未来・その1。@まーちゃんとわたし。
2006年10月28日 タカラヅカ「まーちゃんって、りらちゃん? なんで緑野さんがりらちゃんのお茶会に行くの? ぜんぜん好きじゃなかったじゃない!」
ただいま新婚、しあわせいっぱいヅカからもすっかり足が遠のいたBe-Puちゃんが言う。
観劇しないのにムラまで来てくれたのは、長年わたしが借りっぱなしにしていたニンテンドウ64回収のため。「緑野さんちまで車で取りに行くよ、いつがいい?」と聞かれ、「ごめん、休みの日は全部ムラにいるから、家にはいない。よかったらムラまで取りに来て」と答えのだわ、わたし。だってコムちゃんラストなんだもん。オギーショーなんだもん。
それでBe-Puちゃんははるばるムラまでやって来、ごはんだけ一緒したのだわ。もう公演は観てはくれないんだもの。
Be-Puちゃんはずっと、まーちゃんのことを好きだった。ものすごーくファンってほどでもないが、ダンサー好きなので、少なくともわたしよりは好きだった。
「あれほどいつもいつも、あたしがりらちゃんかわいいって言っても、緑野さん『ふーん』って言うだけだったじゃない」
ごめんわたし、芝居下手な人、興味なくて。
「……たしかにりらちゃんは、芝居は相当アレだったけど」
花担のBe-Puちゃんのつきあいで、当時から花組公演はなんだかんだいって観ていた。本公演はもともとどの組も1回は観るけど、バウまで観ていたのはBe-Puちゃん絡みが多い。
若くして抜擢されていたまーちゃんの舞台も、なんやかんや観ていたさ。彼女がヒロインをつとめる公演だって、複数観てきたさ。
だけどなんの感情もわかなかった。
嫌いですらなかった。目に入らないんだもの。
だから彼女が雪組コムちゃんのところへ政略結婚でやってくる、と知ったときも「ふーん」だった。ほんとーに興味がなかったんだ。
トップお披露目の『春麗がどーたら』も、いてもいなくてもいい役どころだったので、さらに印象に残らず。ショーではきれいにくるくる踊っていたけれど、もともとショーってみんないろんな人と組むじゃん? コム姫がまーちゃんと組んで踊っていたって「ふーん」でしかない。
それが今では、まーちゃんのお茶会に行くほどに、大好きになった。
わたしはお茶会ってもんに、ほとんど行かない。ジェンヌは架空の存在で、舞台の上だけで愛でるモノというスタンスだからだ。アニメやゲームの二次元キャラに萌えているのと同じ感覚。生身の人間だとは思っていない。だから入り出やお茶会には基本興味がない。
それでも行くからには、わたし的にはいくつものハードルを越えた結果となる。
花組時代、下級生時代のまーちゃんは、ほんとに芝居がアレだった。せっかくおいしい役をもらっても、他の人に食われて印象をなくして終わっていた。せっかくきれいなのに、地味であか抜けない女の子。そーゆー印象だった。
それが、雪組でトップスターになって。
彼女はどんどん変わっていった。
立場が人を変える、ということはある。だがそれは、立場によって自分を変えることができる柔軟性あってのことだ。
まーちゃんは、忠実に「タカラヅカの娘役」なのだろう。
立場によって、相手によって自分を変える。
下級生時代は技術が追いついていなかったから、立場や相手に追いつくことができずに自爆していたけれど、雪組に来るころには立派にコントロールできるようになっていた。
そして朝海ひかるという、ちょっと独特なトップスターの相手役として、舞風りらもまた独特な味を持つトップスターとなる。
追従を許さないほど美しく軽やかなデュエットダンスを踊ることができるコンビでありながら、決してラヴラヴもベタベタもしていない。硬質かつ透明な距離感。
まーちゃん単体ならば愛にあふれたキャラクタだが、コムちゃんがクールでデレデレしない、娘役への愛情をあまり外へ出さない人であるためまーちゃんもベタベタしないキャラとなった。
際立つのは、清涼な光。
その光に瞠目したのは『スサノオ』のとき。
人の心そのもののような混沌の世界に、まっすぐに立つ薄い身体。本人に色はなく、自ら発光するでなく、だがたしかにこの世の光を集めて輝く少女。
闇の中で、彼女だけが光を持っている。
少年以上女未満のような、あざやかな清さを持つ少女の姿は、物語を光ある方へ導いた。
もちろんソレは、コムちゃんの、傷つくために傷ついているような凶暴で繊細な「少年」性あってのこと。スサノオ@コムだからこそ、イナダヒメ@まーちゃんは正しく存在した。
次に彼女の持つ光に注目したのは、『銀の狼』。
心に闇を持つ男と女が、その闇ゆえに共に歩く物語。凛とした冷たさと静かさ。まぶしいわけではない、だがたしかな光がそこにある。まっすぐにのびている。
少女ではない大人の女の持つ強さと深さが、絶望をチガウ形へと導いた。
もちろんソレは、コムちゃんの、他を寄せ付けない硬質な強さと孤独感あってのこと。シルバ@コムだからこそ、ミレイユ@まーちゃんは正しく存在した。
そして、今。
『堕天使の涙』と『タランテラ!』において、まーちゃんの聖なる輝きは集大成を迎えている。
『堕天使の涙』のまーちゃんの、すばらしいこと。
美しい衣装もしなやかな身のこなしも禁じられた、わずかばかりの出番で、作品の意味を決めるのはまーちゃんだ。
彼女の浄さ、光があってこその作品だ。
途中からストーリーが横滑りしてわけわかんなくなるこの物語で、それでも物語が終わることができたのは、まーちゃんの力だ。
圧倒的な光が、世界を満たす。
光量に比例しない心地よい温度。空気に溶ける感覚。大気となり、重力を離れ、自在に舞う錯覚。
聖なるもの、を表現する力。
それを、見せてくれた。
あの清冽な少女イナダヒメが。あの清流のようなミレイユが。
彼女たちを息づかせた女優が、たしかな力を持って、天使となって舞い降りた。
と、これだけでもすげーっつーに。
つづく『タランテラ!』では。
聖なるモノゆえのおそろしさを、見せつけた。
美しいモノ、清いモノが、反面どれだけおそろしいか。
汚れたモノにとって、闇にとって、天からの光がどれほど惨く容赦ないか。
彼女が「天使」であるがゆえの「痛さ」を解放した。
あの清冽な少女イナダヒメが。あの清流のようなミレイユが。
彼女たちを息づかせた女優が、たしかな力を持って、裁く者となって舞い降りた。
正しい者、聖なる者、清浄なる者の持つ剣。
女神は光の剣を抜き放ち、闇を斬り捨てる。
際立つのは、清涼な光。
長くなったんで、続く。
ただいま新婚、しあわせいっぱいヅカからもすっかり足が遠のいたBe-Puちゃんが言う。
観劇しないのにムラまで来てくれたのは、長年わたしが借りっぱなしにしていたニンテンドウ64回収のため。「緑野さんちまで車で取りに行くよ、いつがいい?」と聞かれ、「ごめん、休みの日は全部ムラにいるから、家にはいない。よかったらムラまで取りに来て」と答えのだわ、わたし。だってコムちゃんラストなんだもん。オギーショーなんだもん。
それでBe-Puちゃんははるばるムラまでやって来、ごはんだけ一緒したのだわ。もう公演は観てはくれないんだもの。
Be-Puちゃんはずっと、まーちゃんのことを好きだった。ものすごーくファンってほどでもないが、ダンサー好きなので、少なくともわたしよりは好きだった。
「あれほどいつもいつも、あたしがりらちゃんかわいいって言っても、緑野さん『ふーん』って言うだけだったじゃない」
ごめんわたし、芝居下手な人、興味なくて。
「……たしかにりらちゃんは、芝居は相当アレだったけど」
花担のBe-Puちゃんのつきあいで、当時から花組公演はなんだかんだいって観ていた。本公演はもともとどの組も1回は観るけど、バウまで観ていたのはBe-Puちゃん絡みが多い。
若くして抜擢されていたまーちゃんの舞台も、なんやかんや観ていたさ。彼女がヒロインをつとめる公演だって、複数観てきたさ。
だけどなんの感情もわかなかった。
嫌いですらなかった。目に入らないんだもの。
だから彼女が雪組コムちゃんのところへ政略結婚でやってくる、と知ったときも「ふーん」だった。ほんとーに興味がなかったんだ。
トップお披露目の『春麗がどーたら』も、いてもいなくてもいい役どころだったので、さらに印象に残らず。ショーではきれいにくるくる踊っていたけれど、もともとショーってみんないろんな人と組むじゃん? コム姫がまーちゃんと組んで踊っていたって「ふーん」でしかない。
それが今では、まーちゃんのお茶会に行くほどに、大好きになった。
わたしはお茶会ってもんに、ほとんど行かない。ジェンヌは架空の存在で、舞台の上だけで愛でるモノというスタンスだからだ。アニメやゲームの二次元キャラに萌えているのと同じ感覚。生身の人間だとは思っていない。だから入り出やお茶会には基本興味がない。
それでも行くからには、わたし的にはいくつものハードルを越えた結果となる。
花組時代、下級生時代のまーちゃんは、ほんとに芝居がアレだった。せっかくおいしい役をもらっても、他の人に食われて印象をなくして終わっていた。せっかくきれいなのに、地味であか抜けない女の子。そーゆー印象だった。
それが、雪組でトップスターになって。
彼女はどんどん変わっていった。
立場が人を変える、ということはある。だがそれは、立場によって自分を変えることができる柔軟性あってのことだ。
まーちゃんは、忠実に「タカラヅカの娘役」なのだろう。
立場によって、相手によって自分を変える。
下級生時代は技術が追いついていなかったから、立場や相手に追いつくことができずに自爆していたけれど、雪組に来るころには立派にコントロールできるようになっていた。
そして朝海ひかるという、ちょっと独特なトップスターの相手役として、舞風りらもまた独特な味を持つトップスターとなる。
追従を許さないほど美しく軽やかなデュエットダンスを踊ることができるコンビでありながら、決してラヴラヴもベタベタもしていない。硬質かつ透明な距離感。
まーちゃん単体ならば愛にあふれたキャラクタだが、コムちゃんがクールでデレデレしない、娘役への愛情をあまり外へ出さない人であるためまーちゃんもベタベタしないキャラとなった。
際立つのは、清涼な光。
その光に瞠目したのは『スサノオ』のとき。
人の心そのもののような混沌の世界に、まっすぐに立つ薄い身体。本人に色はなく、自ら発光するでなく、だがたしかにこの世の光を集めて輝く少女。
闇の中で、彼女だけが光を持っている。
少年以上女未満のような、あざやかな清さを持つ少女の姿は、物語を光ある方へ導いた。
もちろんソレは、コムちゃんの、傷つくために傷ついているような凶暴で繊細な「少年」性あってのこと。スサノオ@コムだからこそ、イナダヒメ@まーちゃんは正しく存在した。
次に彼女の持つ光に注目したのは、『銀の狼』。
心に闇を持つ男と女が、その闇ゆえに共に歩く物語。凛とした冷たさと静かさ。まぶしいわけではない、だがたしかな光がそこにある。まっすぐにのびている。
少女ではない大人の女の持つ強さと深さが、絶望をチガウ形へと導いた。
もちろんソレは、コムちゃんの、他を寄せ付けない硬質な強さと孤独感あってのこと。シルバ@コムだからこそ、ミレイユ@まーちゃんは正しく存在した。
そして、今。
『堕天使の涙』と『タランテラ!』において、まーちゃんの聖なる輝きは集大成を迎えている。
『堕天使の涙』のまーちゃんの、すばらしいこと。
美しい衣装もしなやかな身のこなしも禁じられた、わずかばかりの出番で、作品の意味を決めるのはまーちゃんだ。
彼女の浄さ、光があってこその作品だ。
途中からストーリーが横滑りしてわけわかんなくなるこの物語で、それでも物語が終わることができたのは、まーちゃんの力だ。
圧倒的な光が、世界を満たす。
光量に比例しない心地よい温度。空気に溶ける感覚。大気となり、重力を離れ、自在に舞う錯覚。
聖なるもの、を表現する力。
それを、見せてくれた。
あの清冽な少女イナダヒメが。あの清流のようなミレイユが。
彼女たちを息づかせた女優が、たしかな力を持って、天使となって舞い降りた。
と、これだけでもすげーっつーに。
つづく『タランテラ!』では。
聖なるモノゆえのおそろしさを、見せつけた。
美しいモノ、清いモノが、反面どれだけおそろしいか。
汚れたモノにとって、闇にとって、天からの光がどれほど惨く容赦ないか。
彼女が「天使」であるがゆえの「痛さ」を解放した。
あの清冽な少女イナダヒメが。あの清流のようなミレイユが。
彼女たちを息づかせた女優が、たしかな力を持って、裁く者となって舞い降りた。
正しい者、聖なる者、清浄なる者の持つ剣。
女神は光の剣を抜き放ち、闇を斬り捨てる。
際立つのは、清涼な光。
長くなったんで、続く。
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