いつか好きになる未来・その2。@まーちゃんとわたし。
2006年10月29日 タカラヅカまーちゃん語り、続き。
際立つのは、清涼な光。
その光に感服して、わたしは「舞風りら」のナマの声を聞きに、お茶会へ行ったんだ。
maさんとハイディさん夫妻と同席。
最後のお茶会つーことで、内容は「舞風りらの歴史を振り返る」ものとなっていた。
初舞台から思い出をたどるトークは、わたしの記憶を確認するものでもあった。
ああそうだ、たしかにわたし、その舞台観ているわ。でも、とくになんとも思わなかった。当時のまーちゃんには興味がなかった。
司会の質問に答える形で思い出を語るまーちゃんは、年末の「カウントダウン」イベントで見たときよりしっかりとした、大人の女性だった。や、なんかこう、まーちゃんつーと天然さんのイメージ強くて。「カウントダウン」のときだって、「数を後ろから数えられない(カウントダウンができない)」ので練習をしたとか、でもやっぱりうまく数えられなかったとかが、あまりに印象強くてな(笑)。
具体的な内容については、なにもおぼえていない。や、わたし、客観的記録はまったく取れない人間ですから。
あるのは、まーちゃんを見た「わたしの」感じたことのみ。
ええ、もう、もう、かわいすぎるよ!!
なんなの、あの細さ、華奢さ。
細いだけぢゃないのよ、存在自体が軽やかなの。ありえねー透明感。
笑顔がこぼれてこぼれて、なにかきれいな音がしている。
人間ぢゃない……マジで天使ぢゃないのか、このひと。
まーちゃんから参加者ひとりひとりに、紅茶のプレゼント(ティーバッグがかわいく包装してあるもの)があったんだが、ちゃんと目を見てにっこり微笑まれて一瞬放心しちゃったよあたしゃ。
どどどどーしよー、天使の目にわたしが映ってしまったわっ。天使が汚れる……とゆーよりは、汚れきったわたしが「アチアチアチ」と光に焼かれて焦げている感じ。天使様はわたし程度のゴミを見たって、汚れるはずがないものっ。
なんかもう、おそれおおくてなにも言えない、そばにも寄れないっす。
だけど神々しいというよりは、親しみやすいやわらかさを持っていて。
女神ではなく天使なんだなあ。
裁く者ではなくて、癒す者なんだなあ。と、しみじみ。
こんなすてきな女性だからこそ、舞台であれほどの光を放てるんだなと、遠くぼーっと考えた。
まーちゃんトークの間、わたしはひとりでボロボロ泣いてたんですが、まあ気にしないでやってくれ。良くも悪くも感情が揺れると泣いてしまうので。べつにまーちゃん、かなしい話なんかせずに、やさしい元気なお話していただけなのになー。
長い間わたしは、「舞風りら」という舞台人を好きではなかった。好き嫌い以前に、興味もなかった。
舞台にいることも、ときにはヒロインであることもわかっていたが、なにも感じずスルーしていた。
わたしがなにも感じなかったいくつもの舞台の、「当時の思い出」をまーちゃんが語る。
たしかに、この人なんだ。
あの舞台も、この舞台も、この人だったんだ。
残念ながら、記憶はない。興味なくスルーしていたわたしには、彼女がどんなふうに演じていたか踊っていたか、語られても思い出せない。
だからといって、残念ではないのだ。
や、もちろん「もっとちゃんと見て、おぼえていればいいのに」とは思っているよ。それとは別にな。
今、好きであることが、うれしいんだ。
友だちが「りらちゃんかわいい」と横でずっと言っていたのに、それでもぜんぜん記憶に残っていなかった。
あれほどなんの興味もなかった。
そんな人のことを、今、好きであることがうれしい。
ひとはどこからでも、好きになれるんだ。
どこからでもスタート地点になるんだ。
長年なんとも思ってなかったから、これからもそうだ、なんてことはないんだ。
いつ、どこで開眼してダイスキになるか、誰にもわからないんだ。
そのことが、うれしい。
なんだか人生、宝の地図みたいだ。
今現在なんとも思っていない人のことも、これから突然好きになるかもしれない。
ヘレン・ケラーの「ウォーター」みたいに、世界が突然変わるかも。
そう思えることがうれしい。
出会えることがうれしい。
今わたし、舞台人「舞風りら」が好き。その力量を認め、尊敬している。
「なんで緑野さんがりらちゃんのお茶会に行くの? ぜんぜん好きじゃなかったじゃない!」
長いつきあいのBe-Puちゃんは、そう言うけれど。
好きじゃなかった。
でも、好きになった。
好きな人が増えること、それがうれしい。
わくわくする。
トシを取り、衰えるだけの人生は虚しいけれど、それだけぢゃないって思えるよ。
いつか、好きになる未来がある。
今は思いもしないなにか。
そのことに、わくわくしていられる。
ああ、まーちゃん好きだー。
天使だと思える人に、会えてよかった。
ダイスキであることが、うれしい。
際立つのは、清涼な光。
その光に感服して、わたしは「舞風りら」のナマの声を聞きに、お茶会へ行ったんだ。
maさんとハイディさん夫妻と同席。
最後のお茶会つーことで、内容は「舞風りらの歴史を振り返る」ものとなっていた。
初舞台から思い出をたどるトークは、わたしの記憶を確認するものでもあった。
ああそうだ、たしかにわたし、その舞台観ているわ。でも、とくになんとも思わなかった。当時のまーちゃんには興味がなかった。
司会の質問に答える形で思い出を語るまーちゃんは、年末の「カウントダウン」イベントで見たときよりしっかりとした、大人の女性だった。や、なんかこう、まーちゃんつーと天然さんのイメージ強くて。「カウントダウン」のときだって、「数を後ろから数えられない(カウントダウンができない)」ので練習をしたとか、でもやっぱりうまく数えられなかったとかが、あまりに印象強くてな(笑)。
具体的な内容については、なにもおぼえていない。や、わたし、客観的記録はまったく取れない人間ですから。
あるのは、まーちゃんを見た「わたしの」感じたことのみ。
ええ、もう、もう、かわいすぎるよ!!
なんなの、あの細さ、華奢さ。
細いだけぢゃないのよ、存在自体が軽やかなの。ありえねー透明感。
笑顔がこぼれてこぼれて、なにかきれいな音がしている。
人間ぢゃない……マジで天使ぢゃないのか、このひと。
まーちゃんから参加者ひとりひとりに、紅茶のプレゼント(ティーバッグがかわいく包装してあるもの)があったんだが、ちゃんと目を見てにっこり微笑まれて一瞬放心しちゃったよあたしゃ。
どどどどーしよー、天使の目にわたしが映ってしまったわっ。天使が汚れる……とゆーよりは、汚れきったわたしが「アチアチアチ」と光に焼かれて焦げている感じ。天使様はわたし程度のゴミを見たって、汚れるはずがないものっ。
なんかもう、おそれおおくてなにも言えない、そばにも寄れないっす。
だけど神々しいというよりは、親しみやすいやわらかさを持っていて。
女神ではなく天使なんだなあ。
裁く者ではなくて、癒す者なんだなあ。と、しみじみ。
こんなすてきな女性だからこそ、舞台であれほどの光を放てるんだなと、遠くぼーっと考えた。
まーちゃんトークの間、わたしはひとりでボロボロ泣いてたんですが、まあ気にしないでやってくれ。良くも悪くも感情が揺れると泣いてしまうので。べつにまーちゃん、かなしい話なんかせずに、やさしい元気なお話していただけなのになー。
長い間わたしは、「舞風りら」という舞台人を好きではなかった。好き嫌い以前に、興味もなかった。
舞台にいることも、ときにはヒロインであることもわかっていたが、なにも感じずスルーしていた。
わたしがなにも感じなかったいくつもの舞台の、「当時の思い出」をまーちゃんが語る。
たしかに、この人なんだ。
あの舞台も、この舞台も、この人だったんだ。
残念ながら、記憶はない。興味なくスルーしていたわたしには、彼女がどんなふうに演じていたか踊っていたか、語られても思い出せない。
だからといって、残念ではないのだ。
や、もちろん「もっとちゃんと見て、おぼえていればいいのに」とは思っているよ。それとは別にな。
今、好きであることが、うれしいんだ。
友だちが「りらちゃんかわいい」と横でずっと言っていたのに、それでもぜんぜん記憶に残っていなかった。
あれほどなんの興味もなかった。
そんな人のことを、今、好きであることがうれしい。
ひとはどこからでも、好きになれるんだ。
どこからでもスタート地点になるんだ。
長年なんとも思ってなかったから、これからもそうだ、なんてことはないんだ。
いつ、どこで開眼してダイスキになるか、誰にもわからないんだ。
そのことが、うれしい。
なんだか人生、宝の地図みたいだ。
今現在なんとも思っていない人のことも、これから突然好きになるかもしれない。
ヘレン・ケラーの「ウォーター」みたいに、世界が突然変わるかも。
そう思えることがうれしい。
出会えることがうれしい。
今わたし、舞台人「舞風りら」が好き。その力量を認め、尊敬している。
「なんで緑野さんがりらちゃんのお茶会に行くの? ぜんぜん好きじゃなかったじゃない!」
長いつきあいのBe-Puちゃんは、そう言うけれど。
好きじゃなかった。
でも、好きになった。
好きな人が増えること、それがうれしい。
わくわくする。
トシを取り、衰えるだけの人生は虚しいけれど、それだけぢゃないって思えるよ。
いつか、好きになる未来がある。
今は思いもしないなにか。
そのことに、わくわくしていられる。
ああ、まーちゃん好きだー。
天使だと思える人に、会えてよかった。
ダイスキであることが、うれしい。
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