そして、今日は明日へ続くんだ。@湖月わたるザ・ラストディ
2006年11月12日 タカラヅカ 今日はワタさんの卒業の日。
寒風吹きすさぶ中、ひとり御堂会館へ中継『湖月わたる ザ・ラストディ』を見に行きました。
1ヶ月ちょいぶりの星組。
ええ、東宝初日以来っす。
他感想日記に追われて書きそびれていたけれど、東宝初日観に行ってました。
フィナーレで大階段ボレロまるまる増えていて感動したさ。
ずっとずっと、こわかった。
この日が来るの。
「なかったこと」にできるなら、布団かぶって1日中丸まっていたかった。
愉快なリチャード先生@『MIND TRAVELLER』の話でも書き続けて、「知らなかったこと」にしてしまいたかった。
考えたくない。
それが本音。
だけど現実に時は流れ、終わりはやってくる。船は港に着いてしまう。
納得しきれないまま、中継会場へ行った。
で。
「知らない目線」で『愛するには短すぎる』『ネオ・ダンディズム!』を見た。
カメラが映し出すところの、2作品。
どこで誰を映し、どこで引きどこでアップになるか。わたしとはチガウ意志で作品を見ている目。
新鮮であり、じれったくもあった。
芝居はわりと物語に忠実。ワタさん中心ではあっても、いつぞやのエスプリホールとは大違い(ストーリー無視で退団するトップスターだけをえんえん映し続けていたことがあった)。
トウコちゃんやとなみちゃんも、よく映っていたと思う。
あ、避難訓練のちぐの台詞が、ちゃんと彼中心にアップになっていたことには感動した(笑)。
ショーはわりとワタさんピン撮りになっていた印象。誰が歌っていても踊っていても、ワタさん中心。ワタさんアップ。
東宝の生中継を見るのははじめてだったんだけど(基本的にわたしはムラで送り出したらソレで終わり、納得していた)、芝居では拍手ナシだったのが、ショーでは映像と一緒になって拍手したり手拍子したりで、拍手の音が二重に聞こえる不思議さがあった。
オペラグラスで見るよりもアップで、克明に映し出される出演者の顔、表情。ボリュームでかすぎの音声。
それは舞台が深化することによって起こる星組らしい「やりすぎ」感をさらに強調する。
……なんていうかなあ。
わたしは、「置いてけぼり」な感じがしたんだ。
もちろん中継を楽しみ、なんかもーあちこちでべそべそ泣き、退団者挨拶でもべーべー泣いていたんだが。
入り込んでいなかったわけではないんだが。
自分の中の、「心の断絶感」を、ぬぐい去ることはできなかったんだ。
なんかね、見終わった後ひとりでミナミ界隈流しながら、前にサトリちゃんと一緒に買い物した店とかたどりながら、もうタカラヅカファン辞めたいかもと思った。
わたしはタカラヅカというジャンルすべてを愛しているし、各組に好きな人がいる。いちおー順番はあるけれど、そのときそのときで好きな順番が変わっていることなんか当たり前だ。
ヒトよりも作品や役に萌えるので、萌えな作品、萌えな役を中心にたのしむ。
だからいつも、たのしい。
苦手な人はそもそも目に入らないので嫌うこともないし、好きでない人だって好みの役をやってくれればそのときはちゃんと好きでいられる。
「好きであること」がたのしくて仕方がない。好きなこと、好きな人が増えるのがたのしい。
どきどきして、わくわくして、しあわせでいられる。
そーやって、いつもなにかしら誰かしら好きで、しあわせに騒いでいられたのだけど。
心の切り替えが、うまくできない。
たかちゃんを見送ったところまでは、なんとかバランスが取れていた。
だが、ワタさんは。
大劇でワタさんを見送り、まだワタさんとワタさんの星組が終わっていない、東宝で公演しているときに、コムちゃんの退団公演がムラではじまった。
ワタさんは東宝で公演している。
『愛短』はダイスキだ。フレッドが大好きだ。『ネオダン』は全部じゃないけれど、好きなところもたくさんある。観たいところがたくさんある。
だけどわたしは、ワタさんと星組のことを考えている余裕がなくなってしまった。
コムちゃんとオギーショーでかき乱されて、なんかアタマがくわんくわんしていて、音楽がずっと響いていて、毒蜘蛛に踊らされたままだった。
かしちゃんのこともある。わたしはかしちゃんの退団を受け止め切れていない。アタマが拒否したまんまだ。雪組をずっと愛してきた、その歴史の中にあったりまえにかしちゃんはいる。どの記憶にも光景にもかしちゃんはいるんだよ。その終わりが、あんな形でもたらされるのが信じられない。
いつだって、たくさんの人を大好きでいた。
常時複数の人を好きでいられ、そのときそのときをたのしむのがわたしのファン生活だった。
でもソレ、もう無理だ。
わたしは神様じゃない、誰も彼もを同じように愛したりできない。
誰かを見つめたら、他の人のことは見られなくなる。
誰かを選ばなければならないのか。
「みんなダイスキ」じゃ、ダメなのか。
……当たり前、だろう。わたし以外の人は当たり前にそうしてきたんだろう。
でもわたしは、そんな当たり前のことがわかっていなかった。
ワタさんと彼の星組が好きだった。大切だった。
なのに何故わたしは、こんなところで中継を見て、断絶感を持っているんだろう。
ワタさんと星組が好きなら、この1ヶ月ワタさんと星組のことだけ考えてなきゃいけなかったんだよ。チケットがないなんて言い訳だ、行ける日にとにかく東京へ行って、始発前から劇場前に並べばよかっただけのことなんだから。お金を積めば、いくらでも入手できたんだから。
チケットないから、と上京しなかった。チケットが手に入った初日以外は行かなかった。
そして、ムラに通っていた。コムちゃんと毒蜘蛛のことでいっぱいいっぱいだった。
わたしの心は、途絶えていた。
ワタさんと、星組から。
だからラストディ中継を見ても断絶感があるんだ。
ひどい。あんまりだ。
自分で自分が嫌だ。
大切な人を、大切な時間を、きちんと見送ることをしなかった。
これからも、こんなことを続けるのか?
コムちゃんのことはどうなの? 東宝はもちろん、チケットがない。それを理由に忘れるの? かしちゃん最後の公演がムラでやっているから、それに集中してコムちゃんから心を離れさせるの?
退団公演が続く、異常な状態。
すべての組を観、さまざまな人を愛してきた結果がコレ。
なんか疲れた。
そして、こわくなった。
わたしのようなスタンスで、タカラヅカを愛するのは不可能なんだ。
わたしが、あきらめなければならないんだ。
わたしが、整理をつけなくてはならないんだ。
なにもかもを欲しがった、わたしの罪。
いっそ全部、捨ててしまえれば楽なんだろうけど。
ワタさんが卒業したら、ナニかが「終わる」。
そんな気がして、ひたすらこわかった。お気楽に『MIND TRAVELLER』のことでも考えていたかった。
退団者の挨拶にはいつも心を洗われる。感謝の言葉をのべて去る、その美しさ。
なかでもエンディーの挨拶はすごかった。「言葉」に「心」があると、他人の心に届くんだよね。揺らすんだよね。や、他の人の挨拶に心がないという意味ではなくて。
長々喋る高央さんに、中継組の客席も「なんだ?」って感じだった。良くも悪くも伝統行事、パターンってものがあるじゃない。そこからはずれるものには生理的に「おや?」と思うのだろう。
それが、彼の言葉の奥にあるモノに突き動かされて、客席の空気が動く。
意志のある感謝と達成の言葉に、心からの拍手で応えたい。
ワタさんはいつもいつもそして最後まで、存在に安定感のある人だった。
言葉のひとつひとつまでに、端正さと包容力がある。
今までワタさんを「かっこいい」と思っていた。今もそう思うけれど、最後の最後に思った。
美しい人だと。
男役としての美しさ。タカラジェンヌとしての美しさ。人間としての美しさ。
東京に行くことはできなかったけれど、こんなカタチになってしまったけれど、大切な星組トップスターさん。
見せてくれたさまざまなものに、感謝している。
寒風吹きすさぶ中、ひとり御堂会館へ中継『湖月わたる ザ・ラストディ』を見に行きました。
1ヶ月ちょいぶりの星組。
ええ、東宝初日以来っす。
他感想日記に追われて書きそびれていたけれど、東宝初日観に行ってました。
フィナーレで大階段ボレロまるまる増えていて感動したさ。
ずっとずっと、こわかった。
この日が来るの。
「なかったこと」にできるなら、布団かぶって1日中丸まっていたかった。
愉快なリチャード先生@『MIND TRAVELLER』の話でも書き続けて、「知らなかったこと」にしてしまいたかった。
考えたくない。
それが本音。
だけど現実に時は流れ、終わりはやってくる。船は港に着いてしまう。
納得しきれないまま、中継会場へ行った。
で。
「知らない目線」で『愛するには短すぎる』『ネオ・ダンディズム!』を見た。
カメラが映し出すところの、2作品。
どこで誰を映し、どこで引きどこでアップになるか。わたしとはチガウ意志で作品を見ている目。
新鮮であり、じれったくもあった。
芝居はわりと物語に忠実。ワタさん中心ではあっても、いつぞやのエスプリホールとは大違い(ストーリー無視で退団するトップスターだけをえんえん映し続けていたことがあった)。
トウコちゃんやとなみちゃんも、よく映っていたと思う。
あ、避難訓練のちぐの台詞が、ちゃんと彼中心にアップになっていたことには感動した(笑)。
ショーはわりとワタさんピン撮りになっていた印象。誰が歌っていても踊っていても、ワタさん中心。ワタさんアップ。
東宝の生中継を見るのははじめてだったんだけど(基本的にわたしはムラで送り出したらソレで終わり、納得していた)、芝居では拍手ナシだったのが、ショーでは映像と一緒になって拍手したり手拍子したりで、拍手の音が二重に聞こえる不思議さがあった。
オペラグラスで見るよりもアップで、克明に映し出される出演者の顔、表情。ボリュームでかすぎの音声。
それは舞台が深化することによって起こる星組らしい「やりすぎ」感をさらに強調する。
……なんていうかなあ。
わたしは、「置いてけぼり」な感じがしたんだ。
もちろん中継を楽しみ、なんかもーあちこちでべそべそ泣き、退団者挨拶でもべーべー泣いていたんだが。
入り込んでいなかったわけではないんだが。
自分の中の、「心の断絶感」を、ぬぐい去ることはできなかったんだ。
なんかね、見終わった後ひとりでミナミ界隈流しながら、前にサトリちゃんと一緒に買い物した店とかたどりながら、もうタカラヅカファン辞めたいかもと思った。
わたしはタカラヅカというジャンルすべてを愛しているし、各組に好きな人がいる。いちおー順番はあるけれど、そのときそのときで好きな順番が変わっていることなんか当たり前だ。
ヒトよりも作品や役に萌えるので、萌えな作品、萌えな役を中心にたのしむ。
だからいつも、たのしい。
苦手な人はそもそも目に入らないので嫌うこともないし、好きでない人だって好みの役をやってくれればそのときはちゃんと好きでいられる。
「好きであること」がたのしくて仕方がない。好きなこと、好きな人が増えるのがたのしい。
どきどきして、わくわくして、しあわせでいられる。
そーやって、いつもなにかしら誰かしら好きで、しあわせに騒いでいられたのだけど。
心の切り替えが、うまくできない。
たかちゃんを見送ったところまでは、なんとかバランスが取れていた。
だが、ワタさんは。
大劇でワタさんを見送り、まだワタさんとワタさんの星組が終わっていない、東宝で公演しているときに、コムちゃんの退団公演がムラではじまった。
ワタさんは東宝で公演している。
『愛短』はダイスキだ。フレッドが大好きだ。『ネオダン』は全部じゃないけれど、好きなところもたくさんある。観たいところがたくさんある。
だけどわたしは、ワタさんと星組のことを考えている余裕がなくなってしまった。
コムちゃんとオギーショーでかき乱されて、なんかアタマがくわんくわんしていて、音楽がずっと響いていて、毒蜘蛛に踊らされたままだった。
かしちゃんのこともある。わたしはかしちゃんの退団を受け止め切れていない。アタマが拒否したまんまだ。雪組をずっと愛してきた、その歴史の中にあったりまえにかしちゃんはいる。どの記憶にも光景にもかしちゃんはいるんだよ。その終わりが、あんな形でもたらされるのが信じられない。
いつだって、たくさんの人を大好きでいた。
常時複数の人を好きでいられ、そのときそのときをたのしむのがわたしのファン生活だった。
でもソレ、もう無理だ。
わたしは神様じゃない、誰も彼もを同じように愛したりできない。
誰かを見つめたら、他の人のことは見られなくなる。
誰かを選ばなければならないのか。
「みんなダイスキ」じゃ、ダメなのか。
……当たり前、だろう。わたし以外の人は当たり前にそうしてきたんだろう。
でもわたしは、そんな当たり前のことがわかっていなかった。
ワタさんと彼の星組が好きだった。大切だった。
なのに何故わたしは、こんなところで中継を見て、断絶感を持っているんだろう。
ワタさんと星組が好きなら、この1ヶ月ワタさんと星組のことだけ考えてなきゃいけなかったんだよ。チケットがないなんて言い訳だ、行ける日にとにかく東京へ行って、始発前から劇場前に並べばよかっただけのことなんだから。お金を積めば、いくらでも入手できたんだから。
チケットないから、と上京しなかった。チケットが手に入った初日以外は行かなかった。
そして、ムラに通っていた。コムちゃんと毒蜘蛛のことでいっぱいいっぱいだった。
わたしの心は、途絶えていた。
ワタさんと、星組から。
だからラストディ中継を見ても断絶感があるんだ。
ひどい。あんまりだ。
自分で自分が嫌だ。
大切な人を、大切な時間を、きちんと見送ることをしなかった。
これからも、こんなことを続けるのか?
コムちゃんのことはどうなの? 東宝はもちろん、チケットがない。それを理由に忘れるの? かしちゃん最後の公演がムラでやっているから、それに集中してコムちゃんから心を離れさせるの?
退団公演が続く、異常な状態。
すべての組を観、さまざまな人を愛してきた結果がコレ。
なんか疲れた。
そして、こわくなった。
わたしのようなスタンスで、タカラヅカを愛するのは不可能なんだ。
わたしが、あきらめなければならないんだ。
わたしが、整理をつけなくてはならないんだ。
なにもかもを欲しがった、わたしの罪。
いっそ全部、捨ててしまえれば楽なんだろうけど。
ワタさんが卒業したら、ナニかが「終わる」。
そんな気がして、ひたすらこわかった。お気楽に『MIND TRAVELLER』のことでも考えていたかった。
退団者の挨拶にはいつも心を洗われる。感謝の言葉をのべて去る、その美しさ。
なかでもエンディーの挨拶はすごかった。「言葉」に「心」があると、他人の心に届くんだよね。揺らすんだよね。や、他の人の挨拶に心がないという意味ではなくて。
長々喋る高央さんに、中継組の客席も「なんだ?」って感じだった。良くも悪くも伝統行事、パターンってものがあるじゃない。そこからはずれるものには生理的に「おや?」と思うのだろう。
それが、彼の言葉の奥にあるモノに突き動かされて、客席の空気が動く。
意志のある感謝と達成の言葉に、心からの拍手で応えたい。
ワタさんはいつもいつもそして最後まで、存在に安定感のある人だった。
言葉のひとつひとつまでに、端正さと包容力がある。
今までワタさんを「かっこいい」と思っていた。今もそう思うけれど、最後の最後に思った。
美しい人だと。
男役としての美しさ。タカラジェンヌとしての美しさ。人間としての美しさ。
東京に行くことはできなかったけれど、こんなカタチになってしまったけれど、大切な星組トップスターさん。
見せてくれたさまざまなものに、感謝している。
コメント