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うつくしいせかい。@朝海ひかるザ・ラストディ
2006年12月24日 タカラヅカ 12月24日。コム姫卒業の日。
わたしは大阪梅田の、『朝海ひかるザ・ラストディ』中継会場へ行った。
海馬祭りをやっていた茶屋町梅田芸術劇場ですよ、ええ。海馬祭りは地下のドラマシティ、中継はメインホールでだけども。この界隈にはすごい密度で通っている気がする……。
コムちゃんの入りにかしちゃんが来ていたとか、現地のジュンタンから速報を受けつつ、ひとりで大阪。や、会場に行けば友だちには会えたんだけど。気分はひとりぼっち。どりーずのみんながいないんだもん。
梅芸はライヴのみを念頭に置いた劇場であり、映像を見るには適していないことに、席に着いてから気づく。「映像なんだから、どこで見ても同じ。前方センター席なんて、かえって見にくいかも?」と思っていたが、大間違い。
スクリーン、小さっ。しかも、えらく奥まってる。後方席や2階席だと、かなり遠かったり小さかったりするんじゃないの、コレ……? 映画館感覚で席を選んでいたら、後悔したかも。や、わたしは譲っていただいた席なんで選ぶもナニもないし、結果としてすげー良いお席だったわけじゃが。
『堕天使の涙』は、素直に映像をたのしんだ。芝居はストーリー中心に映してくれるとわかっていたので、ある意味安心し、大スクリーンに映し出されるコム姫たちの、繊細な表情の動きなどを堪能。
そーいやわたし、映像で『堕天使』を見るのははじめてだと気づく。
『タランテラ!』のDVDは買っていたけれど、なにしろ『タランテラ!』単体が目当てだったから、芝居の方は見てなかったっすよ。だからDVDとどうチガウかはわからない。
わたしの懸念は、『タランテラ!』のみだ。
映像では、『タランテラ!』はわからない。どうあがいも伝わらない。
わかっていても、見届けずにはいられなかった。
東宝で『タランテラ!』を見たときに、納得はした。わたしにはこの作品を見切ることはできない。だから100も0も同じだ。永遠に届かないのだから、もう二度と観ることがなくても同じだろう。
だがそれも、今現在『タランテラ!』が存在しているという前提の上でだ。
「映像」の限界は知っている。
それゆえ、中継を見ることにこだわったのは、確認でしかない。
記憶の確認。
想いの確認。
コム姫がコム姫として存在すること。
まーちゃんがまーちゃんとして存在すること。
この素晴らしいキャストがあってこそ、『タランテラ!』が息づいているのだということ。
たとえわたしが二度と『タランテラ!』を観られなくても。
『タランテラ!』がある、今も上演されているということが、救いだった。
あのうつくしい世界が、存在していること。
それが、救いだったんだよ。
中継映像は、DVDよりコムちゃん中心になっていた。といってもDVDのAnother Angle(コム姫ピン取りオンリー)ではなく。
たしかにある。
存在している。
触れることはできなくても、そこにいてくれる。
いてくれるだけでいいのに。
舞台は、消える芸術だ。
そのとき一瞬しか存在しない。
だからこそ、魅力的な世界だ。
いつかわたしが死ぬことと同じよーに、いずれ確実に消えてしまう。自然の摂理から解き放たれることなんかない。
それがわかっていてなお、思う。願う。祈る。
そこにいて。存在していて。
「タカラヅカ」の、美しい虚構のままいて。
『タランテラ!』とコム姫の境などなく。
『タランテラ!』とまーちゃんの境などなく。
消えないで。存在していて。
手が届かなくていいから。わたしなんかが理解も近寄りもできないところにいてくれていいから。
いてくれるだけでいいから。
幕が下りるまで、見守った。
『タランテラ!』が終わる。
タカラヅカでしか表現できない、コムまーでしか表現できない、コムまーをもっとも強く鮮明に描き出した、あのうつくしいせかいが、消える。
そのことを、かなしんだ。
サヨナラショーは、とても他人行儀だった。わたしにとっては。
気持ちが『タランテラ!』で燃え尽きてしまい、あとはムラで観たときの郷愁や衝撃を遠くから再確認している感じ。
にしてもやっぱ、コム姫らしく特異なサヨナラショーだよな(笑)。同時退団の相手役と触れ合わない、ラストシーンは定番の「組子に囲まれて幕」ぢゃない、つーのは。
コレを臆面もなく演出したオギーも、そして板に乗っているコム姫もすげえ。
公演部分が終わってからだ。中継が中継としての意義や効力を発揮するのは。
退団者挨拶は、人物をアップで映すことのできる映像の利点だよなー。
緞帳を使って退団者の「乙女」写真を映すのは、やはり映像好きのオギーならではの演出だったんだね。宙組ではなかったもの。
また、コム姫登場時のオケ演奏も、オギーのこだわり?
退団者たちの挨拶をスクリーンいっぱいのアップで見守る。
劇場の隅からオペラグラスで見るよりはるかにアップ。自宅の小さなテレビで見るよりはるかに大きく。
しあわせであれ、と思う。
10代のころに自分で選んだ夢と、決別をする人たち。卒業する人たち。ここ、にいた年数も過ごしてきた濃度も、ひとりひとりがチガウにしろ。一様に、前へ進むことを決めた人たち。
「終わる」こと「別れる」ことは寂しくても、その選択が正しいことを信じて。
しあわせであれ。
まーちゃんはでろでろにかわいらしく。最後になって、コム姫への愛をのろけてくれるのが、うれしくてならない。
コム姫はまーちゃんが想うほどまーちゃんを愛してはいなかったように見えたけれど、まーちゃんにはきっとそんなこと関係ないんだよなー。
「愛」は名詞ではなく動詞である。相手を好きで、好きでいること自体を「幸福」と思える……まーちゃんがそういう人であることが、泣けるほどうれしくて、わたしは幸福を感じるんだ。
コムちゃんへの愛と感謝を、幸福な笑い声と共に語るまーちゃんが愛しい。
相手から返されるものが多かろうと少なかろうと、「愛」する者には関係ない。「愛」している、そのことがすでに幸福だから。
彼女の陽だまりのようなあたたかさと、懐の深さに癒される。ダイスキだ。
コム姫は最後までコム姫で。
正式の挨拶は短く。え? これで終わり? だったんだが。
正念場はそのあとだよな。繰り返され続けるアンコールで、なにか喋らなきゃいけないことがわかっているんだから、そっちへ取っておいたって感じ? 合理的だな、姫。
コム節炸裂。あの飄々としたみょーーな喋りで、場を泣き笑いさせる。ああ、まったくもー。
退団者全員にひとことずつ喋らせたりと、気配りを見せて場を仕切りながらも。
隣のまーちゃんを、振り返りもしねえ。
まーちゃんは何度も何度も、うれしそうにコム姫を振り返るのに、完全無視。視線を返してもらえないまーちゃんは、それでも笑顔のまま視線を戻す。……あああ。最後の最後まで、コムまーだ。あまりにらしくて、苦笑してしまう。
好きだよ。
そーゆーとこも含めて。
コム姫がコム姫らしく、まーちゃんがまーちゃんらしくある、そしてそのことをあったりまえに受け止め、赦す、この世界を、美しいと思う。
卒業おめでとう。
それから、ありがとう。こんなに、好きだと思わせてくれて。好きという、豊かさをわたしの心に満たしてくれて。
わたしは大阪梅田の、『朝海ひかるザ・ラストディ』中継会場へ行った。
海馬祭りをやっていた茶屋町梅田芸術劇場ですよ、ええ。海馬祭りは地下のドラマシティ、中継はメインホールでだけども。この界隈にはすごい密度で通っている気がする……。
コムちゃんの入りにかしちゃんが来ていたとか、現地のジュンタンから速報を受けつつ、ひとりで大阪。や、会場に行けば友だちには会えたんだけど。気分はひとりぼっち。どりーずのみんながいないんだもん。
梅芸はライヴのみを念頭に置いた劇場であり、映像を見るには適していないことに、席に着いてから気づく。「映像なんだから、どこで見ても同じ。前方センター席なんて、かえって見にくいかも?」と思っていたが、大間違い。
スクリーン、小さっ。しかも、えらく奥まってる。後方席や2階席だと、かなり遠かったり小さかったりするんじゃないの、コレ……? 映画館感覚で席を選んでいたら、後悔したかも。や、わたしは譲っていただいた席なんで選ぶもナニもないし、結果としてすげー良いお席だったわけじゃが。
『堕天使の涙』は、素直に映像をたのしんだ。芝居はストーリー中心に映してくれるとわかっていたので、ある意味安心し、大スクリーンに映し出されるコム姫たちの、繊細な表情の動きなどを堪能。
そーいやわたし、映像で『堕天使』を見るのははじめてだと気づく。
『タランテラ!』のDVDは買っていたけれど、なにしろ『タランテラ!』単体が目当てだったから、芝居の方は見てなかったっすよ。だからDVDとどうチガウかはわからない。
わたしの懸念は、『タランテラ!』のみだ。
映像では、『タランテラ!』はわからない。どうあがいも伝わらない。
わかっていても、見届けずにはいられなかった。
東宝で『タランテラ!』を見たときに、納得はした。わたしにはこの作品を見切ることはできない。だから100も0も同じだ。永遠に届かないのだから、もう二度と観ることがなくても同じだろう。
だがそれも、今現在『タランテラ!』が存在しているという前提の上でだ。
「映像」の限界は知っている。
それゆえ、中継を見ることにこだわったのは、確認でしかない。
記憶の確認。
想いの確認。
コム姫がコム姫として存在すること。
まーちゃんがまーちゃんとして存在すること。
この素晴らしいキャストがあってこそ、『タランテラ!』が息づいているのだということ。
たとえわたしが二度と『タランテラ!』を観られなくても。
『タランテラ!』がある、今も上演されているということが、救いだった。
あのうつくしい世界が、存在していること。
それが、救いだったんだよ。
中継映像は、DVDよりコムちゃん中心になっていた。といってもDVDのAnother Angle(コム姫ピン取りオンリー)ではなく。
たしかにある。
存在している。
触れることはできなくても、そこにいてくれる。
いてくれるだけでいいのに。
舞台は、消える芸術だ。
そのとき一瞬しか存在しない。
だからこそ、魅力的な世界だ。
いつかわたしが死ぬことと同じよーに、いずれ確実に消えてしまう。自然の摂理から解き放たれることなんかない。
それがわかっていてなお、思う。願う。祈る。
そこにいて。存在していて。
「タカラヅカ」の、美しい虚構のままいて。
『タランテラ!』とコム姫の境などなく。
『タランテラ!』とまーちゃんの境などなく。
消えないで。存在していて。
手が届かなくていいから。わたしなんかが理解も近寄りもできないところにいてくれていいから。
いてくれるだけでいいから。
幕が下りるまで、見守った。
『タランテラ!』が終わる。
タカラヅカでしか表現できない、コムまーでしか表現できない、コムまーをもっとも強く鮮明に描き出した、あのうつくしいせかいが、消える。
そのことを、かなしんだ。
サヨナラショーは、とても他人行儀だった。わたしにとっては。
気持ちが『タランテラ!』で燃え尽きてしまい、あとはムラで観たときの郷愁や衝撃を遠くから再確認している感じ。
にしてもやっぱ、コム姫らしく特異なサヨナラショーだよな(笑)。同時退団の相手役と触れ合わない、ラストシーンは定番の「組子に囲まれて幕」ぢゃない、つーのは。
コレを臆面もなく演出したオギーも、そして板に乗っているコム姫もすげえ。
公演部分が終わってからだ。中継が中継としての意義や効力を発揮するのは。
退団者挨拶は、人物をアップで映すことのできる映像の利点だよなー。
緞帳を使って退団者の「乙女」写真を映すのは、やはり映像好きのオギーならではの演出だったんだね。宙組ではなかったもの。
また、コム姫登場時のオケ演奏も、オギーのこだわり?
退団者たちの挨拶をスクリーンいっぱいのアップで見守る。
劇場の隅からオペラグラスで見るよりはるかにアップ。自宅の小さなテレビで見るよりはるかに大きく。
しあわせであれ、と思う。
10代のころに自分で選んだ夢と、決別をする人たち。卒業する人たち。ここ、にいた年数も過ごしてきた濃度も、ひとりひとりがチガウにしろ。一様に、前へ進むことを決めた人たち。
「終わる」こと「別れる」ことは寂しくても、その選択が正しいことを信じて。
しあわせであれ。
まーちゃんはでろでろにかわいらしく。最後になって、コム姫への愛をのろけてくれるのが、うれしくてならない。
コム姫はまーちゃんが想うほどまーちゃんを愛してはいなかったように見えたけれど、まーちゃんにはきっとそんなこと関係ないんだよなー。
「愛」は名詞ではなく動詞である。相手を好きで、好きでいること自体を「幸福」と思える……まーちゃんがそういう人であることが、泣けるほどうれしくて、わたしは幸福を感じるんだ。
コムちゃんへの愛と感謝を、幸福な笑い声と共に語るまーちゃんが愛しい。
相手から返されるものが多かろうと少なかろうと、「愛」する者には関係ない。「愛」している、そのことがすでに幸福だから。
彼女の陽だまりのようなあたたかさと、懐の深さに癒される。ダイスキだ。
コム姫は最後までコム姫で。
正式の挨拶は短く。え? これで終わり? だったんだが。
正念場はそのあとだよな。繰り返され続けるアンコールで、なにか喋らなきゃいけないことがわかっているんだから、そっちへ取っておいたって感じ? 合理的だな、姫。
コム節炸裂。あの飄々としたみょーーな喋りで、場を泣き笑いさせる。ああ、まったくもー。
退団者全員にひとことずつ喋らせたりと、気配りを見せて場を仕切りながらも。
隣のまーちゃんを、振り返りもしねえ。
まーちゃんは何度も何度も、うれしそうにコム姫を振り返るのに、完全無視。視線を返してもらえないまーちゃんは、それでも笑顔のまま視線を戻す。……あああ。最後の最後まで、コムまーだ。あまりにらしくて、苦笑してしまう。
好きだよ。
そーゆーとこも含めて。
コム姫がコム姫らしく、まーちゃんがまーちゃんらしくある、そしてそのことをあったりまえに受け止め、赦す、この世界を、美しいと思う。
卒業おめでとう。
それから、ありがとう。こんなに、好きだと思わせてくれて。好きという、豊かさをわたしの心に満たしてくれて。
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