たしかに叫んでいる。@Hallelujah GO!GO!
2007年1月15日 タカラヅカ 『Hallelujah GO!GO!』千秋楽。
千雅てる子さんが、深々とお辞儀をした。
「稲葉先生、ありがとうございます」
涙声で、感謝の言葉を口にした。
稲葉先生は、まだ若いよね。千雅さんの息子……下手したら孫ってな世代の男の子だよね。
それでも彼は「先生」で、涙ながらに感謝をされる立場なんだ。
年齢とか立場とか。
生きる上ではどーしたってついて来るさね。
でもさ、そーゆーものと「心」はべつなところにあって。
どれだけ「エラい」大先生サマでも、「立場」的に尊敬して持ち上げなくてはならなくても、「心」とは別次元の話。
人生の先達で立派な経歴をどれほどお持ちの「先生」でも、尊敬できない人はいるだろーし、なんの実績も能力もない若造でも演出家なら「先生」と呼ぶしかなかったり、するだろうさ。
だけど今、長い年月を舞台に捧げてきたひとりの女性が、息子だの孫だのに近い年齢の若造に、心からの感謝の言葉を述べる。
雪『タランテラ!』楽の高ひづるさんでも思ったけれど、人生の大先輩たる人が、彼女たちから見ればひよっこでしかない若輩に感謝と尊敬の言葉を述べる姿に、純粋な感謝を見る気がする。
や、他の場合の人たちの感謝が不純だとかいう意味ではなくてな。
与えられるものを、「当然のことだ」と受け取ることは、いくらでもできると思うんだ。
年功序列社会において。
上下関係が死ぬまでつきまとうタカラヅカにおいて。
たとえ特別出演したって、組長は自分より上級生には「さん付け」、下級生は「呼び捨て」にして紹介するんだよ。そーゆー世界だよ。
その、理不尽なほど徹底された縦社会で。
それでも、ソレを超えて、感謝を告げる。
口先だけではなく、心から。
それを、美しいと思う。
『Hallelujah GO!GO!』において、千雅さんの扱いは、たしかにちと、みょーだった。
物語中のシスター・フィアナはべつにいい。フィナーレで、なんの脈絡もなくフラメンコ発表会がはじまるのが、ものすごーく変なんだわ。
何故突然フラメンコ?! 物語に関係ないし! しかも何故千雅さんがトップ娘役のようにセンターで踊るの?!!
わたしが最初に観たときなんか、千雅さん、出トチりするし(笑)。群舞の後ろを、長いスカートを持って千雅さんがゆっくりゆっくり登場、センターまでやってきて、なにもせずに、そのまま同じようにゆっくりゆっくり袖へ帰っていく。
なにしに来たのあの人?! と、ウケていたら、すぐにまた同じように出てきた。……あー、やっぱトチったんだー……。
退団と聞いて、あのフラメンコ発表会の意味がわかった。千雅さんへの餞だったんだね。
たしかにショーでセンター1場面つーのは破格の扱いで、それだけでどんなジェンヌでも感謝するだろうけれど。
それもたしかにあたたかい心遣いだと思うけれど。
それだけではないと、思うのね。
「物語」のなかで、舞台人・千雅てる子を、どう描いたか。どう表現し、彼女の存在を得難いモノとして、表現したか。
いなばっちが、千雅さんに涙ながらのお礼を言われるとしたら、取って付けたショーの1場面よりも、シスター・フィアナ役だと思うのよ。
フィナーレのセンターで踊ることなら他の人でもできるけれど、シスター・フィアナは千雅さんの役だから。
千雅さんが創りあげた役だから。
シスター・フィアナとして、タカラヅカの舞台で最後に生きることができた。
それを、すばらしいことだと思う。
『Hallelujah GO!GO!』は、やさしい舞台だった。やさしい物語だった。
きらきらしたものがいっぱい詰まった作品だった。
そのなかに、たしかにシスター・フィアナはいた。
感謝しているのは、わたしだ。
稲葉先生に、深々と礼をする千雅さん。
ひとりの人間がこれほど感謝するほどの舞台を、これだけの純粋な感謝が満ちる作品を、創ってくれて、ありがとう。
「心」は、つたわる。
好意とか感謝とかよろこびとか、あたたかいものはたしかに伝わるの。
舞台に立つ彼らが、たしかに愛と感謝を叫んでいる。
それが伝わる。
それが、うれしい。
きらきら輝くウメちゃんが、れおんが、他の出演者たちが、みんなみんな、なにかを放っている。
スキダ、とか、ウレシイ、とか、アリガトウ、とか、タノシイ、とか、そーゆープラスのオーラ。
それを客席で浴び、一緒になって返すんだ。
スキダ、ウレシイ、アリガトウ、タノシイ。
舞台と客席が、互いにきらきら反射しあっている。あたたかい、まぶしいものを放ち合っている。や、そりゃ舞台の輝きの方がすごいけど。
でも舞台の上の彼らも、感じてたんじゃないかなぁ。客席からナニか返ってきているって。
『ヤンブラ』楽でちょっと引くところがあったもんで、「客席と一緒に盛り上がる」が星組クオリティだとしても、TPO無視でコンサート会場みたいにされたら嫌だな、と思うところはあった。
でも今回はそーゆーノリにはならなかった。
客席は、あくまでも「ミュージカル観劇」の範疇で盛り上がっていた。
奇声を発したり立ち上がって踊ったりしなくても、ちゃんと「返せていた」と思うよ。
この「作品」に、この「物語」に相応しい愛と感謝を。
シスター・フィアナの若いころを、いなばっちにこっそり書いて欲しいんだよな。
こっそりでいいよ。
たとえば、『Appartement Cinema』のアンナ@彩音。生意気盛りにアイドルやって、落ちぶれて殺し屋と恋をして、男に去られたあともたくましく子どもを育てて、ついでに恋のひとつやふたつ花を咲かせて。
全部全部超えたあとで、つつましくシスターやってんの。
や、『アパシネ』とでは時代が合わないことはわかって言ってるよ。
ことさら「シスター・フィアナの若いころ」と宣伝しなくていい。20世紀はじめくらいのアメリカを舞台にした他の作品のなかで、こっそりフィアナを出して。わかる人だけわかる程度のヒントで。
千雅さん演じるフィアナが、若いころはアンナみたいだった、あれほどはちゃめちゃやってきました、なんて、考えるだけでたのしいもの。
千雅てる子さんが、深々とお辞儀をした。
「稲葉先生、ありがとうございます」
涙声で、感謝の言葉を口にした。
稲葉先生は、まだ若いよね。千雅さんの息子……下手したら孫ってな世代の男の子だよね。
それでも彼は「先生」で、涙ながらに感謝をされる立場なんだ。
年齢とか立場とか。
生きる上ではどーしたってついて来るさね。
でもさ、そーゆーものと「心」はべつなところにあって。
どれだけ「エラい」大先生サマでも、「立場」的に尊敬して持ち上げなくてはならなくても、「心」とは別次元の話。
人生の先達で立派な経歴をどれほどお持ちの「先生」でも、尊敬できない人はいるだろーし、なんの実績も能力もない若造でも演出家なら「先生」と呼ぶしかなかったり、するだろうさ。
だけど今、長い年月を舞台に捧げてきたひとりの女性が、息子だの孫だのに近い年齢の若造に、心からの感謝の言葉を述べる。
雪『タランテラ!』楽の高ひづるさんでも思ったけれど、人生の大先輩たる人が、彼女たちから見ればひよっこでしかない若輩に感謝と尊敬の言葉を述べる姿に、純粋な感謝を見る気がする。
や、他の場合の人たちの感謝が不純だとかいう意味ではなくてな。
与えられるものを、「当然のことだ」と受け取ることは、いくらでもできると思うんだ。
年功序列社会において。
上下関係が死ぬまでつきまとうタカラヅカにおいて。
たとえ特別出演したって、組長は自分より上級生には「さん付け」、下級生は「呼び捨て」にして紹介するんだよ。そーゆー世界だよ。
その、理不尽なほど徹底された縦社会で。
それでも、ソレを超えて、感謝を告げる。
口先だけではなく、心から。
それを、美しいと思う。
『Hallelujah GO!GO!』において、千雅さんの扱いは、たしかにちと、みょーだった。
物語中のシスター・フィアナはべつにいい。フィナーレで、なんの脈絡もなくフラメンコ発表会がはじまるのが、ものすごーく変なんだわ。
何故突然フラメンコ?! 物語に関係ないし! しかも何故千雅さんがトップ娘役のようにセンターで踊るの?!!
わたしが最初に観たときなんか、千雅さん、出トチりするし(笑)。群舞の後ろを、長いスカートを持って千雅さんがゆっくりゆっくり登場、センターまでやってきて、なにもせずに、そのまま同じようにゆっくりゆっくり袖へ帰っていく。
なにしに来たのあの人?! と、ウケていたら、すぐにまた同じように出てきた。……あー、やっぱトチったんだー……。
退団と聞いて、あのフラメンコ発表会の意味がわかった。千雅さんへの餞だったんだね。
たしかにショーでセンター1場面つーのは破格の扱いで、それだけでどんなジェンヌでも感謝するだろうけれど。
それもたしかにあたたかい心遣いだと思うけれど。
それだけではないと、思うのね。
「物語」のなかで、舞台人・千雅てる子を、どう描いたか。どう表現し、彼女の存在を得難いモノとして、表現したか。
いなばっちが、千雅さんに涙ながらのお礼を言われるとしたら、取って付けたショーの1場面よりも、シスター・フィアナ役だと思うのよ。
フィナーレのセンターで踊ることなら他の人でもできるけれど、シスター・フィアナは千雅さんの役だから。
千雅さんが創りあげた役だから。
シスター・フィアナとして、タカラヅカの舞台で最後に生きることができた。
それを、すばらしいことだと思う。
『Hallelujah GO!GO!』は、やさしい舞台だった。やさしい物語だった。
きらきらしたものがいっぱい詰まった作品だった。
そのなかに、たしかにシスター・フィアナはいた。
感謝しているのは、わたしだ。
稲葉先生に、深々と礼をする千雅さん。
ひとりの人間がこれほど感謝するほどの舞台を、これだけの純粋な感謝が満ちる作品を、創ってくれて、ありがとう。
「心」は、つたわる。
好意とか感謝とかよろこびとか、あたたかいものはたしかに伝わるの。
舞台に立つ彼らが、たしかに愛と感謝を叫んでいる。
それが伝わる。
それが、うれしい。
きらきら輝くウメちゃんが、れおんが、他の出演者たちが、みんなみんな、なにかを放っている。
スキダ、とか、ウレシイ、とか、アリガトウ、とか、タノシイ、とか、そーゆープラスのオーラ。
それを客席で浴び、一緒になって返すんだ。
スキダ、ウレシイ、アリガトウ、タノシイ。
舞台と客席が、互いにきらきら反射しあっている。あたたかい、まぶしいものを放ち合っている。や、そりゃ舞台の輝きの方がすごいけど。
でも舞台の上の彼らも、感じてたんじゃないかなぁ。客席からナニか返ってきているって。
『ヤンブラ』楽でちょっと引くところがあったもんで、「客席と一緒に盛り上がる」が星組クオリティだとしても、TPO無視でコンサート会場みたいにされたら嫌だな、と思うところはあった。
でも今回はそーゆーノリにはならなかった。
客席は、あくまでも「ミュージカル観劇」の範疇で盛り上がっていた。
奇声を発したり立ち上がって踊ったりしなくても、ちゃんと「返せていた」と思うよ。
この「作品」に、この「物語」に相応しい愛と感謝を。
シスター・フィアナの若いころを、いなばっちにこっそり書いて欲しいんだよな。
こっそりでいいよ。
たとえば、『Appartement Cinema』のアンナ@彩音。生意気盛りにアイドルやって、落ちぶれて殺し屋と恋をして、男に去られたあともたくましく子どもを育てて、ついでに恋のひとつやふたつ花を咲かせて。
全部全部超えたあとで、つつましくシスターやってんの。
や、『アパシネ』とでは時代が合わないことはわかって言ってるよ。
ことさら「シスター・フィアナの若いころ」と宣伝しなくていい。20世紀はじめくらいのアメリカを舞台にした他の作品のなかで、こっそりフィアナを出して。わかる人だけわかる程度のヒントで。
千雅さん演じるフィアナが、若いころはアンナみたいだった、あれほどはちゃめちゃやってきました、なんて、考えるだけでたのしいもの。
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