「少女」という幻影。@明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴
2007年2月13日 タカラヅカ えー、確認事項。
わたしは、キムシンファンです。
彼の作風は好きだ。
主義主張を叫ぶために、作品を利用するのはぜんぜんアリだと思っている。
座付き作家である前に、「クリエイター」であるべきだと思うので。
もしも「座付き」であることのみを求めるのなら、「演出家」はいらない。データを入力したコンピュータがはじき出した通りの流れで、ジェンヌが歌い踊ればいいだけのことになる。
クリエイターが、自分の「訴えたい」と思うテーマを描くために、1時間半の物語を作る姿勢を、「正しい」と思っている。
で、わたしのスタンスからいけば今回の『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』も、なんの問題もナイ。
テーマを叫びたいがためにいろいろ原作とチガウことをやってるが、それはクリエイターの裁量のうち。クリエイターに任されたフリースペースでしょー。
原作があればなにもかも写し取ったかのよーに原作まんまにしなければならない、というなら、演出家なんかいらないし、そもそもメディアミックスする必要もない。文学が文字情報のみで「読者の想像にゆだねられる」芸術である以上、すべての人間の「想像」を納得させる「三次元化」など不可能。なにしろ人間の数だけ「想像」があるんだから。
コピーなど不可能である、それゆえ文学作品をタカラヅカでミュージカル化する上で、変更があるのは当然のこと。
原作と別物になっていても、まったく無問題。構成だとかの骨組みが壊れてさえいなければ、創作ってのはそれくらい、幅があっていいはずだ。
ぜんぜんOK、クリエイターとしてキムシンは正しい。
ただ。
個人的に、つまんないや、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』。
わたしの好みじゃない。
わたしが観たかったのは、怪盗黒薔薇@『熱帯夜話』なのよっ!!
美を愛し、人間の作った法律だとか倫理だとか無関係に、己れの美学に忠実に生きるアーティスト。
気に入った美女や美青年を剥製にして陳列、自身も女装して優雅に振る舞う。無垢な美少女を誘惑し、純粋な青年をも弄ぶ。性や重力すら超えたよーな、妖美の化身。
「黒薔薇」が、乱歩の『黒蜥蜴』をオマージュした存在であることは、説明するまでもないだろう。実際、んな説明はされてなかったと思う。
男性でありながら、女性としての美しさをも持ち、女性の姿で少女を誘惑し、男性の姿で青年を誘惑する。徹底した倒錯。常識を嘲笑うかのよーな、圧倒的な美の力。
これは、「タカラヅカ」という特殊な世界でなくては描けない作品だと思う。
現実の男性では、「黒薔薇」は演じられない。タカラヅカの男役のみが具象化できる。
……まあコレは、「黒蜥蜴」役がオサではなく彩音ちゃんだった段階で「無理だ」とあきらめたけれど。てゆーか、演出家チガウしな。キムシンが大介くんと同じことをするはずもない。
それでも、乱歩の『黒蜥蜴』をベースにタカラヅカ化する、という期待感が損なわれるモノじゃなかったさ。
あー、わたしはヲタクなので、もちろん江戸川乱歩ファンですわ。
学生時代、周囲のヲタクたちの中で、乱歩を読んでない奴なんか皆無っすよ。乱歩全集(小説のみではなく、評論や書簡まで網羅)を読破する、のが常識だったさ。
そんななかで、小説しか読んでないわたしは「無知」な部類。小説はほぼ全部読んだと思うけどなー。
わたしが相当ぬるいファンだからかはわからないが、「黒蜥蜴」を「少女」とするキムシン版『黒蜥蜴』は、ぜんぜんアリだと思った。
小説をまんまコピーする必要はないと思っている。トップスターのオサが黒蜥蜴を演じられない、「タカラヅカのルール」の上で創作するしかないのなら、黒蜥蜴を妖艶な大人の女とはせず、少女に置き換えるのはいいアイディアだと思う。
「少女」という存在の持つ残酷性や神秘性を『黒蜥蜴』をベースに描くのは、そりゃーたのしいだろう。
子どもが無垢だとか純粋だとか天使だとかゆーのは、大人の都合のいい幻想だ。
子どもほど残酷で正直なものはない。
とくに、「少女」という、「女」の片鱗を持つイキモノならば、どれほどの魔性を描くことができるだろう。
いやあ、わくわくしたねえ。
……はじまる前は。
ははははは。
なーんだ、こう来たか。
わたしが『黒蜥蜴』という原作から勝手に期待していたデコラティヴな耽美さも残酷さも妖美もなく、安い冒険活劇メロドラマが展開されていた。
「安い」というのが、いちばん問題だな。
冒険活劇でもメロドラマでもいいんだけど。
せっかく「いびつな大人の女」として登場した黒蜥蜴@彩音は、そのままではいられず、後半はただの「駄々をこねている子ども」になる。
「いびつさ=少女であるがゆえ」だったのになー。なんで最後までそのままでいてくれなかったんだろう。
前半と後半が別物になっているのが気になる。
舞台構成も演出も、そしてキャラクタも。
でもって。
オリジナル要素をいろいろ含んでいるし、原作から乖離している部分はたしかにある。
でも、コレはコレでアリだと思う。
原作タイトルまんまで上演しているならともかく(『ベルサイユのばら』とかな)、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』という、原作とは別タイトルなんだから、「原作まんまじゃない!」ことは、マイナスに数えない。『鳳凰伝』だって『王家に捧ぐ歌』だってそうさ。
別モノなのは、最初からわかっている。
ふつーに、そこそこよく出来た作品だろーさ。
出来事が展開して話が進み、主役ふたりが恋愛をする。
キムシンらしい人海戦術(笑)で、地味になりがちな画面を盛り上げて、キュートな車だのキッチュなソファだのでスパイスをきかせて。
明智@オサ様はクネクネカッコイイし、雨宮@まとぶはワイルドマゾカッコイイ。公務員(刑事つーより公務員)@壮くんのフツーカッコイイぶりも見所だ。
処女性強調するのは見ていて恥ずかしいからよせ! と心底思うが、テーマが「少女」ぢゃ仕方ないのか。にしても語彙をなんとかしろ、とツッコミつつ。
『黒蜥蜴』という原作に引っかかりさえなけりゃー、ふつーにたのしめるんじゃないのか。
いっそオリジナルっつーことにしちゃえばよかったのに。藤井くんの「黒薔薇」がアリなよーに、どっから見ても元ネタ『黒蜥蜴』じゃん!(笑)で。
むしろ、原作の名前が大きすぎるから、先入観持たれて損している気がするぞ、『明智小五郎の事件簿』。
キムシンにしては、ストーリーがまともに展開しているのになあ。地道というか。や、ツッコミどころの多さはまた別カテゴリとしても。このストーリーラインを、よくこれだけ「タカラヅカ」で引っ張ってきたなと、感心するよ。
そうやって、この作品もキムシンも創作姿勢も、ぜんぜんOKだと言い放ちながらも。
ただたんにコレ、つまんないや。
わたしの好みじゃないのよー。
ちょーっとズレてるのよー。
わたしは、キムシンファンです。
彼の作風は好きだ。
主義主張を叫ぶために、作品を利用するのはぜんぜんアリだと思っている。
座付き作家である前に、「クリエイター」であるべきだと思うので。
もしも「座付き」であることのみを求めるのなら、「演出家」はいらない。データを入力したコンピュータがはじき出した通りの流れで、ジェンヌが歌い踊ればいいだけのことになる。
クリエイターが、自分の「訴えたい」と思うテーマを描くために、1時間半の物語を作る姿勢を、「正しい」と思っている。
で、わたしのスタンスからいけば今回の『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』も、なんの問題もナイ。
テーマを叫びたいがためにいろいろ原作とチガウことをやってるが、それはクリエイターの裁量のうち。クリエイターに任されたフリースペースでしょー。
原作があればなにもかも写し取ったかのよーに原作まんまにしなければならない、というなら、演出家なんかいらないし、そもそもメディアミックスする必要もない。文学が文字情報のみで「読者の想像にゆだねられる」芸術である以上、すべての人間の「想像」を納得させる「三次元化」など不可能。なにしろ人間の数だけ「想像」があるんだから。
コピーなど不可能である、それゆえ文学作品をタカラヅカでミュージカル化する上で、変更があるのは当然のこと。
原作と別物になっていても、まったく無問題。構成だとかの骨組みが壊れてさえいなければ、創作ってのはそれくらい、幅があっていいはずだ。
ぜんぜんOK、クリエイターとしてキムシンは正しい。
ただ。
個人的に、つまんないや、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』。
わたしの好みじゃない。
わたしが観たかったのは、怪盗黒薔薇@『熱帯夜話』なのよっ!!
美を愛し、人間の作った法律だとか倫理だとか無関係に、己れの美学に忠実に生きるアーティスト。
気に入った美女や美青年を剥製にして陳列、自身も女装して優雅に振る舞う。無垢な美少女を誘惑し、純粋な青年をも弄ぶ。性や重力すら超えたよーな、妖美の化身。
「黒薔薇」が、乱歩の『黒蜥蜴』をオマージュした存在であることは、説明するまでもないだろう。実際、んな説明はされてなかったと思う。
男性でありながら、女性としての美しさをも持ち、女性の姿で少女を誘惑し、男性の姿で青年を誘惑する。徹底した倒錯。常識を嘲笑うかのよーな、圧倒的な美の力。
これは、「タカラヅカ」という特殊な世界でなくては描けない作品だと思う。
現実の男性では、「黒薔薇」は演じられない。タカラヅカの男役のみが具象化できる。
……まあコレは、「黒蜥蜴」役がオサではなく彩音ちゃんだった段階で「無理だ」とあきらめたけれど。てゆーか、演出家チガウしな。キムシンが大介くんと同じことをするはずもない。
それでも、乱歩の『黒蜥蜴』をベースにタカラヅカ化する、という期待感が損なわれるモノじゃなかったさ。
あー、わたしはヲタクなので、もちろん江戸川乱歩ファンですわ。
学生時代、周囲のヲタクたちの中で、乱歩を読んでない奴なんか皆無っすよ。乱歩全集(小説のみではなく、評論や書簡まで網羅)を読破する、のが常識だったさ。
そんななかで、小説しか読んでないわたしは「無知」な部類。小説はほぼ全部読んだと思うけどなー。
わたしが相当ぬるいファンだからかはわからないが、「黒蜥蜴」を「少女」とするキムシン版『黒蜥蜴』は、ぜんぜんアリだと思った。
小説をまんまコピーする必要はないと思っている。トップスターのオサが黒蜥蜴を演じられない、「タカラヅカのルール」の上で創作するしかないのなら、黒蜥蜴を妖艶な大人の女とはせず、少女に置き換えるのはいいアイディアだと思う。
「少女」という存在の持つ残酷性や神秘性を『黒蜥蜴』をベースに描くのは、そりゃーたのしいだろう。
子どもが無垢だとか純粋だとか天使だとかゆーのは、大人の都合のいい幻想だ。
子どもほど残酷で正直なものはない。
とくに、「少女」という、「女」の片鱗を持つイキモノならば、どれほどの魔性を描くことができるだろう。
いやあ、わくわくしたねえ。
……はじまる前は。
ははははは。
なーんだ、こう来たか。
わたしが『黒蜥蜴』という原作から勝手に期待していたデコラティヴな耽美さも残酷さも妖美もなく、安い冒険活劇メロドラマが展開されていた。
「安い」というのが、いちばん問題だな。
冒険活劇でもメロドラマでもいいんだけど。
せっかく「いびつな大人の女」として登場した黒蜥蜴@彩音は、そのままではいられず、後半はただの「駄々をこねている子ども」になる。
「いびつさ=少女であるがゆえ」だったのになー。なんで最後までそのままでいてくれなかったんだろう。
前半と後半が別物になっているのが気になる。
舞台構成も演出も、そしてキャラクタも。
でもって。
オリジナル要素をいろいろ含んでいるし、原作から乖離している部分はたしかにある。
でも、コレはコレでアリだと思う。
原作タイトルまんまで上演しているならともかく(『ベルサイユのばら』とかな)、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』という、原作とは別タイトルなんだから、「原作まんまじゃない!」ことは、マイナスに数えない。『鳳凰伝』だって『王家に捧ぐ歌』だってそうさ。
別モノなのは、最初からわかっている。
ふつーに、そこそこよく出来た作品だろーさ。
出来事が展開して話が進み、主役ふたりが恋愛をする。
キムシンらしい人海戦術(笑)で、地味になりがちな画面を盛り上げて、キュートな車だのキッチュなソファだのでスパイスをきかせて。
明智@オサ様はクネクネカッコイイし、雨宮@まとぶはワイルドマゾカッコイイ。公務員(刑事つーより公務員)@壮くんのフツーカッコイイぶりも見所だ。
処女性強調するのは見ていて恥ずかしいからよせ! と心底思うが、テーマが「少女」ぢゃ仕方ないのか。にしても語彙をなんとかしろ、とツッコミつつ。
『黒蜥蜴』という原作に引っかかりさえなけりゃー、ふつーにたのしめるんじゃないのか。
いっそオリジナルっつーことにしちゃえばよかったのに。藤井くんの「黒薔薇」がアリなよーに、どっから見ても元ネタ『黒蜥蜴』じゃん!(笑)で。
むしろ、原作の名前が大きすぎるから、先入観持たれて損している気がするぞ、『明智小五郎の事件簿』。
キムシンにしては、ストーリーがまともに展開しているのになあ。地道というか。や、ツッコミどころの多さはまた別カテゴリとしても。このストーリーラインを、よくこれだけ「タカラヅカ」で引っ張ってきたなと、感心するよ。
そうやって、この作品もキムシンも創作姿勢も、ぜんぜんOKだと言い放ちながらも。
ただたんにコレ、つまんないや。
わたしの好みじゃないのよー。
ちょーっとズレてるのよー。
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