もうひとつの人生。@TUXEDO JAZZ
2007年2月22日 タカラヅカ オギー新作ショー『TUXEDO JAZZ』はダイスキだ。
『タランテラ!』の毒に酔っていた者なので、毒々しさが少ないことに物足りなさを感じる反面、ほっとしていたりもする。毎回『タランテラ!』をやられたら、こっちの身が持たない(笑)。
これくらい、なにも考えずに観るオギーショーがあってもいいだろう。……や、繰り返し観ていると思いもかけないところで楔を打ち込まれる感覚があるんだけど。まあその話はいずれするとして。
初日を見終わったあと、チェリさんと「よいショーだったけど、今の花組に、オギーのミューズはいないんだね」と話した。
たとえば、『パッサージュ』のコム、『バビロン』のかよこだとか。『ドルチェ・ヴィータ!』の檀ちゃんだとか、トウコだとか。『タランテラ!』のコムだとかまーちゃんだとか。
オギー作品の行き先を決める「女神」。
性別は関係なく、「ミューズ」。
オサ様のことは嫌いではないだろうし、その個性を愛して作品を作ってくれているのがわかるけど、「ミューズ」としては愛してないよな?
いちかやとしこさんも気に入っているけれど、彼女たちに作品の行方を決めさせるほどの力配分はナイよな?
壮くんのことは愛でている感じがするけれど、そもそも彼はオギー世界と相反するキャラクタだし(笑)。
いちばんキャラクタを認められているのはみわっちだと思うけれど、彼もまたミューズと呼ぶには足りない。
まっつはオギー役者ではないっす。だからどんな扱いをされるか不安だった(笑)。
オギーの嫌いなタイプでないことはわかるので、まっつの組内立ち位置から考えてそこそこの扱いはしてもらえるだろーとは、思っていた。で、実際思っていた以上の扱いをしてもらっているので、感謝感謝だ。
『TUXEDO JAZZ』がオギーにしては平凡な、汎用性のある作品になっているのは「ミューズ」不在のためかなと。
オサ様がミューズだとよかったんだけど。オサ様もトシと共にどんどん丸くなってるしなー。
ミューズもいないことだし、やりすぎだった『タランテラ!』のあとだし、演目発表されたときから(オギーにしては)オーソドックスなものになることはわかっていたし、軽く明るいエンタメに徹することで新しい試みをするのも、流れ的にアリだろう。
オギーショーのおもしろさは、作品が多面的で多重構造であることなので、繰り返し観ることによって観客個人個人に好きなたのしみ方ができるということ。
自分のご贔屓を追いかけて「アレはどの場面も全部同じ人物。じゃあソコにどんな物語が?」とやるのもたのしい。
贔屓じゃなくても、「通しキャラクタ」「ひとつの物語」としてたのしむ気で観れば、誰を主役にしても考えられちゃうぞっと。「あるときは酔っぱらい、あるときは渋い男である、まりんの物語」「警官大伴氏の人生」とか、「シティガールちあきの毎日」とかでもOK。ひとりずつたのしめるのがすごい。
いっそここに、贔屓がいない方が良かったよ。オギーファンとしては。
まっつばかり見てしまって、他をたのしめないのが残念でならない。全体を見たいのにー。なにやってんだわたしー。うおー。
『タランテラ!』がよかったのは、本当の意味での贔屓が出ていなかったことにあるんだろうなぁ。
おかげであんときゃ、水くんをぜんぜん見なかった。わたしはとりあえず水ファンなんだけど、オギー世界では水くん、いてもいなくてもいい扱いだったんで、見ることが出来なかった……「世界」を堪能することに集中しちゃったから。
あそこにまっつがいたら、それでもわたしはまっつを見てしまっていたんだろーか……あああ、それじゃ作品がもったいない……。
そーして、思うわけだ。
オギー役者というのは、ほんとのトコわたしの好みど真ん中の人ではないんだなー、と。
もちろん、オギー役者は好きだ。
オギー世界の本質を表現する力を持った、神から授けられた宿命と才能を持つアーティストたち。
コム姫もトウコも檀ちゃんもかよちゃんもダイスキだ。
彼らが創り出す世界を、心から愛している。
それでも。
わたしが本気で好きだった人は彼らではなかった。
ミューズでも天才でもない。
オギー作品を彩るその他のひとりでしかない。
ミューズにも主役にもなれないけれど、世界と調和し、存在することのできる人。
ケロ。そして、まっつ。
オギー役者ではまったくないけれど、オギーに好意的に扱われ、役割を得ている舞台人。
ケロとまっつはチガウけどね。まっつはケロにはぜんぜん届いてないけど。個々の持ち味や実力ではなく、オギー世界における、結果的な色というか。
よーするにわたし、その距離感が好きなんだと思う。
本物の毒や絶望、耽美や退廃よりも、そのそばにある健康だけど適度に影も傷もある人が好き。
コム姫が好きで、あれほど『タランテラ!』が好きで、『アルバトロス、南へ』を観たときは貧血起こすほど入り込んでいたのに、それでもわたしは真の意味でのコム姫ファンではなかった。
むしろ、コム姫ファンでないことを感謝した。
もしもわたしがコムファンだったら、死んでるよ。わたしは生きていたいから、ファンでなくて良かった。
『アルバトロス、南へ』を観て、反射的にリストカットするよーな、そーゆータイプでなくて良かった。『パッサージュ』を観たときに「コレ観て自殺する人がいたらどうするんだろう」と震撼したのと同じように。
コム姫の創り出す「オギー作品」を、外側から愛していられる、畏れていられる人間で、よかった。
だからわたしは、ケロファンで、まっつファンなんだと思う。
ケロやまっつを主役にしたら、「見終わった途端リストカット必至」な作品にはならないと思うから。
健康で平凡で、だけど影や傷もありなにもかも順風満帆ではなく、それでもそれら全部ひっくるめて、決してネガティヴではない。
わたしの人生観まんまな人。
生きることがかなしみだらけであることは知っている。つらいことだらけなのはわかっている。自分を含めたすべての人間が、醜いことも弱いことも知っている。
それでも、人間と人生を愛している。
自分を含めたすべてのひとに、美しいもの、すばらしいものがあることを、知っている。
特別じゃない。
平凡で地味で、特別でない、普遍的な痛みと悲しみと喜びと愛しさを抱きしめて生きる。
そーゆー意識が「心地よい」と選び出す人。
ソレは、「痛み」や「絶望」を強く打ち出すオギー役者ではないんだよな。
オギー役者に、ただならぬ憧憬と愛情は抱くのだけど。
真のご贔屓には、きっとならない。
……そんなことをつらつら考えながら、「ミューズ」不在の『TUXEDO JAZZ』をたのしむのさ。
「特別な」絶望のない、もうひとつの人生のような仮想世界を。
『タランテラ!』の毒に酔っていた者なので、毒々しさが少ないことに物足りなさを感じる反面、ほっとしていたりもする。毎回『タランテラ!』をやられたら、こっちの身が持たない(笑)。
これくらい、なにも考えずに観るオギーショーがあってもいいだろう。……や、繰り返し観ていると思いもかけないところで楔を打ち込まれる感覚があるんだけど。まあその話はいずれするとして。
初日を見終わったあと、チェリさんと「よいショーだったけど、今の花組に、オギーのミューズはいないんだね」と話した。
たとえば、『パッサージュ』のコム、『バビロン』のかよこだとか。『ドルチェ・ヴィータ!』の檀ちゃんだとか、トウコだとか。『タランテラ!』のコムだとかまーちゃんだとか。
オギー作品の行き先を決める「女神」。
性別は関係なく、「ミューズ」。
オサ様のことは嫌いではないだろうし、その個性を愛して作品を作ってくれているのがわかるけど、「ミューズ」としては愛してないよな?
いちかやとしこさんも気に入っているけれど、彼女たちに作品の行方を決めさせるほどの力配分はナイよな?
壮くんのことは愛でている感じがするけれど、そもそも彼はオギー世界と相反するキャラクタだし(笑)。
いちばんキャラクタを認められているのはみわっちだと思うけれど、彼もまたミューズと呼ぶには足りない。
まっつはオギー役者ではないっす。だからどんな扱いをされるか不安だった(笑)。
オギーの嫌いなタイプでないことはわかるので、まっつの組内立ち位置から考えてそこそこの扱いはしてもらえるだろーとは、思っていた。で、実際思っていた以上の扱いをしてもらっているので、感謝感謝だ。
『TUXEDO JAZZ』がオギーにしては平凡な、汎用性のある作品になっているのは「ミューズ」不在のためかなと。
オサ様がミューズだとよかったんだけど。オサ様もトシと共にどんどん丸くなってるしなー。
ミューズもいないことだし、やりすぎだった『タランテラ!』のあとだし、演目発表されたときから(オギーにしては)オーソドックスなものになることはわかっていたし、軽く明るいエンタメに徹することで新しい試みをするのも、流れ的にアリだろう。
オギーショーのおもしろさは、作品が多面的で多重構造であることなので、繰り返し観ることによって観客個人個人に好きなたのしみ方ができるということ。
自分のご贔屓を追いかけて「アレはどの場面も全部同じ人物。じゃあソコにどんな物語が?」とやるのもたのしい。
贔屓じゃなくても、「通しキャラクタ」「ひとつの物語」としてたのしむ気で観れば、誰を主役にしても考えられちゃうぞっと。「あるときは酔っぱらい、あるときは渋い男である、まりんの物語」「警官大伴氏の人生」とか、「シティガールちあきの毎日」とかでもOK。ひとりずつたのしめるのがすごい。
いっそここに、贔屓がいない方が良かったよ。オギーファンとしては。
まっつばかり見てしまって、他をたのしめないのが残念でならない。全体を見たいのにー。なにやってんだわたしー。うおー。
『タランテラ!』がよかったのは、本当の意味での贔屓が出ていなかったことにあるんだろうなぁ。
おかげであんときゃ、水くんをぜんぜん見なかった。わたしはとりあえず水ファンなんだけど、オギー世界では水くん、いてもいなくてもいい扱いだったんで、見ることが出来なかった……「世界」を堪能することに集中しちゃったから。
あそこにまっつがいたら、それでもわたしはまっつを見てしまっていたんだろーか……あああ、それじゃ作品がもったいない……。
そーして、思うわけだ。
オギー役者というのは、ほんとのトコわたしの好みど真ん中の人ではないんだなー、と。
もちろん、オギー役者は好きだ。
オギー世界の本質を表現する力を持った、神から授けられた宿命と才能を持つアーティストたち。
コム姫もトウコも檀ちゃんもかよちゃんもダイスキだ。
彼らが創り出す世界を、心から愛している。
それでも。
わたしが本気で好きだった人は彼らではなかった。
ミューズでも天才でもない。
オギー作品を彩るその他のひとりでしかない。
ミューズにも主役にもなれないけれど、世界と調和し、存在することのできる人。
ケロ。そして、まっつ。
オギー役者ではまったくないけれど、オギーに好意的に扱われ、役割を得ている舞台人。
ケロとまっつはチガウけどね。まっつはケロにはぜんぜん届いてないけど。個々の持ち味や実力ではなく、オギー世界における、結果的な色というか。
よーするにわたし、その距離感が好きなんだと思う。
本物の毒や絶望、耽美や退廃よりも、そのそばにある健康だけど適度に影も傷もある人が好き。
コム姫が好きで、あれほど『タランテラ!』が好きで、『アルバトロス、南へ』を観たときは貧血起こすほど入り込んでいたのに、それでもわたしは真の意味でのコム姫ファンではなかった。
むしろ、コム姫ファンでないことを感謝した。
もしもわたしがコムファンだったら、死んでるよ。わたしは生きていたいから、ファンでなくて良かった。
『アルバトロス、南へ』を観て、反射的にリストカットするよーな、そーゆータイプでなくて良かった。『パッサージュ』を観たときに「コレ観て自殺する人がいたらどうするんだろう」と震撼したのと同じように。
コム姫の創り出す「オギー作品」を、外側から愛していられる、畏れていられる人間で、よかった。
だからわたしは、ケロファンで、まっつファンなんだと思う。
ケロやまっつを主役にしたら、「見終わった途端リストカット必至」な作品にはならないと思うから。
健康で平凡で、だけど影や傷もありなにもかも順風満帆ではなく、それでもそれら全部ひっくるめて、決してネガティヴではない。
わたしの人生観まんまな人。
生きることがかなしみだらけであることは知っている。つらいことだらけなのはわかっている。自分を含めたすべての人間が、醜いことも弱いことも知っている。
それでも、人間と人生を愛している。
自分を含めたすべてのひとに、美しいもの、すばらしいものがあることを、知っている。
特別じゃない。
平凡で地味で、特別でない、普遍的な痛みと悲しみと喜びと愛しさを抱きしめて生きる。
そーゆー意識が「心地よい」と選び出す人。
ソレは、「痛み」や「絶望」を強く打ち出すオギー役者ではないんだよな。
オギー役者に、ただならぬ憧憬と愛情は抱くのだけど。
真のご贔屓には、きっとならない。
……そんなことをつらつら考えながら、「ミューズ」不在の『TUXEDO JAZZ』をたのしむのさ。
「特別な」絶望のない、もうひとつの人生のような仮想世界を。
コメント