『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』が、わたし的に響いてこない理由を考える。

 それは、「テーマのブレ」のせいではないだろうか。

 キムシン作品はいつも、一貫したテーマがあった。
 彼は「叫ぶ」作家であり、題材を変えても同じテーマを問いかけ続けていた。

“ 人々の醜さ、無責任利己心浅慮偽善、そーゆーものをこれでもかと描きながらも、その奥にある美しさを求める。
 過ちや悪意といったマイナス部分が世界に満ちていることを肯定しながらも、それと同時に、愛や善意も存在するのだということを否定しない。
 容赦のない「人の醜さ」に対する描写、「卑怯さ」に対する描写、そしてあまりに無力で無意味な「愛」や「善意」。それでも、物語と主人公は「愛」や「善意」といった人の持つ美しいモノを肯定して終わるんだ。”
 ……と、2006/05/14(日)に『暁のローマ』感想
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-160.html)で書いているように。

 作劇的に失敗している場合もあるけれど、テーマはいつも一貫し、またテーマ的にはカタルシスを構築している。

 ソレが今回、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』ではブレている。つか、テーマ展開に、失敗している。

 ストーリー展開で失敗していよーと、テーマ展開ではまちがいのない人だったのに。何故。

 『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』はバランスの悪い作品で、前半と後半が別物になっている。
 前半は原作のイメージもあるし、また、いつものキムシン的ドラマティックな群衆芝居でもある。
 それが後半は「スター数人が立ち話をする」だけで話が進むふつーの演劇みたいになっている。

 主要人物以外が全部「歌う背景」状態、というのは、キムシンの短所として上げられがちだけれど、少なくとも「出番がある」ことの重要性をわたしは評価している。背景でもなんでも、ずーっと「舞台」にいる、これは大きいだろう。
 同じように下級生に役がないとしても、「そもそも舞台に出てこない」植爺作品より、ずーーっといい。

 なのに、どーしたこったい。
 今回は「スター数人が立ち話をする」ばかりで、歌う背景がいないじゃないの!
 つまんない。そんなの、つまんないよー。

 そしてキムシンお決まりの「大衆という名もなきモノたちの罪」をあげつらうには、歌う背景たちが必須なの。
 主人公たちの物語とは別に、「歌う背景=大衆たちの罪」を同時展開させられるのに。
 今回のホテル従業員たちがそう。彼らはただにぎやかしに登場しているわけじゃない。ストーリー展開とは別のところでテーマを演じているのよ。
 明智が黒蜥蜴との賭に負け、「探偵を辞める?」とゆー展開になる、前半部分。
 ホテルの従業員たちは無責任に歌う。「名探偵がしくじった 有名人はただのひとに/我々と同じ 我々に劣る なんのとりえもない ただのひとに!」……それまで「退屈だ」と言っていた人々が、ここぞとばかりに「他人の不幸」に食いつく。
 これこそキムシン芝居!!

 なのに、前半だけで終了。
 あとは主役たちの台詞で言及されるのみ。

 「大衆」がいないため、本来「大衆」が歌うはずの「ゆがみ」や「罪」をヒロインの黒蜥蜴がひとりで担うことになる。

 「歌う背景」にストーリーとは別部分で歌わせるのとちがい、ヒロインはストーリーの中でいちいちテーマを台詞にして言わざるを得なくなり、結果テーマとストーリーが直結され、広がりがなくなる。
 ……と、まあ、それは置くとして。
 すべてを託されたヒロイン黒蜥蜴を見てみる。

「いけないのは、みんな戦争よ」
 哀れな黒蜥蜴はそう繰り返す。彼女ひとりなんだ、いつまでもなにもかも戦争のせいにしているのは。

 それに対し、明智は言う。
「いけねぇのは、ひとでしょうねえ」

 悪いのは戦争ではなく、人間ひとりひとりだ。戦争を起こしたのも人間だし、起こってしまったことにいつまでも恨み辛みを繰り返して前へ進もうとしないのもまた、人間自身だ。

「謝れ! 誤り続けろ!」……そう言って未来を見ようとしなかったアオセトナ@『スサノオ』のように。

 アオセトナは極端な描かれ方をした、「偏狭な人間」だ。自分の不幸はすべて他人のせい、他人を恨む自分は正義、そう信じて、自身が行う悪のすべてを正当化。
 ただ彼は「大衆」という「安全地帯」にいる者ではなく、ひとりで戦うだけの強さを持つ。……方向性が間違っているけれど、「強さ」はあるのね。
 だから黒蜥蜴と近い。彼女もまた、ものごっつまちがった人間だけど、「強さ」はあるから。名もなき大衆として「退屈だ」「たった一度の失敗で すべてが台無しになる」と歌ったりしない。

 同じ「悪役」でも、暗殺者たち@『暁のローマ』とのちがいはソコ。
 暗殺者たちは結局「名もなき大衆」なのね。ピンで立ち、名声も誹謗も受けることはなく、「みんながやっているから」と責任の所在をあやふやにすることができる。
 彼らは、ホテル従業員たちと同じ立ち位置。

 大衆を嘲笑いながら、その上に君臨する強さを持つ、悪役。それがアオセトナであり、カシウス@『暁のローマ』であり、黒蜥蜴であるのよ。

 と、ここまではいい。役の立て方にブレはない。
 しかし。

 アオセトナも黒蜥蜴も同じように滅びるのだけど、意味がチガウ。

 アオセトナは「過去の妄執」に取り憑かれ、そこから踏み出せなかったために滅びたことがわかるけれど、黒蜥蜴はチガウんだ。
 彼女は結局「戦争なんかなかったらよかったのに」と言って死ぬ。

 ヲイヲイヲイ、ちょっと待て。

 『明智小五郎の事件簿』では、結局物語が進んでいないんだ。

 「みんな戦争が悪い」……自分ではなく、他人が悪い、そう責任転嫁することで生きてきた者が、結局なんの進歩もないまま死んで終わる。

 アオセトナも「責任転嫁してきた自分」に納得したわけではないが、彼は主人公であるスサノオに殺される。
 卑怯な思いこみを斬り捨てる強さを、主人公が得ることで、物語は大きく動く。

 しかし『明智小五郎の事件簿』はどうだ。
 黒蜥蜴は「戦争が悪い」と責任転嫁したまま、悲劇のヒロインとして自殺。
 悪いのは戦争じゃなくて、戦争を理由に他人を傷つけていた自分だろー!! 同じようにみんな戦争で傷を負っているのに、それでもなんとか生きているのに、自分ひとり特別に傷ついた顔して「やられたからやり返す、とーぜん」とやりたい放題やって美談ぽく死ぬのかよ?!

 おかみさん黒蜥蜴とおじさん明智の銀橋の会話でわかるように、明智は「不幸な生い立ちを理由に、他人を傷つけていいはずがない。そんなことは許せない」と言い、なのに黒蜥蜴は聞く耳を持たず「悪いのは戦争。だから、戦争で不幸になった人間はどんな悪いことをしてもいい」と言う。このふたりの会話の噛み合わなさが、光と影、正義と悪の対比になっている。

 ここではちゃんと、黒蜥蜴の「ゆがみ」が描かれているのに。
 被害者ぶって、自分の罪を正当化する卑怯さが、ちゃんと描かれているのに。

 何故、最後の最後、彼女を正当化して終わるんだ?

 元来のキムシン作品ならば、とことんまで彼女の醜さと卑劣さ愚かさを描くだろうに。
 そーして、その悲惨さにこそ、哀れさやはかなさ、美しさを見せてくれただろうに。

 アオセトナが改心しないまま死んでいったように、黒蜥蜴も改心しなくていい。
 バカなまま「わたしは悪くない。みんな戦争が悪い」と卑劣なままうっとり死んでくれてもかまわない。

 だがその場合、明智が黒蜥蜴を否定しなければならない。

 黒蜥蜴を殺したのは、戦争でも愛でもない。
 彼女が、卑劣で浅慮だったためだ。
 自業自得だ。

 明智は、自身の嘆き悲しみとは別に、そのことにも言及しなければならなかった。

「悪いのは戦争……そう信じて死んでいけたのは、ある意味幸福だったのかもしれない」

 そーゆーことを、言い表してくれなければ。
 「悪いのはわたし以外のなにか」だと信じて、罪を償うこともせず死に逃げたのだから、幸福だろう。罪を悔いて自殺したわけじゃないんだから。最期まで、責任転嫁したままだったのだから。

 最後の最後で、テーマがブレるの。
 いつもなら「歌う背景」が表現していたことまで全部黒蜥蜴ひとりが担い、そして黒蜥蜴がまちがった死に方をするの。
 だから作品全部がまちがうの。

 黒蜥蜴のゆがみを丁寧に描いてきておきながら、最後の最後で彼女を否定せずに終わるの。否定するために積み重ねてきたものが、全部無駄になる。
 彼女を徹底的に否定し、それでもなお、哀れさや愛しさを出してこそでしょうに。

 ストーリーがどんなにまちがっていても、「叫び」の本質であるテーマだけはブレない人だったのに、キムシン。
 どーしちゃったの?

 「タカラヅカ」だから、メロドラマにしなきゃ、とか思ったの?
 「悪」を全部ヒロインに押しつけるからだよ。ほんとーの意味でヒロインを悪の権化にすると、ソレ、「タカラヅカ」では描けないから。
 最後でお茶を濁すくらいなら、はじめからやめておけばよかったのに。


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