「節句人形」の話だけで終わってしまった、『さくら』感想の続き。

 なにしろプログラムを前もってチェックしないから、次にナニが起こるかわからない。

 次の「竹灯籠」は、はじまり方があまりに幻想的で美しいので期待したが、あっちゅー間に終わった。
 いやその、他の場面はそれなりにあったのかもしれないけど、場面の主役であるはずのトウコの出ている時間が印象として、すっげー短くて。
 大仰にセリ上がってきたなー、と思ったら、ちょろっと歌っただけでそのままセリ下がっていったり。
 『星影の人』の土方@ゆみこぢゃあるまいし……(笑)。

 主役=出演時間だとはまったく思っていないが、あのタッチ・アンド・ゴーみたいなセリ上がりとセリ下がりはおもしろかった。(いろんなことがツボに入るらしいよ)

 松本悠里大先生は、あいかわらずの妖精ぶりで、年齢不詳の美女。
 だけどわたし、あまり目に入らなかったよーな……。
 やりすぎる星組の気合いの入った「ストーリーを表現するぜ!!」魂の間にいるせいか、ただひたすらきれいな大先生の舞は、薄く感じてしまう。
 たぶんとてもうまいのだろうけれど、わたしみたいな見る目のない者には猫に小判、その舞の素晴らしさはわからない。
 それより、脇の娘役さんたちの方が目に付いてしまう。
 大先生がどんな舞を舞われていたのか、どんな役だったのか、記憶にない……。

 ん? やたら短く感じたのは、松本大先生効果?
 トウコがあまり出ていない印象なのは、松本大先生が相手役だったから? それでわたし、なにもおぼえてないのかしら……。
 ほんとうは、長い場面だったとか?
 

 「花折」は、すずみん主役、相手役しいちゃんの愉快な小品。
 原作は知らない。

 わたしはふたりを眺めていられてとてもたのしかったのだけど、作品全体の構成としてはまちがってるなあ。
 カーテン前で他愛なく繰り広げる程度の内容なのに、すげー長い。
 この長さでやるならば、カーテン前ではなくちゃんとした舞台を使ってセットや効果なども考えて上演するべきだし、カーテン前限定なら、もっと短くまとめるべきだ。

 でも、すずみんがかわいい……。つまずいていたのも、かわいい……。
 
 下手側に坐っていたわたしは、しいちゃんやすずみんがわたしに向かって走ってくるので、すげーたのしかった。ときめいたわ〜(笑)。

 あ、ここってしい×すずだよね?(誰も聞いてない)

 
 そして、クライマックスでありフィナーレである、「さくら」。
 作品タイトルともなっている、まさにいちばん肝な部分。

人目にふれることもなく咲いては散る運命の深山の桜が、風に運ばれてきて鬱金色の桜とともに旅し、大勢の仲間たちがいることを知り、短くも美しく生き抜こうと歌い舞う。

 と、チラシに書いてあるんだが。

 まずわたし、この日本語よくわかんない……。

 「風に運ばれてきて鬱金色の桜とともに旅し」って、どういうことだろう。

 「風に運ばれてき“た”鬱金色の桜とともに旅し」ならまだわかるんだけど。

 深山桜くんが、やってきた鬱金桜ちゃんと出会って、それから一緒に旅をして……って意味よね。

 「深山の桜が、風に運ばれ“、”鬱金色の桜とともに旅し」ならまだわかるんだけど。

 深山桜くんが風に運ばれ、そのことで鬱金桜ちゃんと出会い、それから一緒に旅をして……って意味よね。

 でも、「風に運ばれてきて鬱金色の桜とともに旅し」だと、意味わかんない……。

 「風に運ばれて“きて”」で、視点が混乱しているの。
 深山桜くん視点で書きはじめたのに、「運ばれて“きて”」で、鬱金桜ちゃん視点になっている。
 深山桜くんは「行った」のであって、彼が「来た」と思えるのは鬱金桜ちゃん視点よ。

 あ、そうか。
 もともと鬱金桜ちゃん視点なのか?

 主人公は鬱金桜ちゃんで、彼女の元に深山桜くんがやって来ることで、物語がはじまる?

 でもそれなら、句読点の位置がおかしい。

 「人目にふれることもなく咲いては散る運命の深山の桜が風に運ばれてきて“、”鬱金色の桜とともに」でないと。
 
 それに、鬱金桜ちゃん視点で文章を統一すると、深山桜くんの修飾が重すぎるんだよなー。
 
 それともまったく別の意味の文章なのかなあ。
 公式の文章って、よくわかんないんだよなあ、いつも。

 文章はわからないけれど、コンセプトはなんとなく理解できた。
 そして、おどろいた。

 そんな話だとは、まったく思わなかったから(笑)。

 ひとりぼっちで寂しい桜が、「仲間がいる! ボクは独りぢゃないんだ! 長く生きられないことは知ってるけど、強く生きるよ!!」と握り拳で瞳をきらきらさせるよーな物語だとは、夢にも思わなかった。

 てゆーかソレは、すてに「桜」というモノのイメージとかけはなれているのでは?

 「桜」ってのはもっと、ストイックなものだと思っていた。

 それこそ、深山にて人目にふれることもなく咲いては散ることを、黙して受け止めているよーな。

 深山桜が鬱金桜に恋をして、結ばれるはずもなく散っていき、魂だけが睦み合い、壮大な見渡す限りの桜のボレロになる……的な物語かと勝手に思っていた。
 や、深山だ鬱金だのはわかってなかったけど。

 あとからチラシの解説見てびっくりしたくらい、舞台は別にそんな前向きな中学生日記@闘病生活みたいな話には見えなかったので、自分が観た神秘的な美しさを信じておくことにする(笑)。

 手のひらからはらはらと桜の花びらがこぼれる演出は、とてもファンタスティックで美しいです。
 トウコちゃんがまた、きれいなんだ。

 静かにはじまった物語が、最後の総踊りになるころには、ぞくぞくするよーな「日本の美」を、「タカラヅカの美」を味わえるよ。

 鳴り物入りの一竹辻が花のお衣装はそりゃ美しいのですが、じつはタカラヅカの舞台の上では、けっこー地味。
 よく見れば幻想的でその場面の世界観にあってはいるんだけど、タカラヅカ的ではないのよね。

 タカラヅカは「ガラス玉」を「ダイアモンド」に変える、また、そう「見せる」ことを信条とする舞台なんだなあ、と思った。

 本物のダイアモンドでなければキラキラしない、美しくない、なんてことはヅカの舞台ではナンセンス。

 おもしろいねえ。


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