ウィーン版『エリザベート』観てきました。
 本日マチネの方っす。キャストは確認し忘れたんで、わかりません。
 ヅカファンやってるとキャスト固定の概念があって、ひとつの役にキャストが複数いるっつーのに慣れなくて。
 主役のエリザベートはファーストキャストのマヤ・ハクフォート氏で合ってる?
 1階席の隅っこで観劇。わたしたちの後ろも横も無人だったので、のびのび観られました。
 

 隣の席でnanaタンは「フランツ主役!」とわめていたけれど、それはいつものnanaタンクオリティ(笑)、主役はちゃんとエリザベートでした。
 
 わたしがウィーン版を観たかったのは、ひとえに宝塚歌劇の『エリザベート』という「作品」が好きだから。
 たとえば、好きなマンガがアニメ化されたら、とりあえず1話は見てみる。続けて見ることはあまりないけど、1回自分で見て、納得する。
 そんな感じで、東宝『エリザベート』も初演と再演を1回ずつ別キャストで観て、納得、以来まったく観ていない。
 原作マンガのファンだからって、そのアニメ化作品を「原作とチガウ!」とどうこう言う気はない。原作とメディアミックス作品はまったくの別物で当然。同じタイトルだとしても、別作品カウント。
 別物であるという前提の上、そこに個々の好みがあるだけのこと。
 どちらが優れているのどうのと言う気はない。

 てゆーか大抵の場合、「先に出会ったモノ」が素晴らしく、あとから出会ったモノはソレに劣るのだ。
 わたしがどうこうというより、人間の習性として。だからみんな言うんだ、「昔の方が良かった」「昔は良かった」。事実とちがっていても、関係ない。その人個人の記憶では、そーゆーことになっているんだ。

 タカラヅカで再演を繰り返し続けている『エリザベート』にしても、個々が最初に観た『エリザベート』、もしくは贔屓が主要キャラを演じている・贔屓組上演の『エリザベート』が最良のものと感じられるだろうさ。

 ウィーン版『エリザベート』が本家本元、いわゆる「原作」なのはわかっている。
 素晴らしいことも、わかっている。
 でも、わたしはタカラヅカ版に最初に出会ってしまっているので、そしてそっちにハマり過ぎてしまっているので、結局のところどーやっても覆されることはないのだ。
 寿美礼サマがこんなに好きで、寿美礼サマのトートを心から愛しているけれど、わたしのベスト『エリザベート』は初演の雪組だ。あの感動が心に刻みつけられてしまって、あとからなにを観たって「感動の記憶」は揺るがないんだ。
 作品のクオリティとかキャストの技術とかハマリ具合とか、そーゆーモノとは別次元なんだよなあ。
 「最初に出会ったモノ」っていうのは。

 だから、ドラマにハマったから原作マンガを読んでみる、そーゆーノリでウィーン版を観劇した。

 や、ほんと、素晴らしかった。
 金さえあれば、何度でも観たい(笑)。
 S席16000円、B席でも7000円もしやがるので、わたしの経済状況では無理ですが。……てゆーか、3階席でも半分A席11000円なの?! あの超観にくい天井桟敷が?!

 オープニングからスイッチ入っちゃって、だーだー泣けたんですが。

 『エリザベート』ってやっぱ、すごいなあ。
 作品の持つ力に圧倒される。

 あと、字幕が新鮮でねー。
 原作の歌詞を日本語歌詞に凝縮すると、まったく別の単語になっていたり、大意だけ酌んだ別の文章だったりするじゃん?
 それが、メロディの制約を受けず、映画の字幕程度の情報量のある翻訳文章になっていると、印象がかなりチガウ。
 文字でダイレクトに飛び込んでくるので、歌詞を聴き取ることに気を取られない。歌声を「音楽」として、より本能的に体感する。……字幕に気を取られると演技が観られなくなっちゃうけど(笑)。

 『エリザベート』は、どれもチガウ。
 タカラヅカ版も東宝版も、ウィーン版も。
 カンパニーがチガウ、技術がチガウ、とゆーよーな意味ではなくて。

 まるで、古典文学をいろんな作家が自分の解釈で現代語訳して、オリジナリティのある潤色をして「作品」として発表しているように。

 おもしろいなー。

 ウィーン版では、トートが主役ではない。それはわかっていたけれど、東宝版ほどの重みもないのは意外。
 主役はエリザベート、そして準主役というか彼女の相手役は、「彼女の生きる世界」だと思った。そして「世界」は、ナビゲータでもあるルキーニに近い。
 エリザベート、ルキーニ、トートの順なんだ、役の重み。

 なんか、シシィとルキーニだけでみんな持って行かれたよーな気がする……。
 トート閣下はとても甘い声(これも意外)の方で、気持ちよく大暴れしていたけど、それよりルキーニの自由自在ぶりがこわかった。

 ルキーニの軽やかさと毒、台詞のあちこちにある「人間」への辛辣さ……舞台全体の厭世観と退廃感が、じりじりと心を浸食していく感じ。
 わずかな流れだからと他のことに気を取られていたら、ふと気づいたときには胸まで浸かっていた、空気残ってるのあと少し、このままじゃ溺死?! みたいな。

 シシィと、「世界」。
 「世界」の中の、シシィ。

 檻の中と外。

 ものすげー好みの世界が展開されていた。
 だから好きなんだ、『エリザベート』。
 絶望がちりちりと髪の先を灼きはじめている。身体は無事だよ、でも。……でも。

 不吉なナイフが舞台を切り裂く。

 ルキーニ、そしてトートが行き来する、巨大な装置がある。舞台を斜めに分断するスロープ。
 ナイフのようだ。

 「世界」は何度も切り裂かれる。
 巨大なナイフに。

 ナイフの上で笑うルキーニ。あるいはトート。

 あがきつづけるエリザベート。
 彼女に届かないフランツ・ヨーゼフ。

 圧倒的な音楽と歌声、禍々しい美しさに満ちた舞台。
 や、絶対おもしろいって! すごいって!

 
 ……しかしコレを、よりによって宝塚歌劇で上演しようなんて、よく思ったな。

 ウィーン版を観ながら、心から感心した。
 そして。

 小池修一郎を、改めて尊敬した。

 この救いのない、ついでに愛も大してない(それよか絶望の方が大きい・笑)物語を、トートとシシィのラヴストーリーとして、ロマンティックによくぞ脚色したもんだ。
 原作をふくらませたのであって、壊していないんだもの。

 在りモノの設備と限られた予算で、ヅカ版『エリザベート』をあそこまで創りあげたイケコは、ほんとーに素晴らしい演出家だ。

 『MIND TRAVELLER』とか作るから、ありがたみのない人になっちゃってるけどさ。ほんとはこんなに、すごい人なんだよなあぁ。溜息。
 オリジナルはもういいから、アレンジと演出だけに努めてくれよ……懇願。これだけ才能あるのに、なんであんなしょーもないオリジナルで名声に泥を塗るんだ。

 
 んで。
 原作の役の比重を見せつけられることで、ヅカにおける生徒への格付けが見えて、わかっていることだがちとしょぼん。

 ルキーニ≧トート>フランツなんだ……。

 ヅカではトートが主役だから、トート役が大切なのは言うまでもないけれど、次に重要なのはやっぱフランツではなくルキーニなんだな。
 組内昇格が前提だった雪・星・宙までは除外して、新専科以降劇団の人事事情がかかわってくる花・月で、重要なのはトート、ルキーニ、ルドルフ。
 新公はもっとわかりやすく、路線が演じるのは、トートとルドルフのみ。
 フランツぢゃない……。
 今のところ、フランツやってトップになった人いないぢゃん……。

 いやその。
 わたしの好きな役者は、大抵フランツ役者なんですよ。

 フランツ役、好きだもんよ……。あああ、わたしの好みって。


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