花の色をまとう。@TUXEDO JAZZ
2007年4月16日 タカラヅカ「オギーの色って、何色だと思う?」
「青」
ドリーさんと、そんな会話をした。あれはムラでのこと。
オギー作品には色があふれているし、独特の色を使うけれど、核となる場面の色は、大抵決まっている。
青。
そして、水の音。水を連想させるナニか。
青のグラデーション。青系。
「ピンクは、オギーの色じゃないよね?」
チガウ。
ピンクは、まったくチガウ。
賑やかしにかわいらしく使われることはあっても、核となる使い方はされない。
ヒロインらしくピンクを着まくっていた『タランテラ!』のまーちゃんだって、「大西洋」では青いドレスを着ている。
ピンクは、異質な色だ。
「どうしてゆうちゃんにピンクを着せるんだろう。ピンクがいちばん似合う色だっていうならともかく」
うん。
ソレ、すっごい疑問。
何故、真飛聖だけが、ピンクを着るのか。
『TUXEDO JAZZ』の話っす。
今回、まとぶは「影の主役」になるべき役を与えられた。
でも実際にはぜーんぜんダメ、ただの脇役その1に成り下がっている。
ただひとり、「オギー世界」にない色=ピンクを与えられている男だというのに、世界から浮き上がってもいいはずなのに、世界に埋没している。
ムラで観ていたとき、まとぶの足りなさぶりに胸を痛め、「オギーのことだから、東宝ではまとぶ、役の比重変えられてるんじゃあ?」と危惧した。
そしてやはり、東宝ではさりげなーく演出にアレンジが加えられ、まとぶの比重は下げられている。
まとぶがオサ様を導き翻弄する「運命」そのものではなく、オサ様自身が勝手に狂気で遊べるようになっていた。
ぶっちゃけ、まとぶがいなくても、オサ様はカオスで自在に歌いまくるよ。
誰に導かれなくても、オサ様は最初から人外だってば。
オギーはなんで、オサに人間を、まとぶに人外を割り振ったんだ、最初?
まとぶに人外キャラが演じられないことなんか、『ドルチェ・ヴィータ!』のサテュロスのダメっぷりでわかっていただろうに。
や、わたしとしては、まとぶ氏のまともさが愛しくてならないんだけどさ。人外とか悪意とかが演じられない、誠実さや真面目さが透けて見える常識人なところが、好きでしょーがないんだけど。
邪悪を演じようと、ものごっつー努力しているのはわかるし、人外のアヤしさを出そうと摩擦熱で焦げそうなくらい一生懸命空回っているのもわかる。
ソレが愛しくて愛しくてしょーがないんだが。
……そんな、努力して自爆する人に、何故できもしない役割を振る?
柄でもないピンクを着せて。
まとぶの持ち味って、「ピンク」ではないよね? 彼のトレードカラーがそんな色であるはずがないよね?
なのにわざわざ、まとぶはピンクなんだ。この作品において。
オギー世界にそぐわない色を、わざわざ選んで着せられている、2番手。
オギーはそこまで、真飛聖を疎外しているのか?
いや。
そんなふーには、思えない。
オギーが舞台人としてのまとぶに興味がないだろうことは想像がつくが、マイナスの意識はべつにないだろう。
2番手としての彼の体面に傷が付くような使い方はしていないわけだし。……「オギー作品」として見た場合は、足りなさぶりがえーらいこっちゃになっているだけで。オギーに興味のない人から見れば、「今回まとぶん大活躍だよね!」てな出番の多さだよね。
何故オギーは、まとぶに人外をやらせ、ピンクを着せ、できもしない役をわざわざやらせたのか。
……できると、思ったからかなあ? 彼の成長を見越してのキャスティング?
でも結局ダメだったから、東宝ではオサがひとりでカオスで大暴れするよーにアレンジした?
アテ書き基本の作家が、まとぶにだけソレをしなかったってこと? それもかえって変だよなあ。
うがった考え方をしてみよう。
まとぶファンの方と、このテーマでちょっとメールのやりとりをしたんだが。
>花カラーですよね、ピンクって。
そう指摘されて。
オギーがまとぶに「アテ書きをした」と考えるならば、今現在の真飛聖という立場そのものへのアテ書きではないか?
たとえば壮くんは、すーっかり花組に馴染んでいる。彼の芸風は違和感なく花組で、「お帰りなさい」の演出のあとは、見事に街の住人として落ち着いている。
なのに、まとぶんはどうだ。組替えしてきて1年半、未だに組カラーのちがい、芸風のちがいにとまどっている風情がある。
トップスター=組カラーである、トップ至上主義ピラミッドのタカラヅカにおいて、魔界の帝王オサ様相手に、誠実な人間の騎士まとぶはなんとも分が悪い。世界全部がオサ様のモノ。アウェイで戦う彼には、どこか不自由感がつきまとう。
ココは、彼の世界ではない。
だからひとりだけピンク。
「世界」に反する色。
ヒロインが記号として着るピンクではなく、男役がわざわざ着せられるピンク。オギーカラー青に対する反対色、あるいは補色。
まとぶは、花組らしい花組生徒ではない。
ここは、彼の世界ではない。
しかし。
彼は、「花組」を継ぐ者だ。
人事のことなんざ知らんが、ふつー2番手ってのは、「いずれトップスターになる」ものだ。
組子としてトップスターを支え、時期が来れば世代交代してトップスターになる。
どんなに組カラーから浮いていようと手こずっていようと、2番手である以上、「組を継ぐ」意識と責任は必要だろう。
わたしは、まとぶを「花組を継ぐ者」だと思っている。さんざん苦労しているとか足りていないとか言ってるけどな。ソレは「現花組」に対してであって、彼の時代になれば彼が組カラーになるんだから無問題。
わたしは古い人間なんで、落下傘人事はキライ。順当にトップから2番手に引き継ぐのが、タカラヅカの「美しいカタチ」だと思っている。
生え抜き主義ではないよ。
いずれトップになるために組替えされてきたのだとしても、年単位前からならそれはもう組子と考えるさ。現トップと同時期を同じ組の2番手として過ごしてきた人は、組替えだ生え抜きだと区別するべきではない。
まとぶが花に来て1年半。今回から単独2番手になったのだから、当然彼が次代の花組トップスターと考えるべきでしょう。
劇団がなにをしでかすかは知りようがないけれど、ヅカファン19年目の人間の感覚として。
花組を継ぐ者が、花組カラーをまとう。
「世界」からは浮いた色。「世界」の外側にいるべき役割。
花組を継ぐべき者でありながら、花組カラーに染まりきることができない、真飛聖。
そーゆー意味でのアテ書き?
オサ様相手に、オサ様の形作る「花組」を相手にあがいている、今のまとぶへのアテ書き?
……なんて、うがった考えではありますが。
まとぶのことはダイスキなので、『TUXEDO JAZZ』のまとぶの半端さには、真面目に考え込んでしまいますよ。
まとぶがいつか、柄でもないピンクを着こなし、オサ様相手に負けないだけのオーラを放てるスターになることを、現在を風刺しながら未来にエールを送っているのかなと、解釈しておきます。
わたしはオサと花組ファンであり、そして花組にいるまとぶもダイスキだ。オサ様とまとぶの並びも好き。
このふたりの並びを見ることが出来てよかったと思う。
今回はテーマに取り上げてしまったけれど、じつはそれほどまとぶが今の花組に合っていないとは思ってない。
『TUXEDO JAZZ』のまとぶにはいろいろいろいろ(笑)考えさせられるけれど。
おもしろいなあ。
「青」
ドリーさんと、そんな会話をした。あれはムラでのこと。
オギー作品には色があふれているし、独特の色を使うけれど、核となる場面の色は、大抵決まっている。
青。
そして、水の音。水を連想させるナニか。
青のグラデーション。青系。
「ピンクは、オギーの色じゃないよね?」
チガウ。
ピンクは、まったくチガウ。
賑やかしにかわいらしく使われることはあっても、核となる使い方はされない。
ヒロインらしくピンクを着まくっていた『タランテラ!』のまーちゃんだって、「大西洋」では青いドレスを着ている。
ピンクは、異質な色だ。
「どうしてゆうちゃんにピンクを着せるんだろう。ピンクがいちばん似合う色だっていうならともかく」
うん。
ソレ、すっごい疑問。
何故、真飛聖だけが、ピンクを着るのか。
『TUXEDO JAZZ』の話っす。
今回、まとぶは「影の主役」になるべき役を与えられた。
でも実際にはぜーんぜんダメ、ただの脇役その1に成り下がっている。
ただひとり、「オギー世界」にない色=ピンクを与えられている男だというのに、世界から浮き上がってもいいはずなのに、世界に埋没している。
ムラで観ていたとき、まとぶの足りなさぶりに胸を痛め、「オギーのことだから、東宝ではまとぶ、役の比重変えられてるんじゃあ?」と危惧した。
そしてやはり、東宝ではさりげなーく演出にアレンジが加えられ、まとぶの比重は下げられている。
まとぶがオサ様を導き翻弄する「運命」そのものではなく、オサ様自身が勝手に狂気で遊べるようになっていた。
ぶっちゃけ、まとぶがいなくても、オサ様はカオスで自在に歌いまくるよ。
誰に導かれなくても、オサ様は最初から人外だってば。
オギーはなんで、オサに人間を、まとぶに人外を割り振ったんだ、最初?
まとぶに人外キャラが演じられないことなんか、『ドルチェ・ヴィータ!』のサテュロスのダメっぷりでわかっていただろうに。
や、わたしとしては、まとぶ氏のまともさが愛しくてならないんだけどさ。人外とか悪意とかが演じられない、誠実さや真面目さが透けて見える常識人なところが、好きでしょーがないんだけど。
邪悪を演じようと、ものごっつー努力しているのはわかるし、人外のアヤしさを出そうと摩擦熱で焦げそうなくらい一生懸命空回っているのもわかる。
ソレが愛しくて愛しくてしょーがないんだが。
……そんな、努力して自爆する人に、何故できもしない役割を振る?
柄でもないピンクを着せて。
まとぶの持ち味って、「ピンク」ではないよね? 彼のトレードカラーがそんな色であるはずがないよね?
なのにわざわざ、まとぶはピンクなんだ。この作品において。
オギー世界にそぐわない色を、わざわざ選んで着せられている、2番手。
オギーはそこまで、真飛聖を疎外しているのか?
いや。
そんなふーには、思えない。
オギーが舞台人としてのまとぶに興味がないだろうことは想像がつくが、マイナスの意識はべつにないだろう。
2番手としての彼の体面に傷が付くような使い方はしていないわけだし。……「オギー作品」として見た場合は、足りなさぶりがえーらいこっちゃになっているだけで。オギーに興味のない人から見れば、「今回まとぶん大活躍だよね!」てな出番の多さだよね。
何故オギーは、まとぶに人外をやらせ、ピンクを着せ、できもしない役をわざわざやらせたのか。
……できると、思ったからかなあ? 彼の成長を見越してのキャスティング?
でも結局ダメだったから、東宝ではオサがひとりでカオスで大暴れするよーにアレンジした?
アテ書き基本の作家が、まとぶにだけソレをしなかったってこと? それもかえって変だよなあ。
うがった考え方をしてみよう。
まとぶファンの方と、このテーマでちょっとメールのやりとりをしたんだが。
>花カラーですよね、ピンクって。
そう指摘されて。
オギーがまとぶに「アテ書きをした」と考えるならば、今現在の真飛聖という立場そのものへのアテ書きではないか?
たとえば壮くんは、すーっかり花組に馴染んでいる。彼の芸風は違和感なく花組で、「お帰りなさい」の演出のあとは、見事に街の住人として落ち着いている。
なのに、まとぶんはどうだ。組替えしてきて1年半、未だに組カラーのちがい、芸風のちがいにとまどっている風情がある。
トップスター=組カラーである、トップ至上主義ピラミッドのタカラヅカにおいて、魔界の帝王オサ様相手に、誠実な人間の騎士まとぶはなんとも分が悪い。世界全部がオサ様のモノ。アウェイで戦う彼には、どこか不自由感がつきまとう。
ココは、彼の世界ではない。
だからひとりだけピンク。
「世界」に反する色。
ヒロインが記号として着るピンクではなく、男役がわざわざ着せられるピンク。オギーカラー青に対する反対色、あるいは補色。
まとぶは、花組らしい花組生徒ではない。
ここは、彼の世界ではない。
しかし。
彼は、「花組」を継ぐ者だ。
人事のことなんざ知らんが、ふつー2番手ってのは、「いずれトップスターになる」ものだ。
組子としてトップスターを支え、時期が来れば世代交代してトップスターになる。
どんなに組カラーから浮いていようと手こずっていようと、2番手である以上、「組を継ぐ」意識と責任は必要だろう。
わたしは、まとぶを「花組を継ぐ者」だと思っている。さんざん苦労しているとか足りていないとか言ってるけどな。ソレは「現花組」に対してであって、彼の時代になれば彼が組カラーになるんだから無問題。
わたしは古い人間なんで、落下傘人事はキライ。順当にトップから2番手に引き継ぐのが、タカラヅカの「美しいカタチ」だと思っている。
生え抜き主義ではないよ。
いずれトップになるために組替えされてきたのだとしても、年単位前からならそれはもう組子と考えるさ。現トップと同時期を同じ組の2番手として過ごしてきた人は、組替えだ生え抜きだと区別するべきではない。
まとぶが花に来て1年半。今回から単独2番手になったのだから、当然彼が次代の花組トップスターと考えるべきでしょう。
劇団がなにをしでかすかは知りようがないけれど、ヅカファン19年目の人間の感覚として。
花組を継ぐ者が、花組カラーをまとう。
「世界」からは浮いた色。「世界」の外側にいるべき役割。
花組を継ぐべき者でありながら、花組カラーに染まりきることができない、真飛聖。
そーゆー意味でのアテ書き?
オサ様相手に、オサ様の形作る「花組」を相手にあがいている、今のまとぶへのアテ書き?
……なんて、うがった考えではありますが。
まとぶのことはダイスキなので、『TUXEDO JAZZ』のまとぶの半端さには、真面目に考え込んでしまいますよ。
まとぶがいつか、柄でもないピンクを着こなし、オサ様相手に負けないだけのオーラを放てるスターになることを、現在を風刺しながら未来にエールを送っているのかなと、解釈しておきます。
わたしはオサと花組ファンであり、そして花組にいるまとぶもダイスキだ。オサ様とまとぶの並びも好き。
このふたりの並びを見ることが出来てよかったと思う。
今回はテーマに取り上げてしまったけれど、じつはそれほどまとぶが今の花組に合っていないとは思ってない。
『TUXEDO JAZZ』のまとぶにはいろいろいろいろ(笑)考えさせられるけれど。
おもしろいなあ。
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