彼女と彼の闇。@エリザベート
2007年5月10日 タカラヅカ 今回の『エリザベート』を観て、ものすごーく気になったのは、「その後のエリザベート」だ。
『エリザベート』の中の時間って、ずいぶん簡単に飛びまくっているよね?
すべてが終わったあと、みなが死に絶えたあとからルキーニが語っているので、時間は自由自在に伸縮している。
初見の際、その時間の飛びっぷりにびっくりしたけれど、重ねて観るうちに「そーゆーもんなんだ」と納得して、特に疑問も持たなくなった。
しかし。
今回は、すごーくすごーく気になる。
時間の飛びっぷりが。
時間が飛んでいていい、てゆーか人ひとりの一生全部同じ密度で語られても困る、ってもんで、飛んでいるのは当然なんだけど、それにしてもラストの飛び方って不自然だよね。
ルドルフが死んでシシィが死にたがり、トートが彼女を突き放したあと。
時は流れて、次にシシィが登場するのは晩年の「夜のボート」。
時間的にどれくらい空いているのか、また、「夜のボート」からシシィ暗殺までどれくらい時間が空いているのかは、わからない。史実がどうか知らないし、そもそもフィクションだからソレはどーでもいいし。
ただ観劇するうえで、ルドルフの死から「夜のボート」まではシシィとフランツの外見的変化が著しいし、「すげー年月経っていそうだな」と思える。
初見時は、とまどった。
えっ、こんなに時間経ってるの? シシィはおばーさんだし、フランツはおじーさんだ。また花ちゃんも老人メイクちゃんとしてたしなー(おかげで、その後の昇天のときが老けたままであまりきれいではなかった)。
「死は逃げ場ではない」ってトートに突き放されたあと、シシィは老人になり、トートが待っていることを受け入れているの?
なんか、間(あいだ)が抜けてないか? 肝心のことが描かれていない気がするんですけど?
それでも、「まあソレもあり」と納得するようになっていた。観客の想像に委ねられているんだろうと。
観客の想像……は、いいんだ。ソレもアリだろう、そーゆーもんなんだろう。
でもわたし、この間のシシィが観たいのよー。
トートに突き放されたあと、「夜のボート」までのシシィ。
今回の萌えは、ソコですから!!
異次元生物として描かれているトート。ダークメイクなだけの王子様@こんな素敵な人なら誘惑されちゃうわ♪、てなヒーローではなく、気持ち悪い異世界の存在として描かれたトート。
木から落ちたシシィと最初に出会ったところから、ルドルフの死までは、トートは異界の存在だった。高見から「人間」を見下ろしていた。ぬめりとした触感。ヒトの姿をとりながらもヒトではない動き。ヒトではない感情の発露。
その異界の存在が、「生」を放棄したエリザベートを拒絶することで、異界の理からはみ出すことになった。
黄泉の帝王は「人間」を愛し、「人間」と同じ地層にまで堕ちてきた……。
翼を失った天使は、どうやって生きたのだろう?
異界の存在でありながら、人間界に堕ちてしまったトートは、どうやって生きたのだろう?
舞台の中で語られている部分のみが「トートがシシィの前に現れたところ」であるならば、ルドルフの葬儀のあと、トートはもうシシィの前には現れなかったということになる。最期の暗殺のところまで。
長い年月が経つだろうに、現れない。その間、シシィは一度も傷つかなかった? 死にたいと思わなかった? ……人間である限り、ソレはないだろう。
絶望の淵まで堕ちたのち、シシィはそれでも生きるしかなかった。
死へ逃げることができなかった彼女は、ただ生きるしかない。傷つきながら、苦しみながら。
そしてそれを、ただ黙って見つめている男。
手をさしのべることは簡単なのに、手に入れることはたやすいのに、それはせずに、見守る男。
彼女と同じ場所まで堕ちて。
「自分の港」を求め、静かにあがきつづけるシシィと、それを見守るトートが観たい。
触れ合わない、シシィにはトートが見えない。だけど彼は、そばにいる。彼女の傷も涙も、全部見守っている。
それまでの変質者的な姿から、守護者への変化。
人間と死。相容れないはずの存在。
あれほど特異なトート像を打ち出してきたからこそ、「その後のエリザベート」を観たいと思う。
今までの人間に近い部分を多分に持つトートならば、舞台上で描かれている部分で十分「恋愛」を表現することができたけれど、今回のトートは描かれている部分が人間離れしまくっているから。
彼が「変わった」あとを知りたい、見たい、と思う。
たぶん、その「変わった」あとのトートこそが、水くんの本領発揮部分だろうな、と思えるだけに、なおさら。
冷たい容姿を持ちながら、クールな役を得意としながら、我らが水先輩、ホットな人だから。
彼は「愛」を表現できる役者なので、ほんとは最初からシシィに対して愛情タダ漏れ(甘々系ではなく、ハード系)演技だとか、クールな裏で情熱メラメラ演技とかも、得意だと思うのよ。
でも今回はそうでなく、異界のキャラクタを丁寧に作り上げている。美しい姿をしながらなお、客に「気持ち悪い、あのヒト人間じゃない」と思わせる異次元生物を演じているわけだから、いろんな意味で「挑戦」しているのだなと思う。
わたしは片想いスキーなので、シシィを愛しながらも姿を見せず、アプローチもせず ただ見守るだけ、のトート閣下を見たいのですよ!(笑)
低温基本なのに、ときおりこみ上げるモノを嚥下しきれず、ひとりうろたえる図とか、すっげー見たいのですよ!!
いやあ、こんなところにトキメキを感じたのは歴代『エリザベート』の中で、今回がはじめてだ。
水トートの異界っぷりが、実に好みです。人間離れした存在感が、ツボっす。
あ、べつに、過去のトート像を否定するわけではなく、あくまでも「今」のトートの解釈がたのしい。
トートとエリザベートのベストな関係って、「私だけに」独唱時の、回る盆の上を歩く姿かな、と思う。
シシィにトートは見えず、自分の意志で歩き、トートは独自の想いで彼女を見つめる。同じように歩いているのに、ふたりが出会うことはない。
「その後のエリザベート」は、「私だけに」独唱時の若さゆえの無邪気な強さはないけれど、哀しみを魂に刻んだ者が持つ強さを持っていると思う。
白い闇の中を旅する彼女と同じ速度で、同じ闇の中を彼もまた歩く。
逃げるでなく、怯えるでなく、彼の存在を受け止めながら、彼女は生きる。
いつか、彼のもとにたどりつく日が来る。その、たしかな予感を胸に。
「ここを観たい!」と思わせる、「いちばん観たいところが出し惜しみされている」と思わせるのだから、今回の『エリザベート』はニクいと思うよ。や、わたし的に。
おかげで、飢餓感が残る。
トート閣下に、会いたくなる。
彼の真意が知りたくて、深みまで沈んでみたくて、耽ってみたくてうずうずする。……そう、最終答弁はポイントです。ハマコゾンビ見ている場合じゃないから!!←一瞬でも目を奪われたことがくやしいらしい(笑)。
『エリザベート』の中の時間って、ずいぶん簡単に飛びまくっているよね?
すべてが終わったあと、みなが死に絶えたあとからルキーニが語っているので、時間は自由自在に伸縮している。
初見の際、その時間の飛びっぷりにびっくりしたけれど、重ねて観るうちに「そーゆーもんなんだ」と納得して、特に疑問も持たなくなった。
しかし。
今回は、すごーくすごーく気になる。
時間の飛びっぷりが。
時間が飛んでいていい、てゆーか人ひとりの一生全部同じ密度で語られても困る、ってもんで、飛んでいるのは当然なんだけど、それにしてもラストの飛び方って不自然だよね。
ルドルフが死んでシシィが死にたがり、トートが彼女を突き放したあと。
時は流れて、次にシシィが登場するのは晩年の「夜のボート」。
時間的にどれくらい空いているのか、また、「夜のボート」からシシィ暗殺までどれくらい時間が空いているのかは、わからない。史実がどうか知らないし、そもそもフィクションだからソレはどーでもいいし。
ただ観劇するうえで、ルドルフの死から「夜のボート」まではシシィとフランツの外見的変化が著しいし、「すげー年月経っていそうだな」と思える。
初見時は、とまどった。
えっ、こんなに時間経ってるの? シシィはおばーさんだし、フランツはおじーさんだ。また花ちゃんも老人メイクちゃんとしてたしなー(おかげで、その後の昇天のときが老けたままであまりきれいではなかった)。
「死は逃げ場ではない」ってトートに突き放されたあと、シシィは老人になり、トートが待っていることを受け入れているの?
なんか、間(あいだ)が抜けてないか? 肝心のことが描かれていない気がするんですけど?
それでも、「まあソレもあり」と納得するようになっていた。観客の想像に委ねられているんだろうと。
観客の想像……は、いいんだ。ソレもアリだろう、そーゆーもんなんだろう。
でもわたし、この間のシシィが観たいのよー。
トートに突き放されたあと、「夜のボート」までのシシィ。
今回の萌えは、ソコですから!!
異次元生物として描かれているトート。ダークメイクなだけの王子様@こんな素敵な人なら誘惑されちゃうわ♪、てなヒーローではなく、気持ち悪い異世界の存在として描かれたトート。
木から落ちたシシィと最初に出会ったところから、ルドルフの死までは、トートは異界の存在だった。高見から「人間」を見下ろしていた。ぬめりとした触感。ヒトの姿をとりながらもヒトではない動き。ヒトではない感情の発露。
その異界の存在が、「生」を放棄したエリザベートを拒絶することで、異界の理からはみ出すことになった。
黄泉の帝王は「人間」を愛し、「人間」と同じ地層にまで堕ちてきた……。
翼を失った天使は、どうやって生きたのだろう?
異界の存在でありながら、人間界に堕ちてしまったトートは、どうやって生きたのだろう?
舞台の中で語られている部分のみが「トートがシシィの前に現れたところ」であるならば、ルドルフの葬儀のあと、トートはもうシシィの前には現れなかったということになる。最期の暗殺のところまで。
長い年月が経つだろうに、現れない。その間、シシィは一度も傷つかなかった? 死にたいと思わなかった? ……人間である限り、ソレはないだろう。
絶望の淵まで堕ちたのち、シシィはそれでも生きるしかなかった。
死へ逃げることができなかった彼女は、ただ生きるしかない。傷つきながら、苦しみながら。
そしてそれを、ただ黙って見つめている男。
手をさしのべることは簡単なのに、手に入れることはたやすいのに、それはせずに、見守る男。
彼女と同じ場所まで堕ちて。
「自分の港」を求め、静かにあがきつづけるシシィと、それを見守るトートが観たい。
触れ合わない、シシィにはトートが見えない。だけど彼は、そばにいる。彼女の傷も涙も、全部見守っている。
それまでの変質者的な姿から、守護者への変化。
人間と死。相容れないはずの存在。
あれほど特異なトート像を打ち出してきたからこそ、「その後のエリザベート」を観たいと思う。
今までの人間に近い部分を多分に持つトートならば、舞台上で描かれている部分で十分「恋愛」を表現することができたけれど、今回のトートは描かれている部分が人間離れしまくっているから。
彼が「変わった」あとを知りたい、見たい、と思う。
たぶん、その「変わった」あとのトートこそが、水くんの本領発揮部分だろうな、と思えるだけに、なおさら。
冷たい容姿を持ちながら、クールな役を得意としながら、我らが水先輩、ホットな人だから。
彼は「愛」を表現できる役者なので、ほんとは最初からシシィに対して愛情タダ漏れ(甘々系ではなく、ハード系)演技だとか、クールな裏で情熱メラメラ演技とかも、得意だと思うのよ。
でも今回はそうでなく、異界のキャラクタを丁寧に作り上げている。美しい姿をしながらなお、客に「気持ち悪い、あのヒト人間じゃない」と思わせる異次元生物を演じているわけだから、いろんな意味で「挑戦」しているのだなと思う。
わたしは片想いスキーなので、シシィを愛しながらも姿を見せず、アプローチもせず ただ見守るだけ、のトート閣下を見たいのですよ!(笑)
低温基本なのに、ときおりこみ上げるモノを嚥下しきれず、ひとりうろたえる図とか、すっげー見たいのですよ!!
いやあ、こんなところにトキメキを感じたのは歴代『エリザベート』の中で、今回がはじめてだ。
水トートの異界っぷりが、実に好みです。人間離れした存在感が、ツボっす。
あ、べつに、過去のトート像を否定するわけではなく、あくまでも「今」のトートの解釈がたのしい。
トートとエリザベートのベストな関係って、「私だけに」独唱時の、回る盆の上を歩く姿かな、と思う。
シシィにトートは見えず、自分の意志で歩き、トートは独自の想いで彼女を見つめる。同じように歩いているのに、ふたりが出会うことはない。
「その後のエリザベート」は、「私だけに」独唱時の若さゆえの無邪気な強さはないけれど、哀しみを魂に刻んだ者が持つ強さを持っていると思う。
白い闇の中を旅する彼女と同じ速度で、同じ闇の中を彼もまた歩く。
逃げるでなく、怯えるでなく、彼の存在を受け止めながら、彼女は生きる。
いつか、彼のもとにたどりつく日が来る。その、たしかな予感を胸に。
「ここを観たい!」と思わせる、「いちばん観たいところが出し惜しみされている」と思わせるのだから、今回の『エリザベート』はニクいと思うよ。や、わたし的に。
おかげで、飢餓感が残る。
トート閣下に、会いたくなる。
彼の真意が知りたくて、深みまで沈んでみたくて、耽ってみたくてうずうずする。……そう、最終答弁はポイントです。ハマコゾンビ見ている場合じゃないから!!←一瞬でも目を奪われたことがくやしいらしい(笑)。
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