変わらない彼女と。@エリザベート
2007年5月18日 タカラヅカ 雪組再演『エリザベート』について。
初日に観たときと、トートのキャラクタが大きく変わり、作品自体の方向性が変わった、と、わたしは感じた。
トートを非人間的な気持ち悪い存在とはせず、ふつーに見てかっこいいいつもの「タカラヅカ的なトート」に変更した。
『エリザベート』としてのスタンダードに戻した上で、今の雪組のトートと『エリザベート』を創っている。
ソレはいい。初日トートが大好きだったのでものすごーく残念だし、正直心残りでもあるが、ヅカ的ヒーローな水くん(それでも十分爬虫類的)を見られることもうれしい。
だからまあ、ソレに関しては「そーゆーもん」だと割り切ることも出来る。
ただ。
不思議なのは、トートが別人なのに、シシィは変わっていないということだ。
よくもない海馬をかき回し、いろいろ思い返してみたんだけど。
フランツもゾフィーもキャラ変わってるのに、シシィは変わってないよな?
となみちゃんのエリザベートは、初日と同じキャラクタ。
あ、あれえ??
1幕最後の「鏡の間」場面において、感じた違和感は2度目の観劇時も同じだった。
すなわち。
バラバラ。
フランツはシシィを愛している。信念を曲げてまで彼女のもとにひざまずいた。
初日トートは別次元のイキモノだったので「アイシテル」と歌うけれどものすげー別物感。ふつーのトートになったあとも、やはり彼は彼のルールで動いているので、シシィやフランツとは同じ舞台にいない(これは正しい。だからこそ彼は銀橋にいるのだし)。
そしてシシィは。……どっか、別のところを見ている。
シシィ、どこ見てるの?
シシィはフランツを愛していない。てゆーか、誰のことも見ていない。
「自分のことで精一杯」……というキャラクタなのは、いいのだけど。そして、異次元トートを相手にするには、それくらい偏狭なキャラクタでないと対峙できないのかなと、初日は思っていたのだけど。
トートがシシィを愛している、いつものトートを踏襲している今も何故、初日と同じなの?
相手役が変わっても、同じ演技? ってソレ、最初から相手役関係なかったってこと??
……びっくりですよ。
そーだったのか……。
相手の演技が変わっても変化しない演技ということは、その舞台で、「世界」で孤立しているということ。
相手の演技を受けて自分の演技を返すのではなく、ただひたすら自分の演技のみを続けるということ。
その結果が、あの愉快な「鏡の間」。
フランツの想いは届かず、トートは別の場所にいる。
フランツの横にいるはずのシシィは、誰とも交わらずひとりきり。
すげえ。
3人が3人とも、別のことを歌ってる。相手のこと関係なく、自分の話しかしてねえ。
思い切り、バラバラ。
こんな『エリザベート』、はじめて見た。
コレはとなみちゃんの役作りなのか、それともただの結果なのか。
となみのエリザベートは、あまりに「小さい」。人間としての器が。
自分のことや、今自分の目に映っていることしか考えられない。
夕飯前なのに、目の前にどーでもいいお菓子があると、なにも考えずに満腹するまで食べてしまう。そしておいしい夕飯が食べられない。それだけならただの自業自得だが、夕飯が食べられないことでキレてテーブルをひっくり返す。学習はせず、翌日も同じことを繰り返す。
これは、となみが計算してそう演じているのか? それとも、結果的にそうなってしまっているだけなのか?
「小さい」人間でもいいんだ。シシィを偉人にする必要はない。
そんなシシィと周囲の演技が噛み合ってさえいれば。
なにも見えない、考えている余裕なんかない。ただ目の前にある仕事をこなすので精一杯……に見えるヒロイン。
常に不満を抱え、「世界がわたしの思い通りにならない」「つまり、世界はすべて敵」と肩をいからせている狭量な子ども。
そんな彼女が魅力的でない、とは言えないのだから。
実際、シシィは魅力的だ。
彼女が「狭量」であることを示す瞬間が、もっとも彼女の魅力が輝くのだから。
「嫌よ!」
ーー否定の言葉を叩きつける瞬間のエリザベートが、いちばん美しい。
否定し、拒絶し、排除する、その瞬間こそ、彼女の魂が燃え上がる。
愛すべき少女だ、と思う。
ちっぽけな心ひとつを抱きしめて、他のすべてを拒絶する姿が、彼女が愚かで狭量であることを物語っているというのに、それでも魅力的なんだ。
その愚かさごと、傷だらけの自尊心ごと、抱きしめてあげたい。
シシィが愚かであるがゆえに、フランツは彼女を愛し、されど手をさしのべることも出来ずにいる。
「傷の手当てをして上げよう」と言っているのに、その手に噛みついて逃げる動物みたいなもん。賢ければ、他人の言葉に耳を傾けるという選択肢もあるだろうに、のーみそ小さいからそんなもん、はなから存在しないのね。
トートはシシィの、人間社会で生きていけない魂を愛し、彼独自の考え方で愛情表現をし続ける。
羽を広げて求婚のダンスを踊る孔雀を前に、孤独な猫は恐怖を感じて逃げまどう。……孔雀同士ならたしかにソレ、求婚かもしれないけど、猫にしたら「化け物に威嚇された! こわっ」でしかないって。
噛み合っていない3人。
それは最後まで変わらない。
昇天のシーンまでずーっとそう。だってシシィが周囲を見ていないままだもの。2幕のシシィは完全に自分の内側に引きこもっている。
初日トートのときは、シシィの偏狭ぶりとトートの異次元ぶりに、「描かれていないところのドラマ」をわたしは勝手に期待して盛りがあった。
だって、描かれている部分では、とてもじゃないがふたりは同じ世界にはいなかったんだもの。トート化け物だし、シシィ誰のことも見てないしで。
その誰のことも見ていないシシィの側へ、異次元トートが歩み寄る、彼女の岸まで翼を失い堕ちたことが、萌えだった。
気持ち悪い化け物から、「死は逃げ場ではない」と叫ぶくらい「人間らしい感覚」を持つ者に成り下がってしまったトートの、「変貌」ぶりに心ときめいたのよ。
うわ、ここまで堕ちてしまって、この男はこれからどうなるんだろう……そう思うとヲトメゴコロがうずいたわ(笑)。
だけど2回目の観劇時、トートはもう異次元生物ではなくて。ふつーにシシィと同じ世界にいるヒーローで。この男ならたしかに「死は逃げ場ではない」ってふつーに言いそう、てなぐらいにスタンダードを根っこに置いたトート。
なのにシシィは誰のことも見ずに狭い世界で生きている。トートもフランツもいるのに、誰のことも顧みない。
トートが異次元生物だったときと同じように「鏡の間」はバラバラ。
なんで?
トートが変わったんだから、シシィも変わるべきでしょう?
現に、フランツもゾフィーも変わったよ?
たしかに、偏狭なシシィは魅力的だけど。否定を口にし、心を閉ざす少女は愛しいのだけど……でも、主役であるトートが変わっちゃったから、ふつー相手役は主役に合わせる必要がある、よなあ? なんで役作り変わってないんだろう。
……計算なのかただの結果なのか、わからないけれど。
トートが変わり、フランツはそれに合わせて変わることができる。だが、シシィは変わらない。
……となるとコレは、シシィに合わせて、トートもフランツも変わり続けるしかないよな。
バラバラにしないためには、となみちゃんのシシィに合わせて、水くんもゆみこちゃんも役作りするしかない。
や、バラバラなのが「雪組の『エリザベート』です」ってことなら、余計なお世話なんだろうけど。
噛み合っていない「鏡の間」は、たしかに愉快ではあるのだし、ソレはソレでいいのかもしれないけど。
いやあ、これからどうなって行くのかなあ。
シシィだってこれから変わるかもしれないんだし、そーなると全体も変わるんだろうし、「いつもの」おなじみの作品はこーゆーたのしみ方があるよなー。
初日に観たときと、トートのキャラクタが大きく変わり、作品自体の方向性が変わった、と、わたしは感じた。
トートを非人間的な気持ち悪い存在とはせず、ふつーに見てかっこいいいつもの「タカラヅカ的なトート」に変更した。
『エリザベート』としてのスタンダードに戻した上で、今の雪組のトートと『エリザベート』を創っている。
ソレはいい。初日トートが大好きだったのでものすごーく残念だし、正直心残りでもあるが、ヅカ的ヒーローな水くん(それでも十分爬虫類的)を見られることもうれしい。
だからまあ、ソレに関しては「そーゆーもん」だと割り切ることも出来る。
ただ。
不思議なのは、トートが別人なのに、シシィは変わっていないということだ。
よくもない海馬をかき回し、いろいろ思い返してみたんだけど。
フランツもゾフィーもキャラ変わってるのに、シシィは変わってないよな?
となみちゃんのエリザベートは、初日と同じキャラクタ。
あ、あれえ??
1幕最後の「鏡の間」場面において、感じた違和感は2度目の観劇時も同じだった。
すなわち。
バラバラ。
フランツはシシィを愛している。信念を曲げてまで彼女のもとにひざまずいた。
初日トートは別次元のイキモノだったので「アイシテル」と歌うけれどものすげー別物感。ふつーのトートになったあとも、やはり彼は彼のルールで動いているので、シシィやフランツとは同じ舞台にいない(これは正しい。だからこそ彼は銀橋にいるのだし)。
そしてシシィは。……どっか、別のところを見ている。
シシィ、どこ見てるの?
シシィはフランツを愛していない。てゆーか、誰のことも見ていない。
「自分のことで精一杯」……というキャラクタなのは、いいのだけど。そして、異次元トートを相手にするには、それくらい偏狭なキャラクタでないと対峙できないのかなと、初日は思っていたのだけど。
トートがシシィを愛している、いつものトートを踏襲している今も何故、初日と同じなの?
相手役が変わっても、同じ演技? ってソレ、最初から相手役関係なかったってこと??
……びっくりですよ。
そーだったのか……。
相手の演技が変わっても変化しない演技ということは、その舞台で、「世界」で孤立しているということ。
相手の演技を受けて自分の演技を返すのではなく、ただひたすら自分の演技のみを続けるということ。
その結果が、あの愉快な「鏡の間」。
フランツの想いは届かず、トートは別の場所にいる。
フランツの横にいるはずのシシィは、誰とも交わらずひとりきり。
すげえ。
3人が3人とも、別のことを歌ってる。相手のこと関係なく、自分の話しかしてねえ。
思い切り、バラバラ。
こんな『エリザベート』、はじめて見た。
コレはとなみちゃんの役作りなのか、それともただの結果なのか。
となみのエリザベートは、あまりに「小さい」。人間としての器が。
自分のことや、今自分の目に映っていることしか考えられない。
夕飯前なのに、目の前にどーでもいいお菓子があると、なにも考えずに満腹するまで食べてしまう。そしておいしい夕飯が食べられない。それだけならただの自業自得だが、夕飯が食べられないことでキレてテーブルをひっくり返す。学習はせず、翌日も同じことを繰り返す。
これは、となみが計算してそう演じているのか? それとも、結果的にそうなってしまっているだけなのか?
「小さい」人間でもいいんだ。シシィを偉人にする必要はない。
そんなシシィと周囲の演技が噛み合ってさえいれば。
なにも見えない、考えている余裕なんかない。ただ目の前にある仕事をこなすので精一杯……に見えるヒロイン。
常に不満を抱え、「世界がわたしの思い通りにならない」「つまり、世界はすべて敵」と肩をいからせている狭量な子ども。
そんな彼女が魅力的でない、とは言えないのだから。
実際、シシィは魅力的だ。
彼女が「狭量」であることを示す瞬間が、もっとも彼女の魅力が輝くのだから。
「嫌よ!」
ーー否定の言葉を叩きつける瞬間のエリザベートが、いちばん美しい。
否定し、拒絶し、排除する、その瞬間こそ、彼女の魂が燃え上がる。
愛すべき少女だ、と思う。
ちっぽけな心ひとつを抱きしめて、他のすべてを拒絶する姿が、彼女が愚かで狭量であることを物語っているというのに、それでも魅力的なんだ。
その愚かさごと、傷だらけの自尊心ごと、抱きしめてあげたい。
シシィが愚かであるがゆえに、フランツは彼女を愛し、されど手をさしのべることも出来ずにいる。
「傷の手当てをして上げよう」と言っているのに、その手に噛みついて逃げる動物みたいなもん。賢ければ、他人の言葉に耳を傾けるという選択肢もあるだろうに、のーみそ小さいからそんなもん、はなから存在しないのね。
トートはシシィの、人間社会で生きていけない魂を愛し、彼独自の考え方で愛情表現をし続ける。
羽を広げて求婚のダンスを踊る孔雀を前に、孤独な猫は恐怖を感じて逃げまどう。……孔雀同士ならたしかにソレ、求婚かもしれないけど、猫にしたら「化け物に威嚇された! こわっ」でしかないって。
噛み合っていない3人。
それは最後まで変わらない。
昇天のシーンまでずーっとそう。だってシシィが周囲を見ていないままだもの。2幕のシシィは完全に自分の内側に引きこもっている。
初日トートのときは、シシィの偏狭ぶりとトートの異次元ぶりに、「描かれていないところのドラマ」をわたしは勝手に期待して盛りがあった。
だって、描かれている部分では、とてもじゃないがふたりは同じ世界にはいなかったんだもの。トート化け物だし、シシィ誰のことも見てないしで。
その誰のことも見ていないシシィの側へ、異次元トートが歩み寄る、彼女の岸まで翼を失い堕ちたことが、萌えだった。
気持ち悪い化け物から、「死は逃げ場ではない」と叫ぶくらい「人間らしい感覚」を持つ者に成り下がってしまったトートの、「変貌」ぶりに心ときめいたのよ。
うわ、ここまで堕ちてしまって、この男はこれからどうなるんだろう……そう思うとヲトメゴコロがうずいたわ(笑)。
だけど2回目の観劇時、トートはもう異次元生物ではなくて。ふつーにシシィと同じ世界にいるヒーローで。この男ならたしかに「死は逃げ場ではない」ってふつーに言いそう、てなぐらいにスタンダードを根っこに置いたトート。
なのにシシィは誰のことも見ずに狭い世界で生きている。トートもフランツもいるのに、誰のことも顧みない。
トートが異次元生物だったときと同じように「鏡の間」はバラバラ。
なんで?
トートが変わったんだから、シシィも変わるべきでしょう?
現に、フランツもゾフィーも変わったよ?
たしかに、偏狭なシシィは魅力的だけど。否定を口にし、心を閉ざす少女は愛しいのだけど……でも、主役であるトートが変わっちゃったから、ふつー相手役は主役に合わせる必要がある、よなあ? なんで役作り変わってないんだろう。
……計算なのかただの結果なのか、わからないけれど。
トートが変わり、フランツはそれに合わせて変わることができる。だが、シシィは変わらない。
……となるとコレは、シシィに合わせて、トートもフランツも変わり続けるしかないよな。
バラバラにしないためには、となみちゃんのシシィに合わせて、水くんもゆみこちゃんも役作りするしかない。
や、バラバラなのが「雪組の『エリザベート』です」ってことなら、余計なお世話なんだろうけど。
噛み合っていない「鏡の間」は、たしかに愉快ではあるのだし、ソレはソレでいいのかもしれないけど。
いやあ、これからどうなって行くのかなあ。
シシィだってこれから変わるかもしれないんだし、そーなると全体も変わるんだろうし、「いつもの」おなじみの作品はこーゆーたのしみ方があるよなー。
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