雪組再演『エリザベート』について。

 初日に観たときと、トートのキャラクタが大きく変わり、作品自体の方向性が変わった、と、わたしは感じた。
 トートを非人間的な気持ち悪い存在とはせず、ふつーに見てかっこいいいつもの「タカラヅカ的なトート」に変更した。
 『エリザベート』としてのスタンダードに戻した上で、今の雪組のトートと『エリザベート』を創っている。

 ソレはいい。初日トートが大好きだったのでものすごーく残念だし、正直心残りでもあるが、ヅカ的ヒーローな水くん(それでも十分爬虫類的)を見られることもうれしい。

 だからまあ、ソレに関しては「そーゆーもん」だと割り切ることも出来る。
 ただ。

 不思議なのは、トートが別人なのに、シシィは変わっていないということだ。

 よくもない海馬をかき回し、いろいろ思い返してみたんだけど。
 フランツもゾフィーもキャラ変わってるのに、シシィは変わってないよな?

 となみちゃんのエリザベートは、初日と同じキャラクタ。
 あ、あれえ??

 
 1幕最後の「鏡の間」場面において、感じた違和感は2度目の観劇時も同じだった。

 すなわち。

 バラバラ。

 フランツはシシィを愛している。信念を曲げてまで彼女のもとにひざまずいた。
 初日トートは別次元のイキモノだったので「アイシテル」と歌うけれどものすげー別物感。ふつーのトートになったあとも、やはり彼は彼のルールで動いているので、シシィやフランツとは同じ舞台にいない(これは正しい。だからこそ彼は銀橋にいるのだし)。
 そしてシシィは。……どっか、別のところを見ている。

 シシィ、どこ見てるの?

 シシィはフランツを愛していない。てゆーか、誰のことも見ていない。
 「自分のことで精一杯」……というキャラクタなのは、いいのだけど。そして、異次元トートを相手にするには、それくらい偏狭なキャラクタでないと対峙できないのかなと、初日は思っていたのだけど。

 トートがシシィを愛している、いつものトートを踏襲している今も何故、初日と同じなの?

 相手役が変わっても、同じ演技? ってソレ、最初から相手役関係なかったってこと??

 ……びっくりですよ。
 そーだったのか……。

 相手の演技が変わっても変化しない演技ということは、その舞台で、「世界」で孤立しているということ。
 相手の演技を受けて自分の演技を返すのではなく、ただひたすら自分の演技のみを続けるということ。

 その結果が、あの愉快な「鏡の間」。

 フランツの想いは届かず、トートは別の場所にいる。
 フランツの横にいるはずのシシィは、誰とも交わらずひとりきり。

 すげえ。
 3人が3人とも、別のことを歌ってる。相手のこと関係なく、自分の話しかしてねえ。

 思い切り、バラバラ。

 こんな『エリザベート』、はじめて見た。

 コレはとなみちゃんの役作りなのか、それともただの結果なのか。

 となみのエリザベートは、あまりに「小さい」。人間としての器が。
 自分のことや、今自分の目に映っていることしか考えられない。
 夕飯前なのに、目の前にどーでもいいお菓子があると、なにも考えずに満腹するまで食べてしまう。そしておいしい夕飯が食べられない。それだけならただの自業自得だが、夕飯が食べられないことでキレてテーブルをひっくり返す。学習はせず、翌日も同じことを繰り返す。
 これは、となみが計算してそう演じているのか? それとも、結果的にそうなってしまっているだけなのか?

 「小さい」人間でもいいんだ。シシィを偉人にする必要はない。
 そんなシシィと周囲の演技が噛み合ってさえいれば。

 なにも見えない、考えている余裕なんかない。ただ目の前にある仕事をこなすので精一杯……に見えるヒロイン。
 常に不満を抱え、「世界がわたしの思い通りにならない」「つまり、世界はすべて敵」と肩をいからせている狭量な子ども。
 そんな彼女が魅力的でない、とは言えないのだから。

 実際、シシィは魅力的だ。

 彼女が「狭量」であることを示す瞬間が、もっとも彼女の魅力が輝くのだから。

「嫌よ!」
 ーー否定の言葉を叩きつける瞬間のエリザベートが、いちばん美しい。

 否定し、拒絶し、排除する、その瞬間こそ、彼女の魂が燃え上がる。

 愛すべき少女だ、と思う。
 ちっぽけな心ひとつを抱きしめて、他のすべてを拒絶する姿が、彼女が愚かで狭量であることを物語っているというのに、それでも魅力的なんだ。
 その愚かさごと、傷だらけの自尊心ごと、抱きしめてあげたい。

 シシィが愚かであるがゆえに、フランツは彼女を愛し、されど手をさしのべることも出来ずにいる。
 「傷の手当てをして上げよう」と言っているのに、その手に噛みついて逃げる動物みたいなもん。賢ければ、他人の言葉に耳を傾けるという選択肢もあるだろうに、のーみそ小さいからそんなもん、はなから存在しないのね。

 トートはシシィの、人間社会で生きていけない魂を愛し、彼独自の考え方で愛情表現をし続ける。
 羽を広げて求婚のダンスを踊る孔雀を前に、孤独な猫は恐怖を感じて逃げまどう。……孔雀同士ならたしかにソレ、求婚かもしれないけど、猫にしたら「化け物に威嚇された! こわっ」でしかないって。

 噛み合っていない3人。
 それは最後まで変わらない。
 昇天のシーンまでずーっとそう。だってシシィが周囲を見ていないままだもの。2幕のシシィは完全に自分の内側に引きこもっている。

 初日トートのときは、シシィの偏狭ぶりとトートの異次元ぶりに、「描かれていないところのドラマ」をわたしは勝手に期待して盛りがあった。
 だって、描かれている部分では、とてもじゃないがふたりは同じ世界にはいなかったんだもの。トート化け物だし、シシィ誰のことも見てないしで。
 その誰のことも見ていないシシィの側へ、異次元トートが歩み寄る、彼女の岸まで翼を失い堕ちたことが、萌えだった。
 気持ち悪い化け物から、「死は逃げ場ではない」と叫ぶくらい「人間らしい感覚」を持つ者に成り下がってしまったトートの、「変貌」ぶりに心ときめいたのよ。
 うわ、ここまで堕ちてしまって、この男はこれからどうなるんだろう……そう思うとヲトメゴコロがうずいたわ(笑)。

 だけど2回目の観劇時、トートはもう異次元生物ではなくて。ふつーにシシィと同じ世界にいるヒーローで。この男ならたしかに「死は逃げ場ではない」ってふつーに言いそう、てなぐらいにスタンダードを根っこに置いたトート。
 なのにシシィは誰のことも見ずに狭い世界で生きている。トートもフランツもいるのに、誰のことも顧みない。
 トートが異次元生物だったときと同じように「鏡の間」はバラバラ。

 なんで?
 トートが変わったんだから、シシィも変わるべきでしょう?
 現に、フランツもゾフィーも変わったよ?
 たしかに、偏狭なシシィは魅力的だけど。否定を口にし、心を閉ざす少女は愛しいのだけど……でも、主役であるトートが変わっちゃったから、ふつー相手役は主役に合わせる必要がある、よなあ? なんで役作り変わってないんだろう。

 ……計算なのかただの結果なのか、わからないけれど。

 トートが変わり、フランツはそれに合わせて変わることができる。だが、シシィは変わらない。
 ……となるとコレは、シシィに合わせて、トートもフランツも変わり続けるしかないよな。

 バラバラにしないためには、となみちゃんのシシィに合わせて、水くんもゆみこちゃんも役作りするしかない。
 や、バラバラなのが「雪組の『エリザベート』です」ってことなら、余計なお世話なんだろうけど。

 噛み合っていない「鏡の間」は、たしかに愉快ではあるのだし、ソレはソレでいいのかもしれないけど。

 いやあ、これからどうなって行くのかなあ。
 シシィだってこれから変わるかもしれないんだし、そーなると全体も変わるんだろうし、「いつもの」おなじみの作品はこーゆーたのしみ方があるよなー。


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