好きにもいろいろあって。
 同じように好きな人なんて、ひとりもいない。

 春野寿美礼に対する「好き」は、いったいなんなんだろう。

 好きなジェンヌを、自分の中でジャンル分けしたことがある。
 たとえば、ダーリン系で好きなのは、水くんだ。彼のことは、ドキドキする恋愛対象として好き。男性としてときめく相手。
 1ファンとして、「かっこいい!」ときゃあきゃあ無邪気に言えるし、生真面目ぶりだとかをつついて遊べるくらいの親近感もある。本人の人柄なんか知るよしもないが、「きっといい人」だと思いこみ、その人間性まで勝手に好意を持っている。
 技術的にも、安心している。や、歌がアレなことはわかっているが、それを含めて「男役」として高水準の仕事をする人だという信頼感がある。体温の感じられる舞台が好き。

 ゆうひくんも、ダーリン系。水くんが「文武両道の生徒会長にときめくキモチ」ならば、ゆーひくんは「どこか寂しげな不良少年にときめくキモチ」だ。彼の「どこか欠けた」ところが、ハートをきゅんきゅん(笑)させる。
 成長してえらくきらきら輝く人になってしまったけれど、彼の持つ「月」の魅力(反対語=太陽)が胸をざわめかせる。
 ヲトメハート全開で恋をしていたい人。

 職人系で好きなのは、トウコちゃん。彼女の「プロ」としての生き方自体に感動し、その高い技術とパッションに、これまた一方的にあこがれている。この人の創るものを見たい、見届けたい、と渇望する。
 ただ、ダーリンとしてはときめかない。わたしは男役を「彼」という三人称で書くが、役名で呼ぶときはともかくとして、トウコちゃん本人には「彼女」の方がしっくりくる。女性として好きなんだと思う。

 ネタ系で好きだったのは、まっつ、だった。
 いじってあそんでいたはずだったのに……どっからこんなことに。
 ネタ系のベクトルが上がりきると、ダーリン系に近くなるのがわたしの萌え構造式らしい。(おかげで、最近は壮くんがヤヴァイかも・笑)
 いちばんのご贔屓はまっつであり、いちばん好きなのも、ときめく……というか、見ていてしあわせになれるのもまっつだ。
 まっつはただ、眺めているだけでうれしくて、幸福感に浸れる。

 じゃあ、春野寿美礼はなんなんだろう。

 いちばんのご贔屓、だったことは一度もないのに、「このひとがいなくなったら、あたしはどうしたらいいんだろう」と、途方に暮れる、この喪失感はなんなんだろう。

 ダーリンとするには距離を置いているし、職人にしてはときめき過ぎている。ネタとして愛でてもいるが、それにはあまりにも尊敬しすぎている。

 恋というより尊敬、尊敬というにはエロスを含みすぎた想い。
 「タカラヅカ」でしかありえなかった、この想い。

 わたしは、「タカラヅカ」の力を信じている。
 フィクションの力、世界平和にも地球の未来にもなにも役に立たない、「娯楽」でしかないものの力を信じている。
 女が男を演じ、わざわざ台詞を歌にしたりダンスにしたりする、効率の悪い、「なんでそんな不自然で無駄なことをする必要あるの? バッカみたい」と言われるこの文化を、愛している。

 ひとのこころを動かすことの出来る、「所詮作り物」の力を信じている。

 フィクション。嘘。ありえないもの。異世界。
 生物活動には空気と水と食料があればそれですむことだけど、社会生活には服と食べ物を得る仕事と住む家さえあればそれですむことだけど。
 生物として在ることにも、人間として社会で生きることにも、不必要だけれど。

 わたしには、「フィクション」が必要だ。

 「こころ」をふるわせるものが必要だ。

 わたしには、「タカラヅカ」が必要だ。

 そして。

 春野寿美礼は、タカラヅカそのものかもしれない。

 わたしにとっての、「異世界」。
 わたしのカリスマ。
 わたしの王。

 わたしを、「ここ」ではない別の世界へ連れて行くことのできる人。

 オギー作品のような位置づけかもしれない。
 オサちゃん自身はオギー役者ではないけれど、それとは別の意味で超越した人。

 「世界」を構築する力。

 わたしがわたしとして生きるために、必要なモノを、創り出すひと。

 だからこんなに、途方に暮れる。

 春野寿美礼を失ったら、わたしはどうすればいいんだろう?

 ただ、途方に暮れる。
 どうすればいいのか、わからない。

 
 ……そして、この事実のうえで、まっつの去就についてもいろいろ思いをめぐらせ、さらにうちひしがれる。
 こわいよ。

 
 世界が、真っ暗だ。
 こわいよ。


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