妄想配役を考えるのは楽しかった。
 大抵の男役スターは豊太郎がハマるし、相沢もハマる。
 しかし。

 エリスができる娘役は、ほとんどいなかった。

 花組公演『舞姫』は、エリス@ののすみあってこそだと思う。

 すみ花ちゃんの巧さは、いったいなんなんだろう。

 天才少女現る! と、シンプルに思う。

 この子をきちんと意識して見たのが『スカウト』のときなもんで。
 や、それまでの子役もうまかったけど、所詮子役だし。文化祭では、芝居は観ていないし。
 ちゃんと大人の女性を演じているのを見たのは、『スカウト』のジェシカ役。

 ドライな価値観を持つ、大人の女。セクシーで自信家。そののちコワレてギャグキャラになる。

 セクシーキャラだったんだってば。

「アタシの色気じゃ不満?」なんつって男の前でポーズを取ってみせる、コケティッシュな大人の女だったんだってば。
 ふつーにうまくて、セクシーだったんだってば。
 女の子が殴られるシーンはわたし大嫌いなんだけど、この子の吹っ飛び方があまりにうまいんで、嫌悪感を持たずに素直に笑えたくらい、ギャグっぷりも突き抜けていた。

 それが次は『MIND TRAVELLER』で等身大のイマドキ女子大生で、『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴』ではいくつもの顔を見せる(なにしろ替え玉)お嬢様に、新公の黒蜥蜴。

 で、トドメがこの聖少女エリス。

 なんなんだ、このすごさ。この巧さ。
 まだ研3? ハタチそこそこ、学生の年齢? あああありえねー。
 ちくしょー、文化祭見たかったなー、準ヒロインやってたはずなのにー。てゆーか、太田哲則作の超絶駄作だったからヒロインも準ヒロもないよーな、つまんない話だったんだけどねー。
 ののすみがやっていたら、あの駄作もマシに見えたのかもしんないじゃん。

 正直、外見は苦しい。
 スタイルいいわけじゃないし、顔大きめだし、なによりそのお顔がタヌキちゃん。とくに初日の化粧はすごかった。「みわっち、助けて! なんとかしてやって!」と心から思った。

 もとが美少女ってわけじゃないのに……。

 「エリス」として舞台にいると、可憐な美少女に見えてくる。

 どこの北島マヤですか。

 『舞姫』のエリスは、難しいキャラだ。
 原作ではウザいのひとこと、女がいちばん嫌うタイプの女。
 それをウザくなく、女性が共感を持つキャラクタに昇華するのは、至難の業。
 景子せんせの脚本がいいのもあるが、それにしたってののすみ、巧すぎ。

 エリスが「夢」そのものに見える。
 儚く美しい。

 白一色の世界に一筋の朱が走るような、静かなあでやかさ。
 静謐ゆえに煌めく雅。

 彼女のかわいらしさといじらしさ、そしてエキセントリックさが棘のように胸に残る。
 刃物の傷のように肌を切り裂きはしないけれど、ちくちくと痛み続ける。

 エリスがあまりにかわいらしく、いじらしいから、豊太郎が彼女をとことんまで愛し、壊れていくことが不思議ではない。説得力になる。

 狂う演技が秀逸なのも、言うまでもなく。

 得難い娘さんだ。大切に育てて欲しい。や、ほんとに。

 
 この儚いキャラで目を奪うエリスとは対照的に、現実的な力強さのある美少女マリィの生命力。

 由舞ちゃんの美しいこと! 他になにか足りないものがあるとしたって、その美しさとまばゆい華だけですべて帳消し!みたいな。
 ののすみとは正反対の女の子。

 一般的に由舞ちゃんというと「大根」の代名詞みたいに言われていたよね。「顔(と胸)はいいけど、大根だから」みたいな。
 たしかに博多『マラケシュ』の棒読みぶりは衝撃的だった。伝説になって語り継がれても仕方ないかもしれん。

 でも、わたしが知る限り、棒読みだったの博多『マラケシュ』だけなんだけどなあ。
 あとは、そりゃうまくはないかもしれんが、許容範囲の演技だったぞ? ホンモノの大根っつーのはりおんちゃんみたいな人のことを言うんじゃないの?(や、りおんちゃんに含みはない。ただ事実として)

 役があり、台詞を喋って演技をしていた『Appartement Cinema』も『MIND TRAVELLER』も、たしかに等身大というか「演技してる? 素のままでやってない?」てなキャラだったことも、たしかだが……。

 今回のマリィ役も、「演技」という上では、どこまでやっているのかはわからない。
 今まで彼女が演じてきた役と、どうチガウのかはわからない。素のまま、いつもやっているキャラのままだと言われれば、その通りかもしれないと思う。

 でも、泣けたんだから、無問題。

 原よっしー@みつるの最期を盛り上げたひとつに、まちがいなくマリィの存在がある。
 気の強い派手な女の子が、恋人のそばに寄ることもできず、ひとりで哀しみに震えている様が泣ける。
 ぽんぽんと言いたいことを言い合い、それぞれの人生に互いがいることがあたりまえのようだった、よっしーとマリィ。
 幸福な時間があざやかだったからこそ、その最期がかなしくて。

 レマルク作『凱旋門』で、死の間際ジョアンは母国語で話しはじめる。それまで話していたであろうフランス語ではなく。死に逝く彼女にはもう、フランス語を話すだけの気力や知力が無くなっていたのだろう。
 そんな彼女に対し、ラヴィックもまた母国語であるドイツ語で話しはじめる。無意識に。
 死を前にして、すべての装飾が消える。
 生まれた国の言葉で、むきだしの魂で、愛を語る。
 相手には伝わらない。相手の言葉もわからない。
 それでも、愛を語り続ける。最期のときに。

 その、ドイツ語で語るラヴィックの愛の言葉が壮絶で。
 魂の痛みに満ちていて。

 帰る場所を持たない異邦人たちが、異国で堕ちた恋の結末。

 ドイツ語がわからなくなり、マリィのこともわからなくなったというよっしーに、わたしはこの『凱旋門』のクライマックスを思い出していた。

 よっしーは、マリィへの愛より望郷の想いの方が、強かったんだなあ。
 原芳次郎は、いろんなことに負けてしまったんだなあ。
 もちろん、負けたからいけないとか悪いとかいうわけではなく。
 ただ、そうなのか、と。

 ドイツ語がわからなくなっても、日本語のままでも、マリィに愛を語ってくれればよかったのにね。

 言葉もわからない、自分のこともわからなくなっている、そんな恋人に、マリィは愛の言葉を告げ続けたんだ。
 自分より日本を恋うてコワレてしまった、つれない恋人に、それでも愛を語り続けたんだ。

 そして、「自分ではダメだ」からと、日本人の豊太郎を呼び、よっしーに残された貴重な時間を豊太郎に譲ったんだ。
 よっしーを、愛しているから。

 最期の最後、よっしーがマリィの名を呼んでくれたのが救い。
 彼にとって「望郷」の次の想いであったとしても、たしかにマリィへの愛はあったのだから。

 繊細な演技ではないと思う。
 マリィは「苦しんでますっ!」てな、とても派手でわっかりやすいことをやっていた。
 でも、それも彼女のキャラクタとしてまちがってはおらず、素直に感情移入できたよ。

 ヌードモデルだと言っても「そりゃそうだろう」という、納得のカラダつき。
 露出度の少ないドレスでは胸が大きく突きだしていて、なんか苦しそうだし、モデルをやっているときの下着?みたいなドレスでは胸の谷間がくっきりだし。
 いやあ、すばらしいですなあ。

 すみ花ちゃんと、由舞ちゃん。
 なにもかも正反対の女の子ふたりが、なにもかも正反対な役を演じていた『舞姫』。

 すみ花ちゃんの演技も、由舞ちゃんの美貌と華も、ともに天賦の才。
 色はまったく違うけれど、大輪の花を咲かせて欲しい。

 

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