タカラヅカは、主役をかっこよく描いてなんぼ。
 主役至上主義。

 なのに。

 『バレンシアの熱い花』は、主役が最悪だ。

 かっこわるい。

 てゆーか、愚かで卑劣ってのは、いくらなんでもヅカの主人公としてアウトだろう。

 主人公フェルナンド。
 レオン将軍の言いなり。自分ではなにもできないし、考えられない。
 個人的感情だけですべてを決める。周囲を見ない。
 悪に対しては、どんな卑劣な行動しても当然。正義の名の下に、なにをしてもヨシ。
 殺人もOK。多人数でひとりをなぶり殺してもOK。だって正義だもん。
 個人的な恨みだけしかなかったのに、「スペインのために」と大言壮語。責任転嫁。
 友人はいない。利害関係でつながった相手ならいる。

 ……この男、どうしよう。

 かっこわるすぎる。主役なのに。
 
 フェルナンドの美点は、「ハンサム」「スタイルがいい」「家柄や育ちがいい」という、本人の人間性とは無関係な、外側のみ。
 そして、きれいな顔で誰より華美な服を着て、まちがった正義をがなりたてる。……その豪華な衣装がさらに、きつい。
 悪代官が金糸銀糸の衣装で着飾っているのと同じに見える。豪華な衣装さえ着ていれば、人間自体が立派だと誤解している人みたいだ。

 人間としてまちがいまくっているのに、彼を「正義」として描く、この物語の世界観がダメ。

 なんでこーなるんだー。

 フェルナンドを「愚かで卑劣」にして、なんの得があるんだ?
 今のままだと、レオン将軍に操られて破滅するだけの道化者にしか見えないぞ?
 そうしないと、この物語って破綻しているよ?
 レオン将軍の操り人形だった、というオチにすれば、フェルナンドが「愚かで卑劣」で自分では有益なことをナニもしていなくても、すべて辻褄が合うけど。

 そうじゃないんでしょ?
 フェルナンドってヒーローなんでしょ?
 だったら、描き方を根本から変えなきゃダメだよ。

 まず、彼の目的が「私怨」でないことをアピールする。
 バレンシアに帰ってきた彼が、圧政にあえいでいる市民を見て怒りを感じる、とかね。

 ルカノールが「悪人」であることを、ちゃんと説明しなきゃ。
 フェルナンド母が「税金高すぎ、民衆が困ってるわ」と言っているだけで、ちっともぴんとこない。だってエル・パティオに集う人々はたのしそーで、陽気に歌い踊るばかりで、ちっとも「圧政に苦しんでいる」よーに見えない。

 次に、レオン将軍とフェルナンドの立場を逆転させる。
 フェルナンドは自分の意志でバレンシアに戻ってきた。わざと遠くの駐屯地に身を置いたのは、ルカノールの目を逃れるためで、そこから苦労して義勇軍を組織し、ルカノールへの反旗を翻す機会が近くなったと判断しての帰郷。
 その仕上げに、退役軍人レオン将軍の力を借りに来た。
 たしかにフェルナンド父はルカノールに暗殺された。しかしそのことは、重要なことではない。
「父よりもルカノールが優れた施政者であるというならば、仕方がないことかもしれない。父の強固な反フランス姿勢ゆえ、バレンシア市民が苦しむことになる、そのために父を力尽くでも排除しなければならなかった、というなら。
 だが、そうではない。ルカノールはただ私欲のために領主の座を欲したのです。現に、父が領主だったときと比べものにならないほど市民たちは苦しんでいる。父の仇を討つという以上に、前施政者の意志を継ぐ者として、ルカノールを倒さなければならないのです」……てな。
 将軍はおどろきつつもフェルナンドの力になることを誓う。

 遊び人ぶるのも、自分の意志で。誰かに命令されて操られるのではない。
 卑しい酒場の踊り子イサベラとの恋の濃度は、また臨機応変に。
 わたしの好みでいけば、ルカノールの目を逃れるために、レオン将軍の孫娘との婚約は破局だな、将軍とのつながりはもうないな、と思わせるためのフェイクとしてイサベラを利用する。……が、本気になる。てのがいいな。

 フェルナンドがロドリーゴに会いに行くのも、自分の意志で。
 レオン将軍に操られるままに会いに行き、「私怨仲間」ってことで手を取り合う、のではない。

 フェルナンドとロドリーゴは、「友人」である。「利害が一致する」から「とりあえず協力」する関係ではない。
 ふたりの友情シーンを入れる。私怨を語る前に。
 そして、フェルナンドは私怨ではなく大義ゆえにルカノールを倒す計画を話す。
 それに対し、ロドリーゴは「私怨」だけで加わることを明確にする。
「バレンシアの未来も、スペインの未来もない。私には、恋がすべてだ」
 そーすることで、「義に生きるフェルナンド」「愛に生きるロドリーゴ」という、ふたつのキャラが確立。でも、ふたりの目的は同じ。
 大切なモノがちがっても、互いを信頼し、尊重し合う男の友情だ。
 
 黒い天使は正直不要なんだけど……。アレ、どう考えてもかっこわるいし。や、30年前ならかっこよかったのかもしれないけど。

 どーしてもやらなきゃなんないなら、もっとダークに真剣にやる。
 今の『バレンシアの熱い花』が気持ち悪いのは、フェルナンドたち黒い天使がやっているのは「殺人」なのに、それをきちんと描かず、お茶を濁していることだ。
 ただチャンチャンバラバラと遊んでいるよーに見える。
 現に、フェルナンドとロドリーゴがラモンを仲間に誘う場面は、コメディタッチだ。
 それまで「父の仇」「女を盗られた」と「私怨」しか口にしていなかったフェルナンドとロドリーゴが、「ラモンを仲間にしなきゃ!」と思った途端手のひらを返して「バレンシアのために!」「スペインのために!」と言い出すことの、薄ら寒さ。
 個人を憎んでの殺人計画なのに、いきなり「正義の聖戦」だよ? 開いた口がふさがらない。
 ラモンの腰が引けるのもとーぜん。
「だって旦那方、個人的な恨みで領主様をやっちまおーって言うんでしょう? 勘弁してくださいよ、善良な一市民を大それた殺人計画に巻き込まないでくださいよ」
 ラモンが正しいのに、さもまちがっているかのような描き方。
 なんの関係もないのに他人の殺人計画に引き込まれる、それを必死に断る、という場面が何故コメディなんだ?
 その軽さがありえない。
 無神経極まりない場面だ。

 かかっているのは、「生命」なんだ。
 黒い天使は、「ルカノールの部下」というだけの人間を、確固たる罪の証拠も裁判もなく、死刑にしていくんだよ? 闇討ちにして殺すんだよ?
 なんで愉快痛快な、軽い描き方をするんだ?
 泣いて命乞いする者もいるかもしれない、亡骸に妻や幼い子どもがすがりついて泣くかもしれない。
 それでも、殺すんだろう?
 それだけの覚悟があっての「黒い天使」なんだろう?

 シリアスに描けばいいのに。
 何故か黒い天使関連は軽快。遊んでいるよーにしか見えない。

 「ルカノールの部下」の亡骸にすがって泣く子どもの横で、剣を胸の前にかざして一礼、己の行動の意味も責任を負う覚悟であることを示して退場、とかでもいいのに。
 「人殺し!」と罵られてなお、毅然とする男、でいいのに。

 なんで闇討ち人殺しが肯定されているんだ、この世界? 正義だからナニをしてもヨシ?
 正義のためだとしても、「殺人」をしている重さは描こうよ。それがフェアってもんでしょうに。

 とっても気楽にたのしそーに「殺人」を繰り返すフェルナンドの軽さがこわい。
 私怨と義憤の混同で、自分を「正義」だと信じ込んだ心の闇がこわい。
 私怨仲間のロドリーゴ、利用できると思うなり手のひらを返して仲間にしようとしたラモン、利害でしか人を計らないゆがみがこわい。

 フェルナンドが、気持ち悪すぎる。

 つーことで、続く〜〜。


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