世界でひとつだけの華。@新人公演『バレンシアの熱い花』
2007年7月17日 タカラヅカ なんやかんやで、よーやく新人公演『バレンシアの熱い花』の話。
すごいよ。
別物でした。
新公を観て、なにより強く感じたのは「大和悠河」という人の特異性だった。
だからまず本公演を、主人公フェルナンドを語らねばならないと思い、なかなか新公の感想までたどりつかなかった。
今までも、タニちゃんの役を新公で演じる子たちは、本公とは「別物」になっていた。唯一同じカラーで演じていたのはちぎだったけれど、カラーが同カテゴリだっつーだけで、タニちゃんとまんま同じであるわけではなかった。
でも、今までタニちゃんの役は主役ではなかったんだよね。だからどんなに別物になっていたって、それほど作品全体に変化はなかった。
ところが。
今回は、主役だ。
主役が別物になると、作品自体が、変わる。
おもしれー。
『バレンシアの熱い花』って、こんな話にもなるのかー。
本公演を見る限り、『バレンシアの熱い花』はレオン将軍@まりえったの手のひらの上で、馬鹿なフェルナンド@タニをはじめ黒い天使たちがきゃーきゃーうるさく踊り、用が済んだら握りつぶされる物語、だった。
そう考える以外に、この壊れた話を救うすべはない。
という、「タカラヅカで見たくないよ、こんなの」という作品だった。
それが新人公演では。
フェルナンドが、ふつーの人だ。
主人公フェルナンドは、脚本通りならただのバカか、あるいは狡猾な卑怯者になる。なにしろ脚本ひでーから。
本公演では、バカだった。
レオン将軍の操り人形。
だがそのバカっぷりが他を超越していたので、キラキラキラキラ輝いていたので、細かいことを考えるのはやめよう。よくわかんねーけど、フェルナンドはそーゆーもんなんだ、で、納得した。
脚本やキャラクタのひどさを、その美貌と輝きで目くらまししていた。
感じられるのは、ひたすらな「別次元」感。
主役だから、仕方ない。
辻褄の合わないことも、バカにしか見えないことも、全部全部「仕方ない」「これもアリ」と思わせる。
フェルナンドはふつーの人ではない。そんな次元にいない。だから、なにも言うな。彼の言動がわけわかんなくても、誰を愛しているのか、なにをしたいのかわからなくても、問うな、つっこむな、悪いのは脚本と演出、その破綻ぶりを主演者が取り繕う故はない。
「別次元」感で、作品のアラに口を出させない……本公演のフェルナンドは、「スター性」だけでできあがった「特別」な人だった。
ところが、新人公演では。
フェルナンドは特別でも別次元でもなんでもない、「ふつー」の人。
彼の性格も心の動きも常識の範囲内で、見ていてふつーに想像できる。
で。
このひどい脚本とキャラクタを、「別物」感というフィルタなしで「ふつー」の感覚で演じてしまうとだな。
狡猾な卑怯者になるんだな(笑)。
バカだからどんなに不誠実な言動をとっても「バカだもんね」で済むところが、そこに知性を感じてしまうと「わかっていて不誠実な言動を取る」=「卑劣」に思える。
顕著なのが、黒い天使であることをイサベラに看破される場面。
それまで「ヒロイン」としての紹介もなく、ただの「酒場女」としてしか描かれていないイサベラが、主人公フェルナンドの前に登場、カマをかけて彼の秘密を握る。そのあとで彼に愛を告げるという、脅しともとれる素晴らしい流れ。彼女を「ヒロイン」だと知らなかったら、ただの悪役登場になるぞっと。
なのにフェルナンドは突然イサベラに「愛している」と言いだし、そのくせ「でもボクには婚約者がいる。結婚は婚約者とするけどね」と二股宣言。
「愛している」「愛している」と美しいデュエットダンスへ。えええ、いつそんな精神状態になっていたの? それまでのエピソードもなにもなし?
本公では展開自体についてゆけず、「まあ、そんなこともアリなのかな」程度だった場面が、新公では「秘密を知られた、それならこの女を口説いておこう」という、流れとして納得できる展開になっていた。
なるほど、「ただの酒場女」に秘密を知られたから、自分の女にして口を封じるのか。
そのあと彼女をほんとうに愛してしまうか、利用するだけで終わるかは、男と女の問題だ。
フェルナンドに、「ふつー」に知性がある。意志がある。
それが、新公の大きなちがいだ。
それゆえにキャラクタのひどさや、作品のひどさも浮き彫り。
新公のレオン将軍は、黒幕には見えなかった。フェルナンドが自分で動いているように見えた。
だからこそ、彼自身がひでー男に見える。
そして新公フェルナンドには、熱がある。
卑劣な言動も、その熱ゆえに「アリかな」と思わせる。
自分を正義だと信じてテロに走る過激派的熱さ。や、だってフェルナンドってテロリストだし。暴力で世の中を変えようとするわけだし。
考え方は青いけれど、過激派学生って感じだけど、でもいちおー大人の男が自分の意志で行動している。
彼が正しいかどうかは置くとして。
フェルナンドがチガウと、作品自体別物。
すごい。
コレを目の当たりにして、思うわけだよ。「大和悠河」という人の特異性について。
『バレンシアの熱い花』はタカラヅカ的に正しくない物語だ。
主人公がバカか卑劣か、どちらかになってしまう脚本なんて、タカラヅカで上演する意味がわからない。そのくせ、主人公を「正義」「かっこいい」と考えている世界観のゆがみが気持ち悪い。
こんな歪んだ物語を与えられ、「タカラヅカらしくカタチにしろ」と言われたら、アプローチは限られてしまう。
多くのトップスターがやるように、「トップとしての力業」で観客を煙に巻く方法。
新公フェルナンド役のみーちゃんは、真正直にこの方法でチャレンジしていた。多少の脚本のアラなんぞ、熱意をもって丁寧に演じればなんとかなる、新公ゆえ1回きりゆえの火事場の馬鹿力。……足りていたかどうかはともかく。
だがタニちゃんは、はじめからちがっていた。
タニちゃんがタニちゃんであること。その美貌と華、「トップスター」という「役割」だけで、輝きだけで勝負。
『バレンシアの熱い花』がアレな作品だからこそ、主演者のちがいで、タニちゃんの特異性がさらに明らかになった。
フェルナンドって、ふつーの人が演じるとふつーになるんだ……。
でも、ふつーに演じちゃうと、なんかあちあち卑怯で大変なことになってますけど……。や、そーゆー役だから、それでいいんだけど。
もちろん、目的のために卑劣な男が物語的に「魅力がない」わけではないので、利用するためだけに酒場女を抱く男でも、魅力的ならソレでいいんだよ。ふつーの人が役作りで目指すなら、こっちの方でしょ。
おもしろいなー、もー。
フェルナンド別人、作品別物。
どっちが正しいとか、正しくないとかゆー話ではなくて。
タニちゃんの役は、だれにもコピーできない。
タニちゃんには、誰もなれない。
それは、タニちゃんの、タニちゃんだけが持つ、ものすげー武器だ。
みーちゃんはいい感じに別人だった。
これから先、タニちゃんの役を演じる下級生たち、どうか「タニちゃんのコピー」を目指さず、彼の特異性を理解した上で独自の道を探って欲しい。
誰にも似ていない、誰にも真似できない個性、を持つ、唯一無二のスターが、トップスターにいる組。
宙組下級生たちが、そんなスターを見てどう成長していくのか、たのしみでならない。
すごいよ。
別物でした。
新公を観て、なにより強く感じたのは「大和悠河」という人の特異性だった。
だからまず本公演を、主人公フェルナンドを語らねばならないと思い、なかなか新公の感想までたどりつかなかった。
今までも、タニちゃんの役を新公で演じる子たちは、本公とは「別物」になっていた。唯一同じカラーで演じていたのはちぎだったけれど、カラーが同カテゴリだっつーだけで、タニちゃんとまんま同じであるわけではなかった。
でも、今までタニちゃんの役は主役ではなかったんだよね。だからどんなに別物になっていたって、それほど作品全体に変化はなかった。
ところが。
今回は、主役だ。
主役が別物になると、作品自体が、変わる。
おもしれー。
『バレンシアの熱い花』って、こんな話にもなるのかー。
本公演を見る限り、『バレンシアの熱い花』はレオン将軍@まりえったの手のひらの上で、馬鹿なフェルナンド@タニをはじめ黒い天使たちがきゃーきゃーうるさく踊り、用が済んだら握りつぶされる物語、だった。
そう考える以外に、この壊れた話を救うすべはない。
という、「タカラヅカで見たくないよ、こんなの」という作品だった。
それが新人公演では。
フェルナンドが、ふつーの人だ。
主人公フェルナンドは、脚本通りならただのバカか、あるいは狡猾な卑怯者になる。なにしろ脚本ひでーから。
本公演では、バカだった。
レオン将軍の操り人形。
だがそのバカっぷりが他を超越していたので、キラキラキラキラ輝いていたので、細かいことを考えるのはやめよう。よくわかんねーけど、フェルナンドはそーゆーもんなんだ、で、納得した。
脚本やキャラクタのひどさを、その美貌と輝きで目くらまししていた。
感じられるのは、ひたすらな「別次元」感。
主役だから、仕方ない。
辻褄の合わないことも、バカにしか見えないことも、全部全部「仕方ない」「これもアリ」と思わせる。
フェルナンドはふつーの人ではない。そんな次元にいない。だから、なにも言うな。彼の言動がわけわかんなくても、誰を愛しているのか、なにをしたいのかわからなくても、問うな、つっこむな、悪いのは脚本と演出、その破綻ぶりを主演者が取り繕う故はない。
「別次元」感で、作品のアラに口を出させない……本公演のフェルナンドは、「スター性」だけでできあがった「特別」な人だった。
ところが、新人公演では。
フェルナンドは特別でも別次元でもなんでもない、「ふつー」の人。
彼の性格も心の動きも常識の範囲内で、見ていてふつーに想像できる。
で。
このひどい脚本とキャラクタを、「別物」感というフィルタなしで「ふつー」の感覚で演じてしまうとだな。
狡猾な卑怯者になるんだな(笑)。
バカだからどんなに不誠実な言動をとっても「バカだもんね」で済むところが、そこに知性を感じてしまうと「わかっていて不誠実な言動を取る」=「卑劣」に思える。
顕著なのが、黒い天使であることをイサベラに看破される場面。
それまで「ヒロイン」としての紹介もなく、ただの「酒場女」としてしか描かれていないイサベラが、主人公フェルナンドの前に登場、カマをかけて彼の秘密を握る。そのあとで彼に愛を告げるという、脅しともとれる素晴らしい流れ。彼女を「ヒロイン」だと知らなかったら、ただの悪役登場になるぞっと。
なのにフェルナンドは突然イサベラに「愛している」と言いだし、そのくせ「でもボクには婚約者がいる。結婚は婚約者とするけどね」と二股宣言。
「愛している」「愛している」と美しいデュエットダンスへ。えええ、いつそんな精神状態になっていたの? それまでのエピソードもなにもなし?
本公では展開自体についてゆけず、「まあ、そんなこともアリなのかな」程度だった場面が、新公では「秘密を知られた、それならこの女を口説いておこう」という、流れとして納得できる展開になっていた。
なるほど、「ただの酒場女」に秘密を知られたから、自分の女にして口を封じるのか。
そのあと彼女をほんとうに愛してしまうか、利用するだけで終わるかは、男と女の問題だ。
フェルナンドに、「ふつー」に知性がある。意志がある。
それが、新公の大きなちがいだ。
それゆえにキャラクタのひどさや、作品のひどさも浮き彫り。
新公のレオン将軍は、黒幕には見えなかった。フェルナンドが自分で動いているように見えた。
だからこそ、彼自身がひでー男に見える。
そして新公フェルナンドには、熱がある。
卑劣な言動も、その熱ゆえに「アリかな」と思わせる。
自分を正義だと信じてテロに走る過激派的熱さ。や、だってフェルナンドってテロリストだし。暴力で世の中を変えようとするわけだし。
考え方は青いけれど、過激派学生って感じだけど、でもいちおー大人の男が自分の意志で行動している。
彼が正しいかどうかは置くとして。
フェルナンドがチガウと、作品自体別物。
すごい。
コレを目の当たりにして、思うわけだよ。「大和悠河」という人の特異性について。
『バレンシアの熱い花』はタカラヅカ的に正しくない物語だ。
主人公がバカか卑劣か、どちらかになってしまう脚本なんて、タカラヅカで上演する意味がわからない。そのくせ、主人公を「正義」「かっこいい」と考えている世界観のゆがみが気持ち悪い。
こんな歪んだ物語を与えられ、「タカラヅカらしくカタチにしろ」と言われたら、アプローチは限られてしまう。
多くのトップスターがやるように、「トップとしての力業」で観客を煙に巻く方法。
新公フェルナンド役のみーちゃんは、真正直にこの方法でチャレンジしていた。多少の脚本のアラなんぞ、熱意をもって丁寧に演じればなんとかなる、新公ゆえ1回きりゆえの火事場の馬鹿力。……足りていたかどうかはともかく。
だがタニちゃんは、はじめからちがっていた。
タニちゃんがタニちゃんであること。その美貌と華、「トップスター」という「役割」だけで、輝きだけで勝負。
『バレンシアの熱い花』がアレな作品だからこそ、主演者のちがいで、タニちゃんの特異性がさらに明らかになった。
フェルナンドって、ふつーの人が演じるとふつーになるんだ……。
でも、ふつーに演じちゃうと、なんかあちあち卑怯で大変なことになってますけど……。や、そーゆー役だから、それでいいんだけど。
もちろん、目的のために卑劣な男が物語的に「魅力がない」わけではないので、利用するためだけに酒場女を抱く男でも、魅力的ならソレでいいんだよ。ふつーの人が役作りで目指すなら、こっちの方でしょ。
おもしろいなー、もー。
フェルナンド別人、作品別物。
どっちが正しいとか、正しくないとかゆー話ではなくて。
タニちゃんの役は、だれにもコピーできない。
タニちゃんには、誰もなれない。
それは、タニちゃんの、タニちゃんだけが持つ、ものすげー武器だ。
みーちゃんはいい感じに別人だった。
これから先、タニちゃんの役を演じる下級生たち、どうか「タニちゃんのコピー」を目指さず、彼の特異性を理解した上で独自の道を探って欲しい。
誰にも似ていない、誰にも真似できない個性、を持つ、唯一無二のスターが、トップスターにいる組。
宙組下級生たちが、そんなスターを見てどう成長していくのか、たのしみでならない。
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