ハブとマングース。@エリザベート
2007年8月14日 タカラヅカ 再演雪組『エリザベート』が、正しいのかどうか、成功なのかどうか、わからない。
過去の『エリザベート』と比べ、なんともいびつであり、どーも別方向へ行ってしまっている気がするからだ。
これは演出家の意図なのか。それとも、意図したのは別なところにあったのに、結果的にこうなってしまったのか。
トート@水の異生物感などは、演出家の意図だろうなと思うんだけど。ムラ初日のやりすぎぶりと、一旦おとなしくなってまたそっち方向へ戻りだしたことを見ても。
ただ、意図だとしても、小池の脳内イメージが正しく表現されているのかどうかはわからん、って感じだ。
よくも悪くも、収まりが悪すぎて。
さて、今回の『エリザベート』でわからなかった第一人者は、なんといってもエリザベート@となみだ。
これほど感情移入できないシシィははじめて。
ビジュアルは申し分ないし、わたしはとなみちゃん自身ダイスキだし、もっともっと彼女に入れ込んで感動しそうなもんなのに……あれえ?
役者への好意とかはまったく関係なく、ただ、彼女の演じる「エリザベート」が、わたしにはどうもダメだった模様。
なにがどう、じゃないんだなこれが。
どこがダメなの? どこがチガウの?
べつにとなみシシィ、ふつーにやるべきこと全部やってるじゃん?
明確に上げられるわけではなく。
ただ彼女は「チガウ」。彼女は「届かない」。
わたし的に。
てな感じだったんだが。
東宝千秋楽。
ありえねーくらいの良席で、わたしが思わずオペラグラスを使ったのは、となみシシィの「私だけに」だ。
さすがにこの席だと、オペラを使うのがかえってもったいなくて。視界を切り取ることなく作品全体を味わっていたのに。
はじめて、「私だけに」でオペラ使った。
そうせざるを得なかった。
なにかに、突き動かされた。
「嫌よ、おとなしいお后なんて」
ムラで見たときも、否定を歌うときのシシィがもっとも輝いて見えた。
ムラのときから、「ナニか」があった場面だった。
しかし。
1ヶ月ぶりに再会したシシィは、わたしの理解なんか関係ないところへ力尽くで羽ばたいていた。
ナニか出てるよ、この人!
「嫌よ、おとなしいお后なんて」と歌うとなみシシィから、なにか出ていた。目を奪うナニか。広いはずの舞台が、狭く感じられる。テレビや映画で、ヒロインの顔がぐーんとアップになる、あの感じ。
最初に言った通り、結局のところわたしは今回の『エリザベート』がわからないし、そのわからない筆頭がとなみシシィであることは変わらないのだけれど。
それでも、納得するしかなかった。
彼女が、主役であること。
これが彼女の物語であり、理屈とか批評とか先入観とか、そんなものは全部、「まず彼女が在ること」のあとに付いてくるもの、ただの付属物でしかないのだということ。
彼女が、正しい。
これがもう、前提であり、絶対条件なんだ。
それだけのオーラをまとっていた。
そしてわたしは、彼女にひれ伏した。皇帝フランツがそうであるように、ハンガリー市民がそうであるように。ただ、皇后エリザベートのもとに、膝を折った。
彼女がどう考え、なにを感じ、なにをしたいのか欲しいのか、わからなくても、ただひざまずいた。
それが、相応しいことだからだ。
「私だけに」の熱唱を皮切りに、となみシシィは「ナニか」を放出しつづけた。
場面によって濃度は変わるけれど、トートと対峙するときに、閃光が増した。
居室で、「私が踊る時」で、運動の間で。
彼女がより強く輝くとき、それはかならずトートと向き合っていた。戦っていた。
彼女の生命が煌めくのは、「もうひとりの彼女」である、トートと対峙するとき。
誰だって、いちばんキツイのは「自分」を客観的に見せられるときではないだろうか。
フィルターをとっぱらったうえで、ありのままの「自分」を突きつけられる……それは絶望であり、そこで心を折らないためには、戦うしかない。
意志の力で運命と、世界と、ありとあらゆるものと戦おうとする生命が、もっとも輝くのはアリだろう。
彼女が彼女であるために高速で回転し、それゆえに彼女と接触している「世界」との間に、摩擦による熱と光が発せられる。
となみシシィの「輝き」は、必然であるのだろう。
シシィとトートが「運命の相手」であることに、納得する。
似ているとか同種だからとか、理由は挙げられるにしろ。
ここまで、対峙することで熱と光を発する相手を、「運命の相手」とせずに、なんとする。
シシィの見せ場である「鏡の間」は、たしかに美しいし威厳に満ちているのだけど、「ナニか出てる」とうろたえることはなかった。
何故なら「鏡の間」のエリザベートは、トートと対峙していない。トートがいることに気づいていない。あるいは必要としていない。
だから発光する必要がないんだな。
いつもいつも、真正面から向き合い、威嚇し合うハブとマングースみたいだった、ふたり。
全身全霊を上げて、戦う。存在意義を懸けて、戦う。
「運命の相手」、いや、「天敵」と呼んでもまちがいではないのかもしれない。
愛し合う恋人同士を表現する言葉ではないが、「天敵」がいなければ、生態系が狂い、地球は傾くのだ。
だから、「運命の相手」。
戦闘態勢後(冥界での出会いと「最後のダンス」では、シシィはまだトートを敵と認識していない)、トートと対峙していながら唯一牙を向き合わないのが、ルドルフの葬儀場面。
丸顔マングースは戦う意志を失い、緑色のハブにその身を投げ出した。
そこから、ふたりの関係は変わる。
このエリザベート@となみという「現象」には、トート@水という「現象」しかないと思った。
世界最後の恋人同士であり、共に旅立っていくのが必然であると思えた。
や、ふつーの恋愛からは、ほど遠い男と女だけどな。
だけど、彼らは「運命の相手」。
誰も割り込むことは出来ない。
これほどまでに、トートとエリザベートが戦い続けている『エリザベート』を観たのははじめてだ。
甘さはないわ、ある意味夢もないわで、とまどったり置いてけぼりになったりと、とてもにぎやかだったけれど、最後の最後に力業で持って行かれた。
納得するしかなかった。
彼女が、主役であること。
彼女が、正しい。
これがもう、前提であり、絶対条件なんだ。
いやあ、おもしろいものを観た。
「ナニか」出てる!! という、あの感覚。そうそう味わえるもんじゃない(笑)。
そしてわたしは、のだめマングースと緑のヘビが戦うイメージにアタマを抱え、さらに。
「♪私とアナタは裏オモテ♪」
と、ハモりながら歌うとなみシシィと水トート(双方ドレス姿)のイメージがぐるぐる回って、途方に暮れております。
水とな万歳。
過去の『エリザベート』と比べ、なんともいびつであり、どーも別方向へ行ってしまっている気がするからだ。
これは演出家の意図なのか。それとも、意図したのは別なところにあったのに、結果的にこうなってしまったのか。
トート@水の異生物感などは、演出家の意図だろうなと思うんだけど。ムラ初日のやりすぎぶりと、一旦おとなしくなってまたそっち方向へ戻りだしたことを見ても。
ただ、意図だとしても、小池の脳内イメージが正しく表現されているのかどうかはわからん、って感じだ。
よくも悪くも、収まりが悪すぎて。
さて、今回の『エリザベート』でわからなかった第一人者は、なんといってもエリザベート@となみだ。
これほど感情移入できないシシィははじめて。
ビジュアルは申し分ないし、わたしはとなみちゃん自身ダイスキだし、もっともっと彼女に入れ込んで感動しそうなもんなのに……あれえ?
役者への好意とかはまったく関係なく、ただ、彼女の演じる「エリザベート」が、わたしにはどうもダメだった模様。
なにがどう、じゃないんだなこれが。
どこがダメなの? どこがチガウの?
べつにとなみシシィ、ふつーにやるべきこと全部やってるじゃん?
明確に上げられるわけではなく。
ただ彼女は「チガウ」。彼女は「届かない」。
わたし的に。
てな感じだったんだが。
東宝千秋楽。
ありえねーくらいの良席で、わたしが思わずオペラグラスを使ったのは、となみシシィの「私だけに」だ。
さすがにこの席だと、オペラを使うのがかえってもったいなくて。視界を切り取ることなく作品全体を味わっていたのに。
はじめて、「私だけに」でオペラ使った。
そうせざるを得なかった。
なにかに、突き動かされた。
「嫌よ、おとなしいお后なんて」
ムラで見たときも、否定を歌うときのシシィがもっとも輝いて見えた。
ムラのときから、「ナニか」があった場面だった。
しかし。
1ヶ月ぶりに再会したシシィは、わたしの理解なんか関係ないところへ力尽くで羽ばたいていた。
ナニか出てるよ、この人!
「嫌よ、おとなしいお后なんて」と歌うとなみシシィから、なにか出ていた。目を奪うナニか。広いはずの舞台が、狭く感じられる。テレビや映画で、ヒロインの顔がぐーんとアップになる、あの感じ。
最初に言った通り、結局のところわたしは今回の『エリザベート』がわからないし、そのわからない筆頭がとなみシシィであることは変わらないのだけれど。
それでも、納得するしかなかった。
彼女が、主役であること。
これが彼女の物語であり、理屈とか批評とか先入観とか、そんなものは全部、「まず彼女が在ること」のあとに付いてくるもの、ただの付属物でしかないのだということ。
彼女が、正しい。
これがもう、前提であり、絶対条件なんだ。
それだけのオーラをまとっていた。
そしてわたしは、彼女にひれ伏した。皇帝フランツがそうであるように、ハンガリー市民がそうであるように。ただ、皇后エリザベートのもとに、膝を折った。
彼女がどう考え、なにを感じ、なにをしたいのか欲しいのか、わからなくても、ただひざまずいた。
それが、相応しいことだからだ。
「私だけに」の熱唱を皮切りに、となみシシィは「ナニか」を放出しつづけた。
場面によって濃度は変わるけれど、トートと対峙するときに、閃光が増した。
居室で、「私が踊る時」で、運動の間で。
彼女がより強く輝くとき、それはかならずトートと向き合っていた。戦っていた。
彼女の生命が煌めくのは、「もうひとりの彼女」である、トートと対峙するとき。
誰だって、いちばんキツイのは「自分」を客観的に見せられるときではないだろうか。
フィルターをとっぱらったうえで、ありのままの「自分」を突きつけられる……それは絶望であり、そこで心を折らないためには、戦うしかない。
意志の力で運命と、世界と、ありとあらゆるものと戦おうとする生命が、もっとも輝くのはアリだろう。
彼女が彼女であるために高速で回転し、それゆえに彼女と接触している「世界」との間に、摩擦による熱と光が発せられる。
となみシシィの「輝き」は、必然であるのだろう。
シシィとトートが「運命の相手」であることに、納得する。
似ているとか同種だからとか、理由は挙げられるにしろ。
ここまで、対峙することで熱と光を発する相手を、「運命の相手」とせずに、なんとする。
シシィの見せ場である「鏡の間」は、たしかに美しいし威厳に満ちているのだけど、「ナニか出てる」とうろたえることはなかった。
何故なら「鏡の間」のエリザベートは、トートと対峙していない。トートがいることに気づいていない。あるいは必要としていない。
だから発光する必要がないんだな。
いつもいつも、真正面から向き合い、威嚇し合うハブとマングースみたいだった、ふたり。
全身全霊を上げて、戦う。存在意義を懸けて、戦う。
「運命の相手」、いや、「天敵」と呼んでもまちがいではないのかもしれない。
愛し合う恋人同士を表現する言葉ではないが、「天敵」がいなければ、生態系が狂い、地球は傾くのだ。
だから、「運命の相手」。
戦闘態勢後(冥界での出会いと「最後のダンス」では、シシィはまだトートを敵と認識していない)、トートと対峙していながら唯一牙を向き合わないのが、ルドルフの葬儀場面。
丸顔マングースは戦う意志を失い、緑色のハブにその身を投げ出した。
そこから、ふたりの関係は変わる。
このエリザベート@となみという「現象」には、トート@水という「現象」しかないと思った。
世界最後の恋人同士であり、共に旅立っていくのが必然であると思えた。
や、ふつーの恋愛からは、ほど遠い男と女だけどな。
だけど、彼らは「運命の相手」。
誰も割り込むことは出来ない。
これほどまでに、トートとエリザベートが戦い続けている『エリザベート』を観たのははじめてだ。
甘さはないわ、ある意味夢もないわで、とまどったり置いてけぼりになったりと、とてもにぎやかだったけれど、最後の最後に力業で持って行かれた。
納得するしかなかった。
彼女が、主役であること。
彼女が、正しい。
これがもう、前提であり、絶対条件なんだ。
いやあ、おもしろいものを観た。
「ナニか」出てる!! という、あの感覚。そうそう味わえるもんじゃない(笑)。
そしてわたしは、のだめマングースと緑のヘビが戦うイメージにアタマを抱え、さらに。
「♪私とアナタは裏オモテ♪」
と、ハモりながら歌うとなみシシィと水トート(双方ドレス姿)のイメージがぐるぐる回って、途方に暮れております。
水とな万歳。
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