劇団は轟悠に、どこまで求めるのだろう。

 日生劇場公演『Kean(キーン)』
 じつに興味深い作品なのだが、「コレをタカラヅカで上演する意味はあるのか?」という疑問が終始消えなかった。

 シェークスピア役者の物語で、観客に基礎知識を必要とする、ということも疑問のひとつではあるが、わたし的にはソレはどーってことない。
 だってわたしはシェークスピアなんかなんにも知らない知力の低いイキモノだが、物語を理解する、たのしむうえで、それは特別マイナスにはならなかった。わけわかんない台詞や比喩も、「そんなもん」だと思って流していて問題ないし。「ATフィールドってナニ?」「で、人類補完計画ってナニよ?」とかゆーレベルでも、テレビ本放送当時ふつーに『エヴァンゲリオン』をたのしめたよーなもんだ。些末なことがわからなくても、大局を理解するのには関係ないと思う。

 ……もっとも、主役の台詞が聞き取れない場合は、なにひとつわかんなくても仕方ないが。(トド様、滑舌最悪だからなー)
 わたしは慣れなのか愛(笑)なのか、トドの台詞は集中すれば聞き取れるのでそこは問題ない。

 ま、滑舌の問題は置くとして。今は作品の話。

 シェイクスピア云々というよりも、この作品のテーマと表現方法(ストーリー)が、タカラヅカ的ではないということこそが、引っかかる。

 役者キーンの苦悩と狂気なんてもん、何故ヅカで描く必要がある?
 恋愛も歌もダンスも、おまけ的なもので、本質とは関係ない。

 たとえば下品な石田昌也作品を「タカラヅカ的ではない」というのとは、別の意味だ。
 前へ、と能動的に進む男視点の物語は、女性からすると女性蔑視・女なんてただの道具としか認識していないため、不快である。
 だが勧善懲悪であったりサクセスストーリーであったり、男視点ゆえの大味で単純な「ヒーローを描く」という意味でタカラヅカにまったくそぐわないワケじゃない。
 タカラヅカは「少年ジャンプ」的、ヒーローがかっこよければソレでヨシな面が多分にある。

 だが『Kean』は、ひとりの人間の「内側」の物語だ。勧善懲悪でもサクセスストーリーでもなく、壊れていく男の、ギリギリの闘いが描かれる。
 前へも進まない、上にものぼらない。
 ただ中へ、中へ……内側へ浸食していく物語。

 そんなもん、ヅカで上演してどーするんだ。

 誰も求めてないじゃん。
 そんな、あきらかにカテゴリエラーな作品を与えられ。

 轟悠が、えらいことになっていた。

 劇団は、トドロキにナニを求めているんだ?

 
 タカラヅカは、特殊な世界だ。
 いくつものお約束に守られ、長い年月を掛けて研ぎ澄まされてきた「型」を継承することで、独特の世界を形作る。
 閉じられた世界、その箱庭の中だけで成立する「ファンタジー」だ。

 それがいい悪いは関係ない。前提だからだ。
 タカラヅカは、タカラヅカだけが持つ魅力がある。箱庭から出る必要はないし、ファンタジーを壊す必要もない。
 なのに。
 トドロキに与えられたキーンという役は、タカラヅカの方程式では解けないものだ。
 タカラヅカのお約束では表現しきれない、そもそも表現する必要のないものだ。

 たとえば、「雨」が一切降らない世界には、「雨」という、そのものをさす単語はないだろう。存在しないものを表す言葉は必要ないからだ。
 もし雨が降ったとしても、それはただの「空から落ちる水」というような表現になる。ソレに近い言葉をつなげて表現する。

 トドロキが『Kean』でやっていることは、そーゆーことだ。

 キーン役は、ヅカの世界には存在しない概念だ。
 外の演劇界他、マンガやアニメ、文学だの映画だのには存在するかもしれないが、とりあえずヅカにはない。そもそも必要ないから、存在しない。
 その、存在しないものを、タカラヅカの世界にある他のもので表現しようとしている。

 えらいこっちゃ。

 この特殊な世界で、主演役者(に、なる前のひよっこ時代も、そうなるための道を歩いていたわけだから、含める)として20年以上生きてきた轟悠という人は、ある意味この特殊な世界を代表する人だ。
 歌・芝居・ダンス等、個々の実力をどう評価するかは個人の自由だが、「タカラヅカというファンタジーを形成する」という面において、トドの能力は高いだろう。
 職人の手が、工具を握るために堅く変形するかのごとく、長い年月をかけて「タカラヅカの男役」という遡源にたどり着いた人。
 彼が持つ「タカラヅカ」という力。
 箱庭の中で、お約束の中で、「ファンタジー」を織る力。
 その「タカラヅカ」力を駆使して。タカラヅカに存在しないものを、表現しようとしている。

 「雨」の存在しない世界で。突然降ってきた「雨」を、どう表現する?
 そーゆー「あり得ない状態」になっていた。

 
 だからわからない。
 劇団が、トドロキにナニをさせたいのか。

 新しい可能性を探っているんだろうか?
 「雨」が存在しないのは必要ないからなのに、わざわざないものを表現させて、ナニがしたいんだろう。

 わかったことは、劇団が、どれほど轟悠を評価しているかだ。

 たとえば『花供養』で、ヅカの世界観の究極の位置にあるものを、トドに演じさせた。究極過ぎて、現代のファンは誰も求めてなかったけど、まぁそれはともかく。
 「型」を伝えること、極めることで1世紀近く続いてきた文化の、集大成をトドに演じさせたのは、まちがいなく信頼の証だろう。

 そして今、タカラヅカを極めた男が、タカラヅカにないものを、タカラヅカで培った技術を武器に、勝負をさせられている。

 どんだけ期待されてるんだ。すげぇなヲイ。
 

 トドは基本舞台に変化のない人で、初日から完成に近いものを出してくる。
 完成度が高いわけだからいいっちゃいいんだが、いつ見ても同じ、面白みのない人でもある。
 だから、初日が開いてすぐ、1回しか観られないし、花組との兼ね合いがあるからさっさと観に行っちゃおう!なスケジュールで観劇してしまえるわけだ。
 そーやって、作品の善し悪しに不安はあっても、トド個人の出来映えにはなんの危惧もなく劇場に駆けつけて。

 悪戦苦闘しているトドロキに、驚いた。

 え、えーと?
 あの轟悠が、苦戦している?
 いつも及第点を面白味なく作り上げてくる、あのトド様が?

 もちろん、このカテゴリエラーな難作を、トドは力尽くで支えていた。
 引っ張っていた。
 だが、チガウんだ。いつものトドぢゃない。

 ヲイヲイ、すげえことになってんな。

 ギリギリの、轟悠。
 今まさに、舞台の上で苦悩している轟悠。

 この人は、どこへ行くんだろう。

 キーンが持つ狂気。
 トドロキはそれに近づき、それを乗りこなすべく闘っている。

 でもトドロキさん。ヘタをすると、ソレはパンドラの箱だよ。
 開けてはならない箱だよ。
 アナタはソレを開ける力を持っているかもしれない。でも、開けてしまったら……どうなるの?

 ここは「タカラヅカ」だ。箱庭だ。パンドラの箱は、開けてはならない。

 劇団はわかったうえで、トドロキを闘わせているのか?

 
 昼公演を観て、サバキでいいのがあったら夜公演も観ようかと思っていたんだけど。
 サバキ、1枚も出てねぇ。
 あきらめて、1回限りの観劇で帰路についた。
 や、当日券があるのは知ってるよ。でも、後方席で観たいわけじゃない。

 それより、後半日程でもう一度観てみたいと思った。

 轟悠がどこへ行くのかが、知りたい。

 初日も楽もみーんな同じのトド様に対し、はじめて持った感想だ。

 だってほんとコレ。
 すごいものかもしれないよ? ……カテゴリエラーだから、求められていないけど。や、だからこそ、今見逃すと、ヅカの歴史では二度とこんな試みはされないかもしれないよ?

 金がないから、もう観られないと思うけどな……ううう。びんぼーのバカーっ。


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