思春期ですから。@新人公演『アデュー・マルセイユ』
2007年10月17日 タカラヅカ そもそもこの「作品」が「良かった」部分ってのは、「春野寿美礼退団作品」であることにこだわって作られていることのみだ。
「オサに似合うのは孤独。オサにせつなげに孤独を歌わせよう」→なんで「孤独」なのかはあとから考えよう。辻褄? オサが孤独ならそれでいいじゃん。
「オサにヅカならではのラブシーンをさせよう。『忘れ物』だよ、どーだ、うれしいだろ」→恋愛部分ろくに描いてなくても、トップとヒロインは恋愛するっていう前提で観劇してるんだから、無問題。辻褄? オサがラブシーンやってりゃそれでいいじゃん。
「同時退団じゃないから、ヒロインとは別れる、彼女の未来を見守るようにする。ついでに、残されるファンへのメッセージを込める」→現実の状況を入れることが先決。客はストーリーより「贔屓退団」という自分の都合に酔いに来てるんだから。辻褄? 自分=ヒロインと思える一場面がありゃそれでいいじゃん。
「最後は『アデュー』って言わせよう」→退団の最後の台詞なんだから、ストーリー考える前から決定済み。辻褄? オサが「アデュー」って言うならそれでいいじゃん。
こーゆー理由で作られているから、この作品から「オサ退団」というパーツをのぞくと、ただの壊れた駄作になる。
や、「退団作品」というフィルターがあるから、「ファンのために」作られた部分は「良い」と評価されることになるんだけどね。
新人公演『アデュー・マルセイユ』は、「オサ退団」というパーツがないので、ただの壊れた駄作、ソレを技術と経験の足りない若者たちでどう料理するか、という、いつものタカラヅカらしい課題を与えられていた。
新公を観ると、作品のアラがより鮮明になり、「このひでー話を、なんとか盛り上げていたのは本役さんたちの力だったんだな」と思わせることになるのは、いつものこと。
にしても今回は、「退団」となんの関係もなかったら、そして主役が別人だったら、どーしよーもない話になっていた。
「見せ場」としてのアテ書きをされているわけだから、そもそもジェラールという役は、オサ以外が演じても意味がないんだよなあ……。キャラ設定もストーリーも破綻してるんだもん……。「孤独と秘密」で「アデュー」と言わせたいためだけに作られたキャラだもん……。
その、どーしよーもない脚本と役を与えられ、まぁくんが奮闘していた。
が、別人でした。
あの人、ジェラールぢゃないです(笑)。
歌はがんばっていた。
まぁくん比ですごくうまくなっていたし、努力したこと、丁寧に向き合っていることがわかって好感。
でも、キャラ的にぜんぜんチガウ(笑)。演じているモノと、演じている人が噛み合っていない。
また、演出の問題もあったと思う。
まぁくんが演じているのは「初日」のジェラールだった。
公演初日と中日を過ぎた現在では、ジェラール@オサは別の人だから。
他キャラへの対し方、考え方、ぜんぜんちがってるから。
オサ様は基本「日替わり」だけど、毎回演技がちがうけど、それでも全体を通したカラーはある。そのカラーが、初日と現在では別物になっている。
そして、わたしはもう「現在」のジェラールに慣れているもんだから、今さら初日のジェラールを見せられても違和感がある。
あ、ここで笑うんだ。この台詞ってこういう意味だっけ? 今は逆の意味で使ってね?
……いちいち違って、とまどう。
初日と現在では別物ったって、新人たちに「本公演が変わってしまったので、私たちも演出を変えることにしましょう」なんてことは出来ないよな。そこまで求められないよな。
最初にはじめたモノのままで、最後まで作るしかないよな。
まあそういうことで、本役よりかなりやさしげなジェラールにはなっていたんだけど。
それにしても、魂の色が違いすぎる。
ストーリーもキャラも破綻しているので、要は役者の持ち味勝負だ。
まぁくんジェラールは、素直で、幼かった。
見た目の若さだとか技術の足りなさの問題ではなく、彼のジェラールの解釈が、幼かったのだと思う。
彼が「孤独」と歌っても、それは言葉までの孤独でしかなく、「それは君が今思春期だからだよ、大人になったらわかるよ」という、「少年期の揺らぎ」に見えた。
ジェラールはもう「大人」で、少年ではないはずなんだが……。年齢的なことではなく、精神的な面で「大人」になっていなかった。
そこにいるのは傷ついた「少年」で、今はちょっと心を閉ざし気味だけれど、もともと素直でやさしい子なのですぐに打ち解け、初々しく恋をしたりしていた。
素直で初々しいジェラール……って、それ、ジェラールちゃうやん。
いやその、それはソレで愛すべきキャラだったんだけどね。
今まで観た新公のまぁくんの中で、いちばん手こずっているように見えた。
イケコがただ「オサ退団」のためだけに作ったキャラクタであり、作品であるから、「退団するオサ」以外が演じることはナンセンスなんだ。
壊れてる分、穴だらけの分を、オサというキャラで満たして嵩上げしている作品なんだもの。
技術的なことではない、ただ「まぁくんはオサではない」という一点ゆえに、手こずっていた。……気の毒に。
持ち味勝負するしかないから、まぁくんは今のまぁくんまんまで演じるしかなかった。
そのために、ジェラールは「少年」になってしまった。
仕方ない、そーゆー脚本なんだもの。オサがオサである、というだけに頼った作りなんだもの。
『マラケシュ』にしろ『黒蜥蜴』にしろ、ちゃんと「作品」であり、ちゃんと「キャラクタ」があったそれらの新公の方が、ひとりの人間として演じやすかったのだと思う。
まぁくんに突出した技術があれば、多少のことはねじ伏せられたかもしれないけれど、そーじゃないからなあ。
たぶん、だいもんとまぁくん、役が逆だった方が本人たちにはよかったんだろうな。
だいもんは歌唱力と高温な持ち味で嵩上げしてジェラールを演じたろうし、まぁくんはシモンを演じた方がキャラに合っていて魅力も出ただろう……惜しいなぁ。
まあ、誰が演じてもジェラールは別人だったろうけどな(笑)。
それにしても、大変そうだったなあ……。
そして、今まで見た中で、いちばんダメなまぁくんだったなぁ……。
もう開き直って、別キャラ認定して演じちゃいなよ。なまじ真似をしようとしてフラフラしているから自爆するんであって。オサ様には絶対なれないし、なる必要もないんだからさ。
……演出家が「コピーが基本」のこだまっちでなければなあ……。
「オサに似合うのは孤独。オサにせつなげに孤独を歌わせよう」→なんで「孤独」なのかはあとから考えよう。辻褄? オサが孤独ならそれでいいじゃん。
「オサにヅカならではのラブシーンをさせよう。『忘れ物』だよ、どーだ、うれしいだろ」→恋愛部分ろくに描いてなくても、トップとヒロインは恋愛するっていう前提で観劇してるんだから、無問題。辻褄? オサがラブシーンやってりゃそれでいいじゃん。
「同時退団じゃないから、ヒロインとは別れる、彼女の未来を見守るようにする。ついでに、残されるファンへのメッセージを込める」→現実の状況を入れることが先決。客はストーリーより「贔屓退団」という自分の都合に酔いに来てるんだから。辻褄? 自分=ヒロインと思える一場面がありゃそれでいいじゃん。
「最後は『アデュー』って言わせよう」→退団の最後の台詞なんだから、ストーリー考える前から決定済み。辻褄? オサが「アデュー」って言うならそれでいいじゃん。
こーゆー理由で作られているから、この作品から「オサ退団」というパーツをのぞくと、ただの壊れた駄作になる。
や、「退団作品」というフィルターがあるから、「ファンのために」作られた部分は「良い」と評価されることになるんだけどね。
新人公演『アデュー・マルセイユ』は、「オサ退団」というパーツがないので、ただの壊れた駄作、ソレを技術と経験の足りない若者たちでどう料理するか、という、いつものタカラヅカらしい課題を与えられていた。
新公を観ると、作品のアラがより鮮明になり、「このひでー話を、なんとか盛り上げていたのは本役さんたちの力だったんだな」と思わせることになるのは、いつものこと。
にしても今回は、「退団」となんの関係もなかったら、そして主役が別人だったら、どーしよーもない話になっていた。
「見せ場」としてのアテ書きをされているわけだから、そもそもジェラールという役は、オサ以外が演じても意味がないんだよなあ……。キャラ設定もストーリーも破綻してるんだもん……。「孤独と秘密」で「アデュー」と言わせたいためだけに作られたキャラだもん……。
その、どーしよーもない脚本と役を与えられ、まぁくんが奮闘していた。
が、別人でした。
あの人、ジェラールぢゃないです(笑)。
歌はがんばっていた。
まぁくん比ですごくうまくなっていたし、努力したこと、丁寧に向き合っていることがわかって好感。
でも、キャラ的にぜんぜんチガウ(笑)。演じているモノと、演じている人が噛み合っていない。
また、演出の問題もあったと思う。
まぁくんが演じているのは「初日」のジェラールだった。
公演初日と中日を過ぎた現在では、ジェラール@オサは別の人だから。
他キャラへの対し方、考え方、ぜんぜんちがってるから。
オサ様は基本「日替わり」だけど、毎回演技がちがうけど、それでも全体を通したカラーはある。そのカラーが、初日と現在では別物になっている。
そして、わたしはもう「現在」のジェラールに慣れているもんだから、今さら初日のジェラールを見せられても違和感がある。
あ、ここで笑うんだ。この台詞ってこういう意味だっけ? 今は逆の意味で使ってね?
……いちいち違って、とまどう。
初日と現在では別物ったって、新人たちに「本公演が変わってしまったので、私たちも演出を変えることにしましょう」なんてことは出来ないよな。そこまで求められないよな。
最初にはじめたモノのままで、最後まで作るしかないよな。
まあそういうことで、本役よりかなりやさしげなジェラールにはなっていたんだけど。
それにしても、魂の色が違いすぎる。
ストーリーもキャラも破綻しているので、要は役者の持ち味勝負だ。
まぁくんジェラールは、素直で、幼かった。
見た目の若さだとか技術の足りなさの問題ではなく、彼のジェラールの解釈が、幼かったのだと思う。
彼が「孤独」と歌っても、それは言葉までの孤独でしかなく、「それは君が今思春期だからだよ、大人になったらわかるよ」という、「少年期の揺らぎ」に見えた。
ジェラールはもう「大人」で、少年ではないはずなんだが……。年齢的なことではなく、精神的な面で「大人」になっていなかった。
そこにいるのは傷ついた「少年」で、今はちょっと心を閉ざし気味だけれど、もともと素直でやさしい子なのですぐに打ち解け、初々しく恋をしたりしていた。
素直で初々しいジェラール……って、それ、ジェラールちゃうやん。
いやその、それはソレで愛すべきキャラだったんだけどね。
今まで観た新公のまぁくんの中で、いちばん手こずっているように見えた。
イケコがただ「オサ退団」のためだけに作ったキャラクタであり、作品であるから、「退団するオサ」以外が演じることはナンセンスなんだ。
壊れてる分、穴だらけの分を、オサというキャラで満たして嵩上げしている作品なんだもの。
技術的なことではない、ただ「まぁくんはオサではない」という一点ゆえに、手こずっていた。……気の毒に。
持ち味勝負するしかないから、まぁくんは今のまぁくんまんまで演じるしかなかった。
そのために、ジェラールは「少年」になってしまった。
仕方ない、そーゆー脚本なんだもの。オサがオサである、というだけに頼った作りなんだもの。
『マラケシュ』にしろ『黒蜥蜴』にしろ、ちゃんと「作品」であり、ちゃんと「キャラクタ」があったそれらの新公の方が、ひとりの人間として演じやすかったのだと思う。
まぁくんに突出した技術があれば、多少のことはねじ伏せられたかもしれないけれど、そーじゃないからなあ。
たぶん、だいもんとまぁくん、役が逆だった方が本人たちにはよかったんだろうな。
だいもんは歌唱力と高温な持ち味で嵩上げしてジェラールを演じたろうし、まぁくんはシモンを演じた方がキャラに合っていて魅力も出ただろう……惜しいなぁ。
まあ、誰が演じてもジェラールは別人だったろうけどな(笑)。
それにしても、大変そうだったなあ……。
そして、今まで見た中で、いちばんダメなまぁくんだったなぁ……。
もう開き直って、別キャラ認定して演じちゃいなよ。なまじ真似をしようとしてフラフラしているから自爆するんであって。オサ様には絶対なれないし、なる必要もないんだからさ。
……演出家が「コピーが基本」のこだまっちでなければなあ……。
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