「顔が同じ」ことからはじまるラヴストーリーは、好きだ。
 好みのパターンの物語だ。
 ツボなネタだからこそ、はずしてはならないポイントがある。

 すなわち。

「顔が同じだから好きなのか」
「いつ、本人を好きになったか」
「自分は(相手は)身代わりではないのか」

 これらのことに、きちんと答えを出すこと。
 「顔が同じ」は、きっかけでしかない。「顔が同じ」だから、知り合うことになったし、好意または興味を持った。
 だがそれはあくまでも「きっかけ」だ。それからどんな関係を築くのかは別。

 このきっかけを元に築かれる「関係」こそが、わたしの萌えツボなんだ。

「わたしの顔が、死んだ恋人と同じだから愛したんでしょう? 別の顔だったら、わたしのことなんか好きになってないわよね?」
 とか、
「彼女を愛している……でも、ほんとうだろうか。僕が恋してきたのは写真の中の彼女で、現実の彼女ではないんじゃないのか?」
 とか、
「アナタが愛していたのは私の母であって、私じゃない。アナタは私の中に、母の面影を見ているだけなのよ!」
 とか。

 「身代わり」からはじまったのに、いつの間にか「真実の恋」になるのがいいの。

「誰でもいいんじゃない、君でなきゃダメだ!」
 ……という、定番展開。

 ツボがしっかりしているだけに、このポイントをはずしているものは、逆ツボになる。

「わたしは不死のハーフ・ヴァンパイア。あれから半世紀、愛したアランはもう死んでしまった。でも、彼に孫がいるらしいから、会いたいわ。あら、さすがに孫ね、彼にそっくり!」
「子どもの頃からずーっとあこがれていた、ヴァンパイア映画のヒロイン。彼女にそっくりな女の子が現れた!」

 ……て、これだけのネタで、次の瞬間相思相愛になられても、こまる。

 わたしが『シルバー・ローズ・クロニクル』に対して、萌えることができなかったいちばん大きな理由です。
 せっかくの萌え設定なのに、萌え設定であるからこそ、描き方の杜撰さがつらい。
 エリオット@ゆみこ、アナベル@さゆのふたりは、それぞれ「顔が同じ(恋人の血縁)」という理由で相手に好意を持つ。それはかまわない。問題は、そのあとどうやって、どんな葛藤を乗り越え、「顔が同じの他の誰かではなく、アナタ自身を愛している」という答えにたどり着くか。
 そこを描いてくれない物語は、不誠実だと思う。

 最初はプラスに働いた「顔が同じ」だということが、愛が盛り上がるにつれマイナスになるはずなんだ。
「最初は、似ていたからうれしかった。でも、愛すれば愛するほど、似ていることがつらくなる……」
 いっそ、まったくの別人なら、似ても似つかない人ならよかったのに。
 似ているから愛した? そんなことはない、最初はそうだとしても、今はチガウ。チガウはずなのに……あの人を愛していると錯覚しているのだろうか。
「鏡を見るたびに、嫉妬するんだ。これが、君の愛した男の顔なんだって。僕ではない……僕と同じ顔の男に、嫉妬し続けるんだ」
 ぐるぐる混乱、うだうだ葛藤。

 そういった一連の苦悩を越えて。

「身代わりでもいいんだ。彼を愛しているその心ごと、君を愛している!」
 とか、
「身代わりなんかじゃないわ。たしかに最初アナタに興味を持ったのは、アナタが彼と似ていたから。でも、今はチガウ。私が愛しているのはアナタ自身よ!」
 とか。
 よーやく本当の相思相愛にたどり着くのが、「顔が同じ」からはじまる恋愛ドラマの醍醐味だろう。

 それを描かずに「顔が同じ」=「愛」で終わっていると、「簡単だな」とゆーことになる。

 えー、混同しないでほしいのですが、役者の話ではありません。
 ゆみこちゃんとさゆちゃんが、ちゃんと愛し合っていることはわかる。身代わりではなく、顔が似ている云々とは関係なく、本人同士が愛し合っているんだってことは、彼らの演技を見ていればわかります。
 脚本に描かれていない部分を、役者が力業で埋めているわけですよ。
 だから彼らの問題ではなく、そもそも脚本に何故、主役とヒロインの恋愛が描かれていないのかということを言っているわけっす。

 行間を読む、とか、そーゆーことですらない。
 行間もナニも、最初から、描かれていないんだもん。
 わたしたち観客側に、「エリオットとアナベルは恋をする」という前提があるから、その「お約束」に助けられているだけ。脚本には「恋愛」は描かれていない。

 顔が同じ→相思相愛→永遠の愛、という展開の乱暴さに、ついていけなかった。
 いったいいつ恋愛したのアンタたち?! とびっくりしているうちに、「ヴァンパイアでもかまわない、愛してる!」で、ひたすらコメディでどたばたしているうちに、次の瞬間じじいになって「永遠の愛」になだれ込むんだもの。
 顔が同じ、から、相思相愛に至るまでの話はどこよ?
 エリオットはまだ「写真の女の子」「映画のヒロイン」にあこがれていただけだから、同じ顔の生身の女の子と出会って好意を持つ、のはわかるけれど……。(それにしたって、偶像への憧れと現実の恋の区別は描く必要があるが)
 昔の恋人の孫に対して、なんのためらいも持たず恋するアナベルは、気持ち悪いぞヲイ。誰でもいいのか、よーするに。アランのことも、大して好きではなかった? 半世紀前、つっても、眠っていた彼女にとってはつい先日のことなんじゃないの?

 なんか少年マンガの「恋愛」みたいだ。
 「愛している」という前提で、それを理由に主人公ががんばったり、出来事が展開していったりはするけれど、「愛」そのものについてはなにも描かれない。
 愛ゆえにエリオットは詩を書いたり悪者と闘ったり(闘ってないか・笑)するけれど、愛ゆえにアナベルはブライアンに噛みついたり、一旦エリオットから身を引いたりするけれど、「愛」に至る過程はナシ。もうできあがった、完全体の「愛」があって、球技のように「愛」を中心にキャラクタがバタバタやっているだけ。

 「顔が同じ」という、わたしの好きなパターンからはじまるだけに、わたしは「恋愛」が観たかった。

 恋愛モノだと思わなければ、ただのお笑いモノだと割り切れば、たのしいのかもしれないが。
 ラストでとってつけたように、「恋愛モノ風」になるから、余計にこまるんだよなあ。

 や、繰り返すが、役者はちゃんと「恋愛」しているから、なんとか「恋愛モノ」のようになっているけれど。
 このひどい脚本で、それでも「恋愛」して、描かれていないことまで「描いてある」ように演じてしまう、ゆみこの実力とハートフルさには脱帽しているのだけど。
 役者の力業で誤魔化すのではなく、誠実な脚本を書いて欲しかったんだ。

 彩吹真央は、「恋」を演じられる役者なんだよ。
 彼に本気で、「恋愛モノ」を演じさせて欲しかったんだよ。


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