のんきにいろいろ感想書いてますが、ほんとのところ「それどころじゃない」というキモチでいっぱいです。
 花組公演が、あと少しで終わってしまう。
 そして、オサ様がオサ様たるゆえん、演技がどんどん変わっていってます。基本日替わりだけど、全体としても変化している。思わず、「本日のジェラールさん」というタイトルで日記をつけてしまうくらい、毎回別物で愉快です。ショーの方も、そのときのオサ様の気分次第でいろいろだし。
「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」と叫びたくなるくらい、現場はナマモノであり、自宅でPCの前にいたってなにもわからないよなあ、と思い知っているところです。
 てかオサ様、変化激しすぎ。

 ご機嫌で社交的なジェラールさんや、シニカルなジェラールさん、マリアンヌにでろでろなジェラールさん、反対に女に興味のないジェラールさん、シモンに興味のないジェラールさん、反対に大好きなジェラールさん……まったく、毎回ちがいすぎてこまる。この人なんとかして(笑)。
 ショーでもハイテンションに大暴れしているときもあれば、反対にアンニュイなときもあるし。
 目が離せない。おもしろすぎ。

 わたしは正直なとこ、退団公演の芝居とショー、作品としては両方とも好きじゃないです。
 それでも、そんなことがどーでもよくなるくらい、春野寿美礼がすごいです。

 脚本とか演出とか、そんなものに縛られず、オサ様が自在に呼吸をはじめるとぞくぞくする。この人と同じ時代に生きられたことを、出会えたことを感謝する。

 春野寿美礼に教えられたことが、いろいろある。
 わたしは「言葉」が好きで、言葉にこだわって生きてきた。音楽よりも歌が好きなのは、そこに「言葉」があるからだ。わたしが理解できない言語や、歌詞のない曲には興味がなかった。音楽とは、「言葉」をより効果的に発するための道具でしかなかった。
 それが。
 オサ様に惚れ込んでから、「言葉」に対するこだわりがほどけた。もちろん今も「言葉」がなにより好きで、これからもこだわって生きていくけれど、それとは別に、「言葉のない音楽」への気持ちが変わった。

 春野寿美礼の歌に、歌詞なんかいらない。

 言葉なんか、無意味だ。
 オサ様が、「声」を発する。音を表現する。それだけだ。それだけでいいんだ。言葉とか、別の要素なんか必要ない。オサ様は、純粋に「声」だけで、「音楽」だけで、さまざまなものを表現してしまうからだ。
 わたしを、至福の世界につれていってくれるからだ。

 オサ様のスキャットを聴くことで、はじめて、スキャットってのがこんなにたのしいものだと知った。饒舌なものだと知った。「言葉」がない音楽に、わたしは今までなんの興味もなかったのに。

 言葉なんかいらない。
 決められた意味なんかいらない。

 そのときの気分で、フィーリングで、オサ様が自由に声を出す、音を楽しむ、それだけでいい。

 またわたしは、「言葉」にこだわる以上、芝居、脚本にもこだわりがある。
 作家性にもこだわるし、過程ではなく結果にこそこだわる。

 だけどオサ様は、ひとつの役、ひとつの台詞、ひとつの歌、「あらかじめ決められた」ものを、演じる回数分まったく別物にしてしまう、そのたび別の物語を作り出す。

 オサ様に歌詞なんかいらないと書いたけれど、「言葉」のある歌を歌うオサ様も、もちろん好き。

 言葉、物語、というあらかじめ決められた、すでに書かれたものを、柔軟に変えていく力。息づかせる力。
 波はひとつとして同じカタチなどなく、動いているから、止まることがなく、記録されることがなく、出来た端から消えていくものだからこそ波である……そんな感じ。

 わたしは言葉を、文章を書くことが好きで、そこにこだわりを持って生きてきた。実際にわたしが書いているモノのデキがどうという話ではなく、姿勢として。
 だが、文章とは、「書く」という完了させ続けるものであり、一度完了させてしまったらそこから動くことはない。や、推敲を重ねることはするけれど、やはり文学……文章による表現というのは、リアルタイムで変化し続けるモノではない。だからこそ研ぎ澄まされた美しい世界だと思っているけれど。
 そこにこだわり、そこで足を止めていたわたしに、春野寿美礼という人が新しい次元を教えてくれた。

 今ここで春野寿美礼と出会い、そして、別れを目の前にして、わたしは混乱している。

 どうしよう。
 このひとがいなくなってしまったら、あたしはどうしたらいいんだろう。

 おろおろおろ。

 明日ってサバキ出ますかね?
 とりあえず行く。


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