前楽はピュアなオサファンのキティちゃんと一緒だった。

 サヨナラショーで号泣し、しきりに感動していた。

 だからわたしたちは、口をつぐんでいた。
 「言ってはならないこと」が、この世にはいくらでもある。

 真実を口にすることが出来たのは、キティちゃんと別れ、みんなでごはんを食べ、くつろいだあとだった。
 遅れて最後にテーブルについたドリーさんが、とてもサバサバと口火を切った。

「いやあ、つまんないサヨナラショーだったね!」

 あ。
 言ったな、こいつ(笑)。
 ツッコミ担当ドリーさんならではの鋭さと容赦なさ。

 だが、彼女の一言で、その場にいたわたしたちはようやく本音を言えるようになったんだ。

 世の中には、「言ってはならないこと」がある。
 それは真実とか正義とか正解とかではなく、「場をわきまえる」ことだと思う。

 たとえ真実でも正義でも正解でも、「言ってはいけない場」がある。

 オサ様のサヨナラショーを観て、感動して泣いている人の前で言っていいことではない。
 ピュアファンの前で言っていいことではない。

 わたしはオサ様大好きだけど、真のファンには程遠い。「オサ様が出演していれば、すべて名作、傑作」だとは思えない(ちなみに、キティちゃんは「贔屓が主演していればすべて名作」な真のピュアファンだ)。
 駄作は駄作だと思う。
 オサ様がその才能で「駄作」を「別物」にしてしまうことを痛快だと思い、そこに拍手を送ってはいるけれど、それゆえに「好きな作品」になったりする場合もあるけれど、作品自体を名作だとは思えない。

 前楽直後、そしてまだこれから楽を控えた時点でブログに書けることではなかった。
 楽の直後すら、まだ無理。

 わたしはオサ様と花組が好きだ。
 公演もサヨナラショーも、盛り上がって欲しいと心から思っているし、オサ様の最後の花道に水を差すようなことをしたいわけじゃない。

 泣いているキティちゃんの前で、仲間たちみんなが口をつぐんでいたように。
 いくら「正直な感想」でも、言ってはいけない。彼女の感動を傷つけてはいけない。

 オサ様の歌声に、感動したのは事実だから。

 どんな駄作でも力尽くで感動させてしまう、あのとてつもない才能に心酔し、ひれ伏しているのはたしかなのだから。

 オサ様が好き。
 オサ様のサヨナラショーだから、感動したし、泣いた。
 でも。

 春野寿美礼のすごさと、中村Bの無能さは、まったく別物なんだ。

 ドリーさんが言う「つまんないショー」というのは、中村B演出のことであって、寿美礼サマのことではない。もちろん彼女もオサ様の「あの演出であそこまで盛り上げる力」に、強く言及していた。
 オサ様を好きだから、そのために集まっているわけだから、「言っていいこと」なのか、自分以外の誰も思っていないのかととまどい、口に出来なかったんだよ。おかげで、せっかくのサヨナラショー直後のお食事なのに、みんな別の話題に逃げていた(笑)。

 オサ様を好きなら、悪口なんか書くな、感動に水を差すな、と思う人もたくさんいるだろう。それがあたりまえの感覚かもしれない。
 所詮アンタはほんとうのファンじゃないからよ、ということなのかもしれないが、わたしはどうしても、中村Bの演出に物申したい。

 オサ様を悪く言うんじゃない。オサ様も花組組子たちも、素晴らしかった。
 彼らのことではなく、「演出」の問題点を書きたいの。

 あれから5日経ち、次の星組公演の幕も上がった。
 「サヨナラショー」という単語での検索も減った。
 正直な思いを書きたいと思う。

 前楽の日、中村B演出『春野寿美礼サヨナラショー』を観て、あまりの駄作っぷりに、貧血を起こした。

 ちまたでは選曲のひどさについて物議が起こっているようだが、選曲以上にひどいのは「演出」だ。
 縁あってここ2年ほど大劇場で行われたサヨナラショーのほとんどをナマで観てきているが、ここまでひどい演出は見たことがない。

 中村Bの無能さは『ラブ・シンフォニー』を見てもわかることだが、ひとつには大劇場の空間を使いこなせないことが大きい。

 宝塚大劇場は、大きな劇場だ。舞台もそりゃー、だだっ広い。広いだけでなく、奥行きもあり、高さもある。
 他の劇場とは違い、この巨大な立方体を華やかに埋める演出をしなければならない。

 が。

 中村Bは致命的に「空間」としての認識力がない。
 彼は「平面」の認識は出来ても、高さと奥行きを認識できないんだ。

 『ラブ・シンフォニー』を1階と2階で見てみると、よくわかる。
 最初に2階で見て、次に1階で見ると歴然。

 2階から見ると、この作品はじつにチープな、びんぼくさい作りになっている。
 セットがナシなんだ? ライトだけ? 予算なかったのかなあ。大人数が平らな舞台の上で何十人踊っているだけで、なんの仕掛けもなしか。てゆーか吊りモノが邪魔で顔見えないや。帽子ばっかで顔見えないや。

 で、1階から見るとセットが存在していることに、驚く。
 えええ、場面ごとにセットあったんだ。知らなかった。

 場面ごとのセット……わたしは舞台用語はわかんないんだけど、大道具や背景、セリなど、場面を盛り上げるための舞台上の用意、仕掛け。
 それが、『ラブ・シンフォニー』はホリゾント前にしかない。
 舞台のいちばん奥、スクリーンになったところ。そこになにかしら「絵」が飾られることが、彼のセットのすべて。

 ホリゾント前って、2階席からだと半分しか見えないんだよね……。

 セットが半分しか見えない、その前で何十人が踊っちゃうとそれすら見えなくなっていたから、「この公演、セット作るお金なかったんだ」という印象だった。
 あんまりきれいじゃないなあ……と、初日はしょんぼりしていたんだが、翌日1階で見ると「えっ、キレイじゃん!」ということになった。
 派手な電飾や金銀色彩の「舞台を盛り上げるための道具」が、2階からは見えなかったんだもの。

 公演を愉しむために、1階席でしか観劇できなかった。無理をしてでも1階にこだわった。今回ばかりは。あんなさみしい画面にお金と時間を出すのは嫌だ。

 これは、演出家が「平面」でしか舞台を捉えていないためだ。
 舞台上は「立方体」なのに、「地面」でしか認識していない。大劇場には多彩な演出が可能なセリが何種類もあるのに、まったく使用しない。いつも平面、なにもない広い舞台を何十人が走り回る。
 「高さ」を使った演出、「奥行き」を使った演出が皆無。唯一マシだったのが、ダーツボードの出てくる「ラブ・ゲーム」の場面ね。それ以外は盆が丸出し、なにもセットなし。

 「空間」が認識できない中村Bには、大劇場の舞台の「平面」は広すぎるのだと思う。だから、消去法でたくさんキャストを一度に出す。
 「立方体」として演出するなら少人数でもめりはりをつけることが可能だが、「平面」しかないとしたら、そこを物理的に「埋める」ためには、人海戦術しかないだろ。
 彼は群舞が好きなわけでもこだわりがあるわけでもなく、他に方法を知らないから、とりあえず群舞を利用しているのではないか。群舞尽くしの彼の作品は、あまりに芸がないため、こだわった結果とは思えないんだ。

 狭い舞台なら、平面として作るのもアリだと思うけど。
 だが、ここは大劇場だ。
 サッカー選手がフィールドの広さをカラダに叩き込みプレイするように、大劇場の広さを理解できない演出家は、第一戦に出てくるもんじゃない。
 バウホールですら、高さの感覚は必要だっつーに。

 中村Bは、セット替えがない、カーテン前と同じ感覚の細長いステージの、ディナーショー専用でオーソドックスなものを作っていればいい。
 それだけのステージなら、ファンをたのしませることができるんじゃないか? ディナーショーを軽んじているわけではなく、適材適所、才能に合った場として。
 新聞の4コママンガを描いている漫画家に、「制作費50億、スタッフ1000人を指揮し、声優100人使って大作アニメ映画を作ってください」と依頼しても、本領は発揮できないだろう、ってことで。


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