まっつと東宝『ラブ・シンフォニー』と『アデュー・マルセイユ』その3。
2008年1月7日 タカラヅカ まっつは、テンション高かったと思う。
『アデュー・マルセイユ』『ラブ・シンフォニー』東宝千秋楽。
ムラに引き続き、なにかアドリブするとかスタンドプレイするとかはなかったと思うが。
まっつ的に、ハイテンションだったと思う。
でないと、カード勝負で3連続勝ちに行ったりしないよなあ(前日欄参照)、とか。
ラテンはノリノリで投げチューしてたし、全開の笑顔だった。
……ハイテンション……いや、高密度という方が正しいかもしれない。
昂揚とか高温とかではなく。
まっつがすごく、つまっている気がした。
こう……なんつーか、洗面器に「100まっつの溶けた水」1リットルが入っていて、通常は「1000ml=100まっつ」なんだけど、今は水分が蒸発して体積が減り、そのくせまっつは減っていないから「300ml=100まっつ」ってゆーか。
や、これは密度でなくて濃度か。密度だったら体積変わっても一定だから例として相応しくない……?(混乱中)
あああ、洗面器の中にきっちり小さなまっつが詰まっている妄想が……。(ウンパルンパ@『チャーリーとチョコレート工場』のノリで)
いやその、アホな表現になっておりますが、つまり通常よりまっつがきゅっと詰まっている気がしたの。
余分なものがすべて削ぎ落とされ、キンキンのカツンカツンに中身が詰まっている。
強い強い、濃いまっつだった。
だから「ラブ・ゲーム」でクールにキザっているし、「ラテン」ではノリノリ。
一分の隙もなく、力が正しい方向へ進んでいる。一直線、遊びとか歪みとか、曖昧なところがまったくない。
オサ様を見送る歌とダンスの「スパニッシュ」でも……ベクトルはブレることがなかった。
確実に踊り、確実に歌う。
表情、目線、指先の動き、すべてが「正しく」演じられていた。
もう何十回見てきた、デフォルトの表情を、動きを、まちがいなくしていた。
それは、頑ななまでの集中力で。
自分がやるべきこと。
成し遂げるべきこと……それだけに集中した姿。
まっつが高密度で高純度で高濃度で、混じり気ナシのびっちり詰まったまっつで、もう、どうしていいかわからない。
公演に、演技にだけ、まっすぐに集中している。
それは正しい姿。正しい……の、だろうけれど。
舞台人は、自分の演技だけに固まるのではなく、舞台という空間に立ち、客席に向かうために、どこか「余分」なものを持っていると思う。
余分、というのが言葉が悪いなら、「余白」とでも「行間」とでも言おうか。
書かれたこと以外のフリースペース。
そこに個性とか表現とか余韻とかを含ませる。
新人がいっぱいいっぱいになっちゃってその「余白」がなにもなく、ただ自分をそのままさらけ出して自爆しちゃう……てことがある、よね?
まっつに感じた「余白のなさ」は、そういうものとは違っていて。
自分の意志で、余白を塗りつぶしていた。
紙面いっぱいにまでデフォルトの演技を広げ、余分なものを一切排除していた。
そうすることで、なにかと闘っていた、のだろう。
余白があったら、フリースペースがあったら、なにか飛び出してきてしまうから。
それはナマのまっつかもしれないし、本名のまつださんかもしれない。
タカラヅカはそーゆーものを余白に載せてかまわないところだし、かえってソレが喜ばれたりもするのだけど、まっつは余白を力尽くで塗りつぶしていた。
すげー頑なな意志の力が、なにかを抑え込んで、「正しい仕事」をしていた。
……そこまで、キンキンのカツンカツンにまで、ならなくてもいいのに。大丈夫なのに。
まっつ濃度が高すぎて、胸が痛いよ。
もう少し、ゆるくていいから。
泣きたいときは泣いていいから。
舞台への集中がすごいから、その延長線上にある「ラテン」でのオサ様への笑顔とか、黒燕尾のときのひーさんへの笑顔とか、集中しきった上でこの表情にたどり着くのかと思うとせつない。
舞台に、演技に、役に、余白無しで没頭しているからこその笑顔なんだな。
退団とか別れとか最後とか、そーゆー外側の問題ではなく、ただ、今この場所にいる上で。
余分なものを全部削ぎ落としたら、こんなにも高い純度でひとは誰かのために笑えるんだなと。
一途なものは、こんなに美しいのだなと。
退団者挨拶までたどり着くと、まっつは相変わらず表情がなかった。
ほっこりした挨拶の言葉に泣いている人たちまでもが思わず笑っても、まっつの表情は動かなかった。
笑いが起ころうが周囲が泣いていようが、ただまっつは無表情に立ち続けていた。
人の動きに合わせて目線は動くし、相変わらず高速の拍手もする(まっつって拍手のとき、手が小さく高速で動くよね?)けど、表情は変わらない。動かない。
止まったまま。
人形のように。
清々しくも美しく微笑む退団者たちの後ろで、なんの表情も作ることができずに立ちつくしていた。
泣きながら、それでも笑顔を作る多くのジェンヌたちの間に、立ちつくしていた。
何度幕が降り、また開いても、強い顔で固まったままだった。
……最後の最後に、ようやく笑ってくれて、ほっとした。繰り返されるカーテンコールの最後に、やっと表情があった。
不自由な人だなと思う。
頑固な人だなと思う。
全部全部、自分で受け止め咀嚼して、自分の血肉にするんだろう。
そーやってどこまでもまっつのまま、寿美礼サマを、他の仲間を見送って。
翌日に、そのかの舞台を観にムラにいたことに、ほっとする。
たしかみわさんと一緒にいたと思う。あとふたり、金髪の子(男役と娘役)がいたけど、わたしの席からは確認できず。
魂ぎりぎりまで追いつめられた翌日、友だちと一緒に、友だちの舞台を観に現れる。
昨日の今日で、よくここに現れたな……いや、昨日の今日だからこそ、そのかに会いに来たのかもしれない。
……ひとりじゃ、ないんだなぁ。
そうやって誠実な舞台を作るひとたちは、そうやって絆を作り、支え合っている。
彼らは決してひとりではなく、立ち止まることなく進んでいく。
まっつが誰かと抱き合って泣く人なのか、ひとりきりで泣く人なのか、わたしは知りようがないけれど。
彼がひとりではなく、仲間たちとともにあることを、心からうれしく思う。
「卒業」というセレモニーに団員も観客も共に涙を流す、独特の世界観。
芸であること仕事であることはわかった上で、前提の上で、それでもそこに「人の心」を求める。
ひとの絆や情を力にかえて夢を織る、宝塚歌劇団というファンタジーを、信じたい。
未涼亜希というファンタジーに酔い続けたい。
『アデュー・マルセイユ』『ラブ・シンフォニー』東宝千秋楽。
ムラに引き続き、なにかアドリブするとかスタンドプレイするとかはなかったと思うが。
まっつ的に、ハイテンションだったと思う。
でないと、カード勝負で3連続勝ちに行ったりしないよなあ(前日欄参照)、とか。
ラテンはノリノリで投げチューしてたし、全開の笑顔だった。
……ハイテンション……いや、高密度という方が正しいかもしれない。
昂揚とか高温とかではなく。
まっつがすごく、つまっている気がした。
こう……なんつーか、洗面器に「100まっつの溶けた水」1リットルが入っていて、通常は「1000ml=100まっつ」なんだけど、今は水分が蒸発して体積が減り、そのくせまっつは減っていないから「300ml=100まっつ」ってゆーか。
や、これは密度でなくて濃度か。密度だったら体積変わっても一定だから例として相応しくない……?(混乱中)
あああ、洗面器の中にきっちり小さなまっつが詰まっている妄想が……。(ウンパルンパ@『チャーリーとチョコレート工場』のノリで)
いやその、アホな表現になっておりますが、つまり通常よりまっつがきゅっと詰まっている気がしたの。
余分なものがすべて削ぎ落とされ、キンキンのカツンカツンに中身が詰まっている。
強い強い、濃いまっつだった。
だから「ラブ・ゲーム」でクールにキザっているし、「ラテン」ではノリノリ。
一分の隙もなく、力が正しい方向へ進んでいる。一直線、遊びとか歪みとか、曖昧なところがまったくない。
オサ様を見送る歌とダンスの「スパニッシュ」でも……ベクトルはブレることがなかった。
確実に踊り、確実に歌う。
表情、目線、指先の動き、すべてが「正しく」演じられていた。
もう何十回見てきた、デフォルトの表情を、動きを、まちがいなくしていた。
それは、頑ななまでの集中力で。
自分がやるべきこと。
成し遂げるべきこと……それだけに集中した姿。
まっつが高密度で高純度で高濃度で、混じり気ナシのびっちり詰まったまっつで、もう、どうしていいかわからない。
公演に、演技にだけ、まっすぐに集中している。
それは正しい姿。正しい……の、だろうけれど。
舞台人は、自分の演技だけに固まるのではなく、舞台という空間に立ち、客席に向かうために、どこか「余分」なものを持っていると思う。
余分、というのが言葉が悪いなら、「余白」とでも「行間」とでも言おうか。
書かれたこと以外のフリースペース。
そこに個性とか表現とか余韻とかを含ませる。
新人がいっぱいいっぱいになっちゃってその「余白」がなにもなく、ただ自分をそのままさらけ出して自爆しちゃう……てことがある、よね?
まっつに感じた「余白のなさ」は、そういうものとは違っていて。
自分の意志で、余白を塗りつぶしていた。
紙面いっぱいにまでデフォルトの演技を広げ、余分なものを一切排除していた。
そうすることで、なにかと闘っていた、のだろう。
余白があったら、フリースペースがあったら、なにか飛び出してきてしまうから。
それはナマのまっつかもしれないし、本名のまつださんかもしれない。
タカラヅカはそーゆーものを余白に載せてかまわないところだし、かえってソレが喜ばれたりもするのだけど、まっつは余白を力尽くで塗りつぶしていた。
すげー頑なな意志の力が、なにかを抑え込んで、「正しい仕事」をしていた。
……そこまで、キンキンのカツンカツンにまで、ならなくてもいいのに。大丈夫なのに。
まっつ濃度が高すぎて、胸が痛いよ。
もう少し、ゆるくていいから。
泣きたいときは泣いていいから。
舞台への集中がすごいから、その延長線上にある「ラテン」でのオサ様への笑顔とか、黒燕尾のときのひーさんへの笑顔とか、集中しきった上でこの表情にたどり着くのかと思うとせつない。
舞台に、演技に、役に、余白無しで没頭しているからこその笑顔なんだな。
退団とか別れとか最後とか、そーゆー外側の問題ではなく、ただ、今この場所にいる上で。
余分なものを全部削ぎ落としたら、こんなにも高い純度でひとは誰かのために笑えるんだなと。
一途なものは、こんなに美しいのだなと。
退団者挨拶までたどり着くと、まっつは相変わらず表情がなかった。
ほっこりした挨拶の言葉に泣いている人たちまでもが思わず笑っても、まっつの表情は動かなかった。
笑いが起ころうが周囲が泣いていようが、ただまっつは無表情に立ち続けていた。
人の動きに合わせて目線は動くし、相変わらず高速の拍手もする(まっつって拍手のとき、手が小さく高速で動くよね?)けど、表情は変わらない。動かない。
止まったまま。
人形のように。
清々しくも美しく微笑む退団者たちの後ろで、なんの表情も作ることができずに立ちつくしていた。
泣きながら、それでも笑顔を作る多くのジェンヌたちの間に、立ちつくしていた。
何度幕が降り、また開いても、強い顔で固まったままだった。
……最後の最後に、ようやく笑ってくれて、ほっとした。繰り返されるカーテンコールの最後に、やっと表情があった。
不自由な人だなと思う。
頑固な人だなと思う。
全部全部、自分で受け止め咀嚼して、自分の血肉にするんだろう。
そーやってどこまでもまっつのまま、寿美礼サマを、他の仲間を見送って。
翌日に、そのかの舞台を観にムラにいたことに、ほっとする。
たしかみわさんと一緒にいたと思う。あとふたり、金髪の子(男役と娘役)がいたけど、わたしの席からは確認できず。
魂ぎりぎりまで追いつめられた翌日、友だちと一緒に、友だちの舞台を観に現れる。
昨日の今日で、よくここに現れたな……いや、昨日の今日だからこそ、そのかに会いに来たのかもしれない。
……ひとりじゃ、ないんだなぁ。
そうやって誠実な舞台を作るひとたちは、そうやって絆を作り、支え合っている。
彼らは決してひとりではなく、立ち止まることなく進んでいく。
まっつが誰かと抱き合って泣く人なのか、ひとりきりで泣く人なのか、わたしは知りようがないけれど。
彼がひとりではなく、仲間たちとともにあることを、心からうれしく思う。
「卒業」というセレモニーに団員も観客も共に涙を流す、独特の世界観。
芸であること仕事であることはわかった上で、前提の上で、それでもそこに「人の心」を求める。
ひとの絆や情を力にかえて夢を織る、宝塚歌劇団というファンタジーを、信じたい。
未涼亜希というファンタジーに酔い続けたい。
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