三つ子の魂。@ミロワール
2008年1月28日 タカラヅカ 子どものころ「タカラヅカ」を最初に観たとき、感動したことのひとつに、「流れが途切れない」ことがあった。
それまで観たことのあるお芝居とかは大抵、ひとつの場面が終わると次の場面に行くために待たされたもの。
学校で問答無用に見せられる「児童向けのお芝居」とか、おばーちゃんに連れられていく時代劇のお芝居とか。市民ホールに毎年やって来る「よい子のためのファミリー・ミュージカル」とか。児童劇団?のお芝居とか。
場面が変わるたびにカーテンが一瞬閉まったり、真っ暗になったり。
カーテンの向こう、暗闇の向こうでは、大きな音がしていて「ああ、セットを移動させたりしているんだな」と、子どもにも察せられた。
つか、待たされるのがあたりまえだと思っていた。
もしくは1幕もので舞台装置には一切変化ナシ。船の上だとしても、島に着いたあとだとしても同じセットで、役者がここはどこで置いてあるモノがなんなのか、演技や台詞で教えていた。
そーゆーものしか知らなかったから。
タカラヅカってすごいなあ、どんどん場面が変わる。
まず、それだけのことに感動した。ストーリーとか演技とか役者とか以前の話。
ただもお、次々変わっていく世界に口ぽかーん。
まるで、手品みたいだー。
マジシャンがステッキを振ったら花が出るとか、そーゆーイメージ。
次々となにか出てくる。「待つ」ということをしなくていい。
や、カーテンいったい何枚あるんだろう? ……とか、現実的なことに思いを馳せたりしていたが(笑)。
ちなみに、植爺作品だって感動したさ。
本舞台→カーテン前→本舞台という流れは、今まで知らなかったんだもん。カーテンが降りたのに、まだお芝居続いてる! すごーい! カーテン開いたら別の場面になってる! すごーい!
……お安い子どもですな。そんなことで感動って。
とまあ、そんなとこに原点があるもんだから。
三つ子の魂ってことで、わたしはとにかく「暗転」がキライ(笑)。
オギー、正塚、小池なんかほんと暗転使わないしな。キムシンも暗転率は低い。好き作家の条件には、暗転を使わない人、とゆーのがある(ただし植爺除く・笑)。
小柳タン作品とか、暗転の多さにむきーっとなった感想を、ここで書いていたりもしている。(忘れられない、芝居の間に暗転がある、というより、暗転の合間に芝居をしている駄作『アメリカン・パイ』……)
演出としての暗転はアリなんだけどね。たとえば主役の絶望感を表すためにあえて真っ暗にし、しばらく経ってから別の場面に移る、とか。
なにか表現するためならいいの。
ただの「舞台転換」で暗転されると、作品の評価が下がる。……わたし的に。
芝居はそれでも、舞台セットを全取り替えとかしなきゃいけなかったり制約があるから仕方ないと思ってもいるんだけど、ショーで暗転多用は「作者の手抜き?」と思う。
創意工夫でなくすことができるのに、それをしないってことだから。
ショーの本舞台のセット転換の間、保たせる方法なんかいくらでもある。
暗転でもカーテンでもいいけど本舞台を見えなくして、かわりに誰かカーテン前か花道に残しておけばいい。
芝居なら物語を続けるために台詞とか役とか必要だけど、ショーならてきとーに揺れてるだけでもOKじゃん。
スタークラスは着替えがある、とかなら、中堅でも下級生でも、5〜6人くらい、花道でポーズつけさせるだけでもいいんだし。
実際、今までの公演はそうやって乗り切ってきたんだろう、装置転換やスターの着替え。草野作品なら絶対狂言回しが登場するしな。
いいや、「演出」の暗転だ。場面ごとを区切るためにわざと、全部暗転させているのだ。
……としたら、その演出家とは好みが合わない、つーことで終了。
いくら「演出」で「効果」だとしても、全場面同じ効果しか使わないってどんな演出家だそりゃ。
それにわたし、場面ごとのぶつ切り、って好きじゃないんだ。メリハリはほしいけど、統一感も大切だから。
バラエティ・ショーだったとしても、ぶつ切りではなく、流れるように、手品のように、次々と展開していって欲しい。
暗転されると、そこでテンション落ちるんだよ。
高揚に水を差されるんだよ。
……あくまでも、わたしは。
気にならない人は、まったく気にならないんだと思う。
でもわたしの「演出」の評価ポイントのひとつに、場面から次の場面へどうつなぐか、というのがあるんだわ。安直な暗転は最下位評価。
つーことで。
いやあ、初日観たとき驚きました、『ミロワール』。
金ぴかオープニングの直後、ヅカでは、とくにショー作品ではありえないくらいの、長時間暗転。
ラジオでは何秒喋らないと放送事故になるんだっけ? ヅカでも、演出効果ではなくただの暗転が何秒続いたら進行事故とか、決まりがあったら引っかかってるんじゃあ? つーくらい、無意味に長かった。
や、繰り返すが芝居ではなくショーだから。しかもオープニングの直後だ。
オープニングで盛り上がったキモチをぶった切られ、かなりしょぼんなテンションになったのはたしか。
しかも暗転はこの1回きりではなく、とにかく場面ごとにあったので、わたし的にこの作品の評価は低い(笑)。
初日はとくに長かったのかな、最初の暗転。
2回目以降は、たしかに正味暗転してはいるけど、「進行事故?」と思うほど長くはなかった……と、思う。
ショー作品で長い暗転はない、と思い込んでいるから、余計に長く感じただけかな。
なんにせよ、びっくりした。
プロローグ直後って……。
とまあ、盛大に引っかかっている部分はあるにしろ。
今回の雪組公演、わたし的にたのしみなのはキムシンの芝居のみで、ショーにはまったく期待していなかった。
だから、どんな作品であってもべつにかまわないっちゃかまわなかったんだが。
意外にたのしくて、得した気分だ。
暗転さえ気にしなければ、ふつーにたのしいショーだ。わくわくわくっ。
今回1階でしか観ていないのだけど、友人たち曰く、「2階で観ると、すっごくきれい」なんだそうだ。
ほほお。2階席にやさしいショーは、いいショーだぞ。あ、でも客席降りあるから、真の意味ではやさしくないな(笑)。
タカラヅカらしく、美しくて夢を見ることの出来る、たのしい作品だ。
オーソドックスで目新しいことはないけれど、ソコが良いんだと思う。
『ラブ・シンフォニー』、『レビュー・オルキス―蘭の星―』とわたしの好みに合わないショー作品が続いてかなしかっただけに、『ミロワール』はおいしくいただきました。はい。
それまで観たことのあるお芝居とかは大抵、ひとつの場面が終わると次の場面に行くために待たされたもの。
学校で問答無用に見せられる「児童向けのお芝居」とか、おばーちゃんに連れられていく時代劇のお芝居とか。市民ホールに毎年やって来る「よい子のためのファミリー・ミュージカル」とか。児童劇団?のお芝居とか。
場面が変わるたびにカーテンが一瞬閉まったり、真っ暗になったり。
カーテンの向こう、暗闇の向こうでは、大きな音がしていて「ああ、セットを移動させたりしているんだな」と、子どもにも察せられた。
つか、待たされるのがあたりまえだと思っていた。
もしくは1幕もので舞台装置には一切変化ナシ。船の上だとしても、島に着いたあとだとしても同じセットで、役者がここはどこで置いてあるモノがなんなのか、演技や台詞で教えていた。
そーゆーものしか知らなかったから。
タカラヅカってすごいなあ、どんどん場面が変わる。
まず、それだけのことに感動した。ストーリーとか演技とか役者とか以前の話。
ただもお、次々変わっていく世界に口ぽかーん。
まるで、手品みたいだー。
マジシャンがステッキを振ったら花が出るとか、そーゆーイメージ。
次々となにか出てくる。「待つ」ということをしなくていい。
や、カーテンいったい何枚あるんだろう? ……とか、現実的なことに思いを馳せたりしていたが(笑)。
ちなみに、植爺作品だって感動したさ。
本舞台→カーテン前→本舞台という流れは、今まで知らなかったんだもん。カーテンが降りたのに、まだお芝居続いてる! すごーい! カーテン開いたら別の場面になってる! すごーい!
……お安い子どもですな。そんなことで感動って。
とまあ、そんなとこに原点があるもんだから。
三つ子の魂ってことで、わたしはとにかく「暗転」がキライ(笑)。
オギー、正塚、小池なんかほんと暗転使わないしな。キムシンも暗転率は低い。好き作家の条件には、暗転を使わない人、とゆーのがある(ただし植爺除く・笑)。
小柳タン作品とか、暗転の多さにむきーっとなった感想を、ここで書いていたりもしている。(忘れられない、芝居の間に暗転がある、というより、暗転の合間に芝居をしている駄作『アメリカン・パイ』……)
演出としての暗転はアリなんだけどね。たとえば主役の絶望感を表すためにあえて真っ暗にし、しばらく経ってから別の場面に移る、とか。
なにか表現するためならいいの。
ただの「舞台転換」で暗転されると、作品の評価が下がる。……わたし的に。
芝居はそれでも、舞台セットを全取り替えとかしなきゃいけなかったり制約があるから仕方ないと思ってもいるんだけど、ショーで暗転多用は「作者の手抜き?」と思う。
創意工夫でなくすことができるのに、それをしないってことだから。
ショーの本舞台のセット転換の間、保たせる方法なんかいくらでもある。
暗転でもカーテンでもいいけど本舞台を見えなくして、かわりに誰かカーテン前か花道に残しておけばいい。
芝居なら物語を続けるために台詞とか役とか必要だけど、ショーならてきとーに揺れてるだけでもOKじゃん。
スタークラスは着替えがある、とかなら、中堅でも下級生でも、5〜6人くらい、花道でポーズつけさせるだけでもいいんだし。
実際、今までの公演はそうやって乗り切ってきたんだろう、装置転換やスターの着替え。草野作品なら絶対狂言回しが登場するしな。
いいや、「演出」の暗転だ。場面ごとを区切るためにわざと、全部暗転させているのだ。
……としたら、その演出家とは好みが合わない、つーことで終了。
いくら「演出」で「効果」だとしても、全場面同じ効果しか使わないってどんな演出家だそりゃ。
それにわたし、場面ごとのぶつ切り、って好きじゃないんだ。メリハリはほしいけど、統一感も大切だから。
バラエティ・ショーだったとしても、ぶつ切りではなく、流れるように、手品のように、次々と展開していって欲しい。
暗転されると、そこでテンション落ちるんだよ。
高揚に水を差されるんだよ。
……あくまでも、わたしは。
気にならない人は、まったく気にならないんだと思う。
でもわたしの「演出」の評価ポイントのひとつに、場面から次の場面へどうつなぐか、というのがあるんだわ。安直な暗転は最下位評価。
つーことで。
いやあ、初日観たとき驚きました、『ミロワール』。
金ぴかオープニングの直後、ヅカでは、とくにショー作品ではありえないくらいの、長時間暗転。
ラジオでは何秒喋らないと放送事故になるんだっけ? ヅカでも、演出効果ではなくただの暗転が何秒続いたら進行事故とか、決まりがあったら引っかかってるんじゃあ? つーくらい、無意味に長かった。
や、繰り返すが芝居ではなくショーだから。しかもオープニングの直後だ。
オープニングで盛り上がったキモチをぶった切られ、かなりしょぼんなテンションになったのはたしか。
しかも暗転はこの1回きりではなく、とにかく場面ごとにあったので、わたし的にこの作品の評価は低い(笑)。
初日はとくに長かったのかな、最初の暗転。
2回目以降は、たしかに正味暗転してはいるけど、「進行事故?」と思うほど長くはなかった……と、思う。
ショー作品で長い暗転はない、と思い込んでいるから、余計に長く感じただけかな。
なんにせよ、びっくりした。
プロローグ直後って……。
とまあ、盛大に引っかかっている部分はあるにしろ。
今回の雪組公演、わたし的にたのしみなのはキムシンの芝居のみで、ショーにはまったく期待していなかった。
だから、どんな作品であってもべつにかまわないっちゃかまわなかったんだが。
意外にたのしくて、得した気分だ。
暗転さえ気にしなければ、ふつーにたのしいショーだ。わくわくわくっ。
今回1階でしか観ていないのだけど、友人たち曰く、「2階で観ると、すっごくきれい」なんだそうだ。
ほほお。2階席にやさしいショーは、いいショーだぞ。あ、でも客席降りあるから、真の意味ではやさしくないな(笑)。
タカラヅカらしく、美しくて夢を見ることの出来る、たのしい作品だ。
オーソドックスで目新しいことはないけれど、ソコが良いんだと思う。
『ラブ・シンフォニー』、『レビュー・オルキス―蘭の星―』とわたしの好みに合わないショー作品が続いてかなしかっただけに、『ミロワール』はおいしくいただきました。はい。
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