文化祭、おもしろかった。

 『第94期宝塚音楽学校文化祭』の感想なんだけど、ハリーファンとしてのハナシなんで、94期生のハナシではないっす。

 まずプログラムを開いて、芝居のタイトルを見るなりウケた。
 あ、今年の芝居も正塚なんだ、へー、『A MONOLOGUE』かあ……。え、『A MONOLOGUE』?
 配役を見ると、「ロベール」の文字が。

 『A MONOLOGUE』でロベールとくれば、「コム水で上演希望」と言っていた、あの話?

 みんなに愛され求められるイケメン好青年のロベールくんが、真実の愛を貫いて心中する話。
 ロベールくんを愛するものたちのなかに、彼の親友くんもいて。
 この親友くんが「お前、ソレは行きすぎだろう(笑)」ってくらい、本気でロベールくんを愛していて。
 当時、ロベール@コム姫、親友ジャンポール@水で見たいと、心から思ったもんだった。
 http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1321.html
 http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1322.html
  ↑過去日記。腐女子注意報付きだ(笑)。

 萌えはともかく(笑)、よくできた話だったので、再演は歓迎だ……あれ?

 「影」ってなんだ?

 配役表を見ると、知らない役がある。
 役名全部おぼえているわけではまったくないが、「影」なんて役がないことだけはたしかだ。
 で、よく見るとタイトルには『Vol.II』とある。

 再演じゃなくて改訂版かよ?!

 「影」というからには、抽象的な役だよね。
 正塚で「影」といえば「ブラックジャックの影」……主役の心を表現しちゃったりする、重要な役。
 んな役が増えてるってことは、多少手を加えました、バグ取りしただけのアペンド版程度ではなく、まったく別物と考えるべき?

 よくまとまったいい短編作品だったのに、それをさらに作者自らの手で改編って……オギーならよくやるけど、他作家ではまれなこと。
 ハリーはどう作ってくる?
 や、ファンとしては注目ですよ!!

 はい。
 本当に、別物でした。

 『マラケシュ』が博多座版『マラケシュ』になったくらいチガウ(笑)。
 博多座版『ドルチェ・ヴィータ』が大劇版になったくらいチガウ(笑)。

 大元のキャラクタと設定、そして台詞のほとんどは同じ。
 しかし、ストーリーの切り口がチガウ。

 てゆーか……。
 主役の相方が変わっている。

 2年前の『A MONOLOGUE 無印』は劇中劇だった。
 ロベール役の青年とヒロイン・フラウ役の女の子がふたりして物語を進めていた。
 どんな風に役を演じるか、ふたりで話し合ったり。

 ところが『A MONOLOGUE 2』は、主役のロベール役の青年ひとり、彼がたったひとりで「どう演じるか」を悩む。
 彼と対話するのは「影」……もうひとりのロベール。

 スカーレット2じゃないけど、ロベールの影くんは、奔放で正直。生真面目なロベールをびしびし追い詰める。

 劇中劇の色は薄れ、他の劇団員の出番はほとんどない。
 ほんとにロベール役の青年の内面に集中されるの。
 ヒロイン・フラウもロベール役の子の「同級生」のイメージを借りているだけだというし。
 より観念的に、メッセージ性を重く、大衆性は薄くなっている?(笑)
 正塚というより、オギー芝居みたい。

 『無印』では、当時の正塚内ブームだったらしい、「舞台中央に八百屋(あるいはそれに近い)舞台を作り、出演者は全員その脇の椅子に坐り、出番以外は舞台を眺めている」という手法だった。
 正塚は当時何故この手法にハマっていたんだろう? 『BourbonStreet Blues』『A MONOLOGUE』『スカウト』と3作連続で同じ手法だと、さすがに観ている方もアキるし、首を傾げる。そうまでして同じことをしなければならないナニが正塚にあったのだろう?

 で、今回の『A MONOLOGUE』改訂版もいちおー似た手法は取っているが、2年前の3作とはチガウ。
 たしかに舞台中央に八百屋(ではないが、段のある)舞台を作り、その両端に椅子を並べ、出演者はみなそこに坐っている。
 だがその中央の舞台つーのがとても大きく、ほぼ舞台全体を使っているんだ。2年前の3作は八百屋舞台が小さくて、両脇の椅子部分も十分作品の一部・演技のうち感がとても大きかったのに。
 今回は出演者が坐る椅子がものすげー隅なので、あまりそこにいることに意味が感じられない……。
 やっぱ2年前は正塚的に「ただのブーム」だったのか??(笑)
 
 劇団員たちの物語、ではなく、主役ひとりの物語になってしまったため、他の出演者=劇団員たちとの距離が遠くなってしまったのかもしれないが……「劇団員」が自分の出番になると「舞台の上で衣装を身につける」ところから観客の目に晒され、「ライトがあたった」瞬間から「役」になり、「演技がはじまる」という手法が薄くなってしまったのは、気になる。

 この、脇の椅子にいるときから「劇団員」ではなく「役」の演技をはじめたのは、他の誰でも主役でもなく、「影」ただひとりだったんだよなあ。
 このあたりも、正塚とゆーより、オギー的印象の演出だ(笑)。

 長くなるので、続く。


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