去年の今頃の日記ときたら、あちこちにオサ様退団におびえることばかり書いてある。
エイプリルフールの日記はそのことだけだし。
『アデュー・マルセイユ』というタイトルが前年末に発表になったときから、こわくてこわくてしょうがなかった。
『TUXEDO JAZZ』のオサ様暴走っぷりに心酔し、心から日々をたのしんでいるのとうらはらに、確実におびえていた。
ひとつのことしかできないので、普段のわたしの生活には「音楽を聴く」という習慣がない。
音楽を流してしまったら、音楽を聴くことだけに集中して他のなにもできなくなるので日常生活からそれだけ時間が減ってしまうことになる。
他のなにを置いても聴きたい場合でないと聴かない。CD1枚聴くと決めたら、50分時間を捻出しなければならないわけだから。(それくらいなら音楽ではなくDVDを観るなりして聴覚視覚両方でたのしむ……ために、ほんっとーに音楽だけ抽出してわざわざ聴かない)
ところがまあ、ここんとこちょっと時間があって。
やりくりして捻出しなくても、なにをしていてもいい時間、というのができた。
つーことで『TUXEDO JAZZ』を聴いていた。『舞姫』もえんえんえんえん聴いていたけれど。
堪えたのは、『TUXEDO JAZZ』だ。
天才・春野寿美礼の才能が野放しになっていた、あの公演。
音は自在に伸び、遊び、枠を超えて、未知の世界で自由に踊っていた。
なんてすごいものを観たのかと思う。
そして、今はもうこの歌声に「会えない」のだということに、たまらない喪失感を抱く。
CDなんかじゃダメだよ。
ナマでなきゃヤだ。
会いたいよう、オサちゃん。
カオスを支配する、あの音楽の帝王に会いたい。ひれ伏したい。
『TUXEDO JAZZ』から、1年かぁ。
2007年2月から5月。歌詞に歌われていたので、上演期間は忘れようもない(笑)。
あのころ、不安だったけれど、幸福だった。
春野寿美礼がいる、存在する幸福。
タイムマシンがあるなら、1年戻りたい。
『TUXEDO JAZZ』で、混沌の中で哄笑するあのひとに会いたい。あの歌声を聴きたい。
エイプリルフールの日記はそのことだけだし。
『アデュー・マルセイユ』というタイトルが前年末に発表になったときから、こわくてこわくてしょうがなかった。
『TUXEDO JAZZ』のオサ様暴走っぷりに心酔し、心から日々をたのしんでいるのとうらはらに、確実におびえていた。
ひとつのことしかできないので、普段のわたしの生活には「音楽を聴く」という習慣がない。
音楽を流してしまったら、音楽を聴くことだけに集中して他のなにもできなくなるので日常生活からそれだけ時間が減ってしまうことになる。
他のなにを置いても聴きたい場合でないと聴かない。CD1枚聴くと決めたら、50分時間を捻出しなければならないわけだから。(それくらいなら音楽ではなくDVDを観るなりして聴覚視覚両方でたのしむ……ために、ほんっとーに音楽だけ抽出してわざわざ聴かない)
ところがまあ、ここんとこちょっと時間があって。
やりくりして捻出しなくても、なにをしていてもいい時間、というのができた。
つーことで『TUXEDO JAZZ』を聴いていた。『舞姫』もえんえんえんえん聴いていたけれど。
堪えたのは、『TUXEDO JAZZ』だ。
天才・春野寿美礼の才能が野放しになっていた、あの公演。
音は自在に伸び、遊び、枠を超えて、未知の世界で自由に踊っていた。
なんてすごいものを観たのかと思う。
そして、今はもうこの歌声に「会えない」のだということに、たまらない喪失感を抱く。
CDなんかじゃダメだよ。
ナマでなきゃヤだ。
会いたいよう、オサちゃん。
カオスを支配する、あの音楽の帝王に会いたい。ひれ伏したい。
『TUXEDO JAZZ』から、1年かぁ。
2007年2月から5月。歌詞に歌われていたので、上演期間は忘れようもない(笑)。
あのころ、不安だったけれど、幸福だった。
春野寿美礼がいる、存在する幸福。
タイムマシンがあるなら、1年戻りたい。
『TUXEDO JAZZ』で、混沌の中で哄笑するあのひとに会いたい。あの歌声を聴きたい。
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