全国ツアー『外伝 ベルサイユのばら-ジェローデル編-』のお話です。

 「ジェローデルを主役」に物語を回すためのあれこれ話、その2。

 最初の1場でそうやって、「オスカルってどんな人?」「オスカルとジェローデルはそもそもどんな関係?」「ジェローデルとソフィアの出会い」をクリアしたら、次に「ジェロを主人公として」物語を回すために描かなくてはならないことは、「オスカルとの恋の決着」だ。

 ジェローデルが『ベルサイユのばら』の主人公になれるとしたら、それはまちがいなくオスカルを愛し、身を引いた男である、という一点があるからこそ、だ。ここをきちん描かないと『ベルばら』である意味がない。

 代替案を出すとき、今ある作品をベースに考えるのがMyルールなんで、あくまでも今の植爺作『ジェローデル編』をそのまま使うようにすると、「ジャルジェ家での婚約話」「婿選び舞踏会」「平民議員の楯になるオスカル」はそのまま。
 ただ、恋の決着をきちんとつけるために、修正する。
 まずなんつっても、2番手にアンドレを演じさせる。
 これは必要最低限、必須の修正だ。
 そしてオスカルを取り巻く三角関係を成立させる。
 「ジャルジェ家での婚約話」できちんとアンドレを出し、いずれこの男のためにジェロがオスカルに振られるのだということを描く。

 植爺にとって『ベルばら』はコメディなのか、貴婦人方のお笑いシーンは絶対必要らしい。入れなければならないのなら、入れるべきは「オスカル様婿選び舞踏会開催」前にだ。
 「オスカル様が結婚?!」「絶対反対!」ときーきー歌い踊らせればいい。
 それだけやっておけば、少なくとも舞踏会でプラカードを出さなくても、彼女たちの立ち位置は誰にでもわかると思う。

 舞踏会をめちゃくちゃにしたあと、ジェローデルがオスカルに「あなたが痛々しい」てな台詞を言わせてくれ。
 ビルのお披露目パーティにランベス流で乗り込んできたサリーじゃないけど、捨て身でパーティをぶちこわす女の子が、どれほどぎりぎりのところで闘っているか。その強がりを、力の入った肩を抱きしめてあげられる男は、すげーポイント高いんだから。

 だが植爺脚本は原作のつぎはぎで、しかも順番その他めちゃくちゃだから、辻褄が合わない。
 今回も原作にあるジェロとオスカルのやりとりは何故か全部、舞踏会前に団子にして突っ込まれてるんだよね。順番もなにも関係なく。ただ原作にあったから、というだけで、バラもないのに「あなたはバラを食べるのですか」だし。
 原作に何故その台詞があるのかを、まったく理解していないことを自分で暴露してんだよなー。アホだなー。恥ずかしいなー。
 婿選び舞踏会をめちゃくちゃにしたあとだからこそ、そこで「あなたを理解している」とジェロが示してくることにオスカルは動揺するんだ。
 ジェロがめっさかっこいい場面なのに、舞踏会前に団子に突っ込まれているだけだから、活きてこない。植爺のバカ。

 で、舞踏会後にオスカルに迫り、時間の関係で、ここであっさり振られるべきだと思う。
 1時間半の舞台だから。
 「オスカルがどんな人物か」「オスカルとの恋の決着」は描かなくてはならない重要事項だけど、忘れちゃいけない、ヒロインはソフィアだってば。
 時間短縮、ここで一気に「身を引きましょう」までやる。

 次の見せ場である「平民議員の楯になるオスカル」に行く前に、ジェローデルは、オスカルをあきらめていなければならない。
 何故か植爺脚本には、ジェローデルが身を引く場面がない。平民議員が会議場に立てこもるときにもまだ、この作品上ではジェロはオスカルに振られていない、「プロポーズは有効」という状態になっている。
 オスカルの前で卑怯者にはなれない、たとえそのために自分が反逆者として処分されても、と武器を収めるジェローデル。このとき彼のプロポーズがまだ「有効」だとまずいの。「ここで点数を稼いだら、彼女の歓心を買えるかも?」という打算がほんの少しでも存在する余地があってはならないんだ。
 彼女は決して自分を愛さない、すでに他の男のものである……それでもなお、彼女のために人生を捨てるからこそ、ジェローデルという男がかっこいいんだ。

 「ジェローデルのような脇役を主役にして『ベルばら』描くことなんかできない」のではなく、「植爺には出来ない」ですよ。
 ジェロは十分「主役」たりえるキャラクタを持っている。

 ジェローデルという男がなにゆえにかっこいいのかを、植爺は理解していない。
 彼がかっこいいところをいちいちはずして描いているのだから、そりゃ主役にはならんわ……。

 オスカルがヒロインなら、「平民議員の楯になるオスカル」場面で盛り上げて、その後彼女が革命に身を投じて戦死、それをどこぞで知ったジェロの嘆きとかで幕にしてもいいんだけど。
 なにしろヒロインはソフィアだから。

 次にこの物語で描かなくてはならないことは、「ソフィアとの恋」です。
 まず「オスカルとの恋」を描くのは、これがあくまでも『ベルばら』だから。ここに関連がなきゃ『ベルばら』である意味がない、なにか他の名前の作品でいい。先にオスカル。
 次が、ヒロインのソフィア。順番で行くとこうなるけれど、カギカッコとかで表すと違ってくるのよ。

 『「ジェローデルの人生+オスカルとの恋+革命+貴族etc.」+ソフィア』

 ソフィアは「最期にたどり着く場所」であり、「聖母」。
 すべてのものを受け止める位置にいる女性。だからこそ、最後にジェロは命の残り時間を使って彼女に会いに来て、彼女の腕の中で息絶える。

 物語の要所要所に、ソフィアを登場させる。
 フェルゼン様がお笑い的に登場して空気をぶった切って前座を務めたあとソフィア登場、なんてコントを繰り返すのではなく、物語の中にソフィアを置く。
 婿選び舞踏会に彼女も出席し、ジェロの「身を引きましょう」を目撃させちまえ。跪いて宣言するジェロは、女が一目惚れするに相応しい、オトコマエさだ。
 ここでソフィアを「知的な女性」として冷静に奥ゆかしく描けばいい。社交界的にものすげーゴシップになる場面を目撃したのにソフィアは口をつぐみ、ジェロとは文学やらなんやらの話だけする。
 ジェロからしたら「見られた?」のに、それを黙って「なかったこと」として振る舞うソフィアに一目置くだろう。

 オスカルのために命令無視をし、非難を浴びるジェローデル……つー場面を作り、そこでもソフィアの大きな愛とジェロの心の交流を表現する。
 ジェロがあのあとどうなったのか原作にも記述がないのでわからないが、それゆえにいくらでもでっち上げられるってもん。
 即逮捕投獄、ではなく、大貴族ゆえ正式に処分が下るまで謹慎になっていたとして、誰もがジェローデルのもとから去っていくのに、ソフィアひとりが以前となんの変わりもなく文化的な語らいのためにジェロの元を訪れる、とか。
 投獄されたとしても、ソフィアが会いに来るとか。

 ソフィアは決して愛を押しつけない。ことさらに騒いだりしない。「友人」「理解者」の立場で、ただひたすらジェロを癒そうとする。
 ジェロも彼女に惹かれているが、決してベタついた言動は取らない。
 観客にはふたりが愛し合っていることがわかるのに、ふたりは「友人」の立場を崩そうとしない。
 寄り添い合うことがないままデュエットしたり、別れ別れに終わるダンスをしたりで、盛り上げてくれ。
 そして「再び会う約束」をする。

 ……で、植爺作の「ナポレオン暗殺未遂後」の修道院のラストシーンへ帰着。

 翌日欄へ続く。

 

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