あまりに初演を愛しているので。

 新しい『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』すべてを、肯定できるわけじゃない。

 WSだから当然なんだが、出演者の技術が低い。
 この作品は、もっとあたりまえに「舞台人」である人々に演じて欲しかったと思う。
 ひとりずつ、どの子がどう弱かった、どこが足りなかった、と挙げるのではなくて。

 オーディエンスが不要だと思えることが、つらかった。

 『凍てついた明日』の特徴であった、「オーディエンス」という役。
 中央で進む「物語」を、ただ見つめる人々。
 同じ舞台の上にいながら「物語」の中にはおらず、しかしときおり関与して、また距離を置く。その絶妙さ。

 しかし、今回の再演WSを観て、初演であんなに感動したオーディエンスを、ウザく感じた。

 「中央」と「周囲」の差が、あまりないためだ。

 初演はどこが舞台の真ん中か、「物語」がどこで「オーディエンス」がどこか、迷うこともなかった。
 「物語」の中にいる人々は明らかな存在感でもって、外にいる人々とチガウことを示していた。
 作り込まれたビジュアルにしても、発声や所作、演技という技術にしても。
 何人舞台にいようと関係なかった。オーディエンスは邪魔にはならなかった。

 だが残念ながらWSでは、役のある人たちとオーディエンスに、見た目も技術も存在感も、大した差がなかった。
 そのため、なんだかいつもぞろりと同じような人たちが舞台にいる、うっとーしさがあった。

 オーディエンスいらないよ、もっと真ん中の芝居に集中させてくれ。
 ……そう、何度も何度も何度も思った(笑)。

 仕方ないことなんだけどね。
 初演と技術を比べて嘆息したって。
 そして、オーディエンスとして舞台にいることで、若者たちが成長するのだということもわかっているから、この作品がWSである以上、作品のクオリティが下がったとしてもオーディエンスを削るべきではないことも、わかっているんだよ。

 だからこれはただの、初演ファンのしがない愚痴だ(笑)。
 がんばれ、若者たち。

 
 あずりんがどれほど好みだったか、美しかったか、ガオリくんがどれほどかっこよかったか、美しかったか、れのくんがどれほどその美しさで画面に花を添えていたか……を語る前に、やっぱ主役の話をしようと思う(笑)。

 クライド@凰稀かなめ。

 なにをさておき、美しかった。

 美しいことは才能だけど、それだけでは、わたしには魅力的と思えない。だからかなめくんはここのところ、わたしの視界にあまり入ってこなかった。
 もって生まれたというだけの美しさより、努力と鍛錬で作り上げた技術にこそ惹かれる。
 かなめくんが努力していないという意味ではなく、結果として目に映る部分が、わたしの好みではなかったというだけのこと。

 そーやってスルーして来た、彼の美しさに、射抜かれる。
 

 クライド・バロウは、ダメな男だ。
 ふつーの人がふつーにやっていることができず、楽な方へ楽な方へ堕ちていく。
 彼の望みは「逃げ続けること」……現実を受け入れるのでもなく、闘うのでもなく、あきらめるのでもなく……逃げること。考えることを先送りにし、現実から目を背け、あてもなく夢想する。
 ドラえもんと会えなかったのび太みたいなもん。言い訳と責任転嫁だけのどん底人生。

 そのどーしよーもない男が、ただもー、美しい。
 どんな泣き言も甘えも、「美しい」というだけで説得力になる。

 たぶん彼には、別の人生があった。
 テッド@ヲヅキが言うように。クライドとテッドに、それほどの差はない。だけど彼らは法のあちら側とこちら側に分かれてしまった。

 かけちがってしまったボタン。ずれたままの積み木。
 それは昨日今日のことではなく、もっとずっと以前から、小さな歪みが積み重なって、現在の破滅へつながった。
 その小さな歪みは、わたしたちの日常にあるかもしれない歪みで。
 たまたまクライドがその歪みに飲み込まれただけで、彼が特別どうだからということではなく、誰でも彼になりえたのではないか、と、思わせる。

 クライドは若い。現実にわたしたちの周囲にふつーにいそうな若い未熟な青年だ。
 彼の美しさは、彼の「若さ」だ。
 それはかなめくん自身が美しいということなんだが、彼自身が美しいことで、その若さと未熟さ……大人になりきれずにいる幼さが舞台上で無理なく表現されていると思うんだ。
 少年であること、大人でないこと、未熟であること……「未完成である」という美は、たしかにある。
 完成したものにはない、大人にはない、過渡期にだけ存在する刹那の美しさ。

 それが、凰稀かなめのクライドの、魅力だと思う。

 「ここではないどこか」を夢見る少年。今日の続きではない、ありはしない「明日」を夢見る少年。
 それは決して、クライドだけのことではない。

 クライドの心許ない姿が、「いつか少年(少女)だったことのある人々」の胸に、波紋を起こすのだろう。
 彼が抱える痛みを、絶望を、たしかに味わったことのある、かつて子どもだった人々に。

 再演ではとてもわかりやすく、「ふつーの人はそんなふうに考えない」と、クライドは愛する人たちから引導を渡される。で、いちいち「がーん」と傷つく(なんて演出だよ、オギー・笑)。
 「ここではないどこか」を夢見る少年の背中を、わかりやすく押してくれる。
 ほら、アレだな。
 「ボクのほんとのママはどこか別にいるんじゃないかな。だってママはすぐ怒るし。ボクのこと、好きじゃないのかも」なんてことを、漠然と思っているがきんちょが、ママの関心を惹きたくていたずらして叱られて、「こんな悪いことをする子は、ウチの子じゃありません!」と言われて「がーん。やっぱりボクは、ママの子じゃなかったんだ。ボクのママはどこか別のところにいるんだ」と思い込む感じ?(笑)
 初演とは違い、この再演WSのクライドには、そーゆーいとけなさ、愛らしさが必要なんだ。

 未完成であるがゆえの孤独や絶望が胸にいたい。
 モラトリアムを過ぎれば、望むと望まざると越えていけるものだと、すでに大人になってしまったわたしは知っているけれど、今まさにその直中にいる彼には、ただ現実は過酷なばかりで。

 大人になる前に道を違えてしまった彼が、ゆっくりと壊れていく様が、哀しい。

「どこに行きたいの、ボニー」
「なにが欲しいんだ、クライド」

 行きたいところも、欲しいものもなく。
 ただ、「ここではないどこか」を求め続けて。

 「愛している?」と問われ、「愛したい」と応える絶望。

 それら全部をすべて突き抜ける、運命の夜。
 目の前で撃たれたボニーを抱きしめるクライドの、肩のラインに泣けた。

 今まで、自分だけしか視ることが出来ずに喘いでいた少年が、全存在を懸けて、ひとりの少女を守っていた。
 自分の身体を楯にして、銃弾の雨の中、ボニーを抱きしめ続けた。

 ボニーを失ったら、彼はひとりぼっちになる。
 この暗い世界で、ひとりぼっち。
 その、恐怖。その、現実。
 もう見ないふりをして逃げ続けることすらできない。

 はじめて視た、自分以外の誰か。
 自分と同じカタチに魂の欠けた、もうひとりの自分。

 ボニーを視ることで、クライドは扉を開ける。彼の中の、次の扉。
 ……開けてはならない扉だったのかも、しれないけれど。

 生還したボニー@みなこちゃんの狂気は鳥肌モノだったが、それに対峙するクライドの突き抜けた透明感は、ちがった意味でこわかった。

 美しいひと、クライド。
 ああ君は、そんなところまで、行ってしまったんだね。

 かなしかった。
 ただもお、かなしかったよ。

 クライドが、美しすぎて。

 二度と戻れない場所へ、足を踏み入れてしまったゆえの、美しさが。


コメント

日記内を検索