ただ、こわかった。
 恐怖ゆえに、泣いた。

 雪組WS『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』Bチーム。

 主演者は同じで、ヒロインたち周囲のメインキャラが役替わりするイレギュラーな公演。

 1幕で激しい違和感に襲われたのは、ボニーが、ボニーじゃないということだ。

 史実を元にして書かれているから現実のボニーに対してどうだとか、有名映画があるからそこで描かれているボニーに対してどうだとか思うわけじゃない。
 これは荻田浩一のオリジナル作品だから、史実も映画も無関係だ。唯一印象を縛るモノがあるとすれば、それは初演の『凍てついた明日』のみ。
 それすら、演技に正解があるわけではないし、初演と再演は別物であっていいと思っている。

 と、理解していてなお、とまどう。

 このボニーは、チガウ。

 そこにいるのは、ふつーの女の子だった。
 当時のアメリカですらない。現代の、日本人の女の子だ。
 公立高校でクラスメイトだった不良のかっこいい男の子と恋をして、あっという間に結婚。幼稚で短絡な関係だからもちろんあっけなく破綻、ハタチになるころには離婚、みたいな。
 不況と言ってもレベルがチガウ、選ばなければ仕事はいくらでもある、現代日本。世間に対し漠然と不満だけ持ったフリーターの少女。責任転嫁はすでに習性、被害者意識だけがつねにある。

 ボニーがあまりにもふつーの女の子で。
 この子が「ボニー&クライド」のボニーである意味がどこにあるのか、とまどった。

 ボニーが色を失い、アニスがヒロインとして確固たる輝きで存在した。
 「クライド」という青年の物語のヒロインはアニスで、彼の物語のなかにボニーはいなかった。旅の道連れとなる仲間たちと同等の位置にあるだけ。
 だが一応「ボニー&クライド」と銘打っている物語なので、「ボニー」というキャラクタも存在する。クライドの物語では脇役だが、それとは別に「ボニー」を視点とした物語も平行して存在するんだ。ボニーの物語の中では、もちろんクライドはただの脇役だ。
 クライドとボニー、無関係なふたつの物語が、交互に描かれている。

 暗い情熱と倦怠に支配されたクライドの物語、幼い自己完結の中にいるボニーの物語。
 ただの道連れでしかないふたりだから、互いのことはなんとも思っていない。

 ふつうの少女で、ふつうゆえに不良に惹かれる癖のあるボニーは、またしても不良青年クライドに惹かれる。高校時代、不良少年ロイに求められ、浅慮に結婚してしまったのと同じように、クライドに依存することで安易に救われようとする。
 ふつう、であるがゆえの自己憐憫と逃避っぷりが、鼻につく(笑)。
 現代の若者のアホっぷりを見るようで。自分の痛みには過敏で大騒ぎするくせに、他人の痛みには鈍感。ナイフを持って登校する高校生程度のメンタル。自分を守ることばかり考えて、他人を傷つけることにはなんの罪悪感もない。

 ボニーがジョーンズと話す場面があるんだが、ここでもボニーは「母性」というものが欠如していることを露呈した。
 演出も初演とも再演Aチームともちがい、ボニーはジョーンズをあやすようなアクションを取らない……のは、役者の母性の無さに対する、演出家の答えか。
 ただ話しているだけで、彼女は自分のことしか考えていない。狭い狭い視界と感覚で生きる、平凡で愚かな少女。

 クライドはアニスへの愛ゆえにコワレてしまっているが、ボニーは幼稚さゆえにまちがっているだけのふつーの女の子、に見えてつらい。悩まれても可哀想に見えない。感情移入できない。

 「ボニー&クライド」であっても、主役はクライドなわけだから、いくらボニー視点があるといっても、クライドに愛されていないキャラクタは、比重が低い。
 主役に顧みられない上に、本人にも感情移入できないキャラクタだと、出番が多いだけにつらいなあ。つか、なんのためにいるの、この子? と、首を傾げる。

 それが。
 2幕の運命の夜、警官隊の襲撃場面でそれらの答えが出る。

 旅の終わりがなんとなく見えはじめているころ、クライドは心の聖域・兄バックがただの幻でしかないことを自嘲と共に自覚する。仲間たちの心は離れ、共に行動してはいるが、ぎくしゃくしている。
 そんなときの警官隊の襲撃。指揮を執るのは特別捜査官フランク。

 この襲撃場面が。

 こわかった。

 フランクを演じるのは、ハマコ。圧倒的な、実力の違い。舞台人としての、格の違い。

 ハマコは、この公演で明らかに浮いていた。
 実力のおぼつかない若手たちと、なにもかもがかけ離れていた。彼が声を出すだけで、「そこに世界のチガウ人がいる」とわかってしまう。
 だから彼は記者として、外側から物語を見つめる人であり、クライドの聖域バックを演じるしかなかった。この世のモノではない役、限定だ。
 聖域バックであるからこそ、天敵フランク役を兼ねることは、『凍てついた明日』の根幹だからはずせない配役だが、それにしてもフランク役が世界観から浮いているのは、気になっていた。

 その、圧倒的な力で。

 ささやかな子どもたちの世界が、踏みつぶされる。

 襲撃場面に響き渡るのは、ハマコの歌声。
 再演用のオリジナル曲。
 この歌声が、容赦ない。

 喘ぐことすら出来ない、強大な力。異を唱える隙も、哀願する余地もない。
 ただ、叩き伏せられる。

 それまで、クライドとボニーたち視点で物語は存在した。
 ボニーはあまりにふつーの女の子で、彼女が「わたしだけが特別、わたしだけが傷ついている」と子ども特有の傲慢さで後生大事に抱え込んでいた悲劇、箱庭の中で自分だけに都合の良いお人形遊びをしていたささやかな子どもの王国が、大人の力によって、壊滅させられる。

 無力だった。
 ちっぽけだった。

 彼女たちが、「世界」だと思って悦に入っていたモノ、すべてが。

 大人の前では、なんの意味もない。
 花畑で「プリンセスごっこ」をしていた少女たちのもとへ、大人がブルドーザーでやってきて、彼女たちが草で何時間も掛けて作ったお城を土から掘り起こして殲滅するような、容赦のなさ。次元の違い。

 ボニーがあまりにもふつーの女の子で、無力で、愚かで、ちっぽけだから。
 彼女と同等の比重だった他メンバーたちもまた、無力な子どもたちだから。

 愚かでもちっぽけでも、子どもには子どもの世界がある。
 大人から見ればただのガラクタでも、彼らにとっては宝物、秘密基地、夢のお城。
 大人から見れば鼻で笑ってしまうようなことでも、彼らには生きるか死ぬかの深刻な苦悩。
 それまでミクロな視点で子ども世界の悩みや苦しみを描いてきたのに……彼らの計り知れない巨大な力で、それを叩き潰されるなんて。

 
 子どもたちが大人の力でねじ伏せられる、その容赦無さがこわくて、ただこわくて、涙が止まらなかった。

 その圧倒的な力のなかで、さらに壊れるクライド。
 銃弾の中で、呆然と立ち尽くす姿。

 あまりに、無力で。
 彼らが後生大事に抱え込んでいた夢のお城は、こんなにも脆くて。

 こわくて、かなしくて、痛くて。

 ボニーがふつうの女の子でしかなかったからこそ、そのふつーの子どもたちに加えられる、「大人」の暴力が、権力が、正義が、こわかった。


コメント

日記内を検索