ラストシーンの変更は、ナニを意味するのか?
『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』は、AチームとBチームではまったく物語が別物だったし、ラストシーンも違った。
ふたりが警官隊に蜂の巣にされるラスト、銃撃音が響く中。
Aチームでは、クライドとボニーは抱き合って静かに微笑していた。「ボニー&クライド」としてのふたりが浮かべている、もっともスタンダードな表情だった。台詞はない。
ちなみに、初演は白い衣装に着替えたふたりがひしと抱き合い、「愛してる」。再演Aチームはそこまでちゃんと抱き合っていないし、衣装もそのまま。
Bチームでは、クライドとボニーは、抱き合うことすらなかった。
見つめ合いはするが、別々に立っているだけ。
そして、銃撃音が終わったあとは共に正面を向き、視点すら合わせない。クライドが手前に立ち、ボニーは後ろから「愛してる」とつぶやく。
解釈は観た人の数だけあるのだろう。
ボニーがヒロインに見えなかったわたしには、Bチームのラストシーンは衝撃的でした。やっぱヒロインぢゃなかったのか、と(笑)。
ただの道連れでしかなく、どーでもいいと思っていた相手だが、警官隊の襲撃を受け、ボニーが撃たれたあとは「逃避行の道連れ」ではなく「黄泉路の道連れ」となったふたり。
現実から乖離しはじめた彼らは、ひとりで死ねない自殺志願者がサイトで道連れを募るよーに、ふたりだけで走りはじめる。
でも所詮は「道連れ」でしかないんだよね。そこに、愛はない。
だから最期のときも抱き合わない。触れあわない。心にあるのは、別の人。
ボニーの「愛してる」の台詞の浮きっぷりも、それがクライドに対して言ったものじゃないからだろう。クライドも背を向けたままだし。
Bチームの主人公はクライドだったので(Aチームはボニーだった)、彼中心で見ると、道連れにしたのがこんな女でしかなかった彼の行き詰まり感に、なお悲しくなる。
クライドもボニーも愛する人と生きていけない悲しみから、道を誤っている。
クライドはアニスと相愛であるにも関わらず、魂の違いから共に生きていけないために、互いが互いを失った。
でもボニーはチガウんだよね。彼女は夫のロイを愛していながら離婚するわけだけど、別に、そんなに好きなら彼を選べばよかったんだよ。ロイといれば不幸になる、彼もボニーを愛しているかわからない……つまり、自分を守るために別れたんだ。
いわばアニスの立場だけど、アニスは別のチンピラと逃げたりしない。クライドを捨ててまで選んだ自分のテリトリーでちゃんと生き続ける。どんなに苦しくても。……そんな女だからこそクライドが愛し、また、別れなければならなかった、とわかる。
ボニーはろくでなしのロイと別れたのに、結局またろくでなしのクライドと一緒になる。それならはじめから、ロイについていけばよかったんだ。彼と地獄まで行く覚悟がなかったくせに、代用品相手に身を汚すことで自分を哀れんでいる。
根本的な飢えや狂気や倦怠や、いわゆる「ボニー」を感じさせるキャラクタではない平凡感、小物感ゆえに、彼女が「不幸」だと思っていることが矮小に思えてならない。
クライドはボニーを道具として見ていないのだから、お互い様ではあるんだけれど、そんな小物な女しか最期に残らなかったんだ。
たぶん、自分の意志で、残さなかった。
テッドの愛にクライドが気づいていたかどうかは疑問だが、ジェレミーの愛情には気づいて然るべきだろう。
しかしクライドは、とことん鈍感だった。
ジェレミーがクライドを熱愛し、渇望しても、クライドはかわしていた。それは「気づいてはいけないこと」だったんだろう。
アニスを失い、心の聖域を架空の兄バックにのみ求めた彼は、現実に自分を愛している者の存在は、不要だった。
ジェレミーの愛に気づいてしまったら、彼はまた世俗の愛憎に、この世界に足をつけて思い悩むことになる。アニスとの別れで疲れ切った彼には、もうこれ以上愛であれ憎であれ、心を費やしたくなかったんだろう。
だから彼は、ボニーに手を伸ばした。
傷つけてもいい、どーでもいい相手。
自分が愛しているわけでも、自分を愛しているわけでもない女。
そんなどーでもいい相手を、心中の相手に選ぶところまで追いつめられた、クライドの壊れ方が、悲しい。
ボニーが脇役になっているため、Bチームではジェレミーの比重が上がっている。
Bチームのジェレミーはちゃんと「若い男」だ。少年ではあるが、Aチームのジェレミーのような「子ども」ではなく、大人ではないという意味での「少年」だ。
最初年上のボニーに憧れているが、次第に同世代の少女ビリーと愛し合うようになる。
クライドを尊敬し、かなりの熱を持って愛している。尊敬の念とは別に、彼の弟分ではなく片腕に……親友になりたいと思っている。同等になりたいのではなく、愛する人を助けられるだけの力が欲しいと思っている。
この子の存在があざやかな分、クライドの孤独、別れの悲劇が際立つ。
初演の泣きポイントはいくらでもあるが、ジェレミーに感情移入したときの爆発的なカタルシスが印象的だったために、再演Aチームを観たときに、ジェレミーのあまりに軽い扱い、感情移入どころじゃない脇役ぶりに拍子抜けしたんだが。
Bチームではちゃんとジェレミー視点が存在した。
最後の「死にに行かなくてもいいじゃないか!」の台詞にたどり着くまでの「ジェレミー」というキャラクタが見えた。
子どもではなく、若い男として、クライドより年下の少年として、クライドを熱愛している存在。や、腐った意味ではなく(笑)。
アニスはクライドを愛していたけれど、彼と共に堕ちてはくれなかった。
ボニーは共に堕ちてくれたけれど、彼を愛してはくれない。
ジェレミーだけが、クライドを愛し、彼と共にどこまでも堕ちてきた。彼の行くところへ、どこまでもついて行こうとした。
ずっとずっと、そばにあった。
クライドは、それに気づくだけでよかった。振り返るだけでよかった。
ジェレミーの愛を受け入れれば、違う明日があっただろう。
でもクライドは、それをしなかった。
本能的に。
無意識に。
ジェレミーの愛に気づかないよう、防御した。
もう、行く道は決まっていたから。
別の明日を探すことはやめ、ボニーの手を取って進んだ。
ある意味、ジェレミーもアニスと同じだったのかもしれない。
「ジェレミーはチガウ」から、と共に行くことを拒むのは、アニスと別れたのと同じ理由かもしれない。無意識であったにしろ。
そうしてクライドは、ボニーと抱き合うことすらなく、最期のときを迎える。
死してなお、ひとりで微笑む。ボニーを振り返りもせず。目線すら与えず。
その、いびつな魂。
その、孤独。
『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』は、AチームとBチームではまったく物語が別物だったし、ラストシーンも違った。
ふたりが警官隊に蜂の巣にされるラスト、銃撃音が響く中。
Aチームでは、クライドとボニーは抱き合って静かに微笑していた。「ボニー&クライド」としてのふたりが浮かべている、もっともスタンダードな表情だった。台詞はない。
ちなみに、初演は白い衣装に着替えたふたりがひしと抱き合い、「愛してる」。再演Aチームはそこまでちゃんと抱き合っていないし、衣装もそのまま。
Bチームでは、クライドとボニーは、抱き合うことすらなかった。
見つめ合いはするが、別々に立っているだけ。
そして、銃撃音が終わったあとは共に正面を向き、視点すら合わせない。クライドが手前に立ち、ボニーは後ろから「愛してる」とつぶやく。
解釈は観た人の数だけあるのだろう。
ボニーがヒロインに見えなかったわたしには、Bチームのラストシーンは衝撃的でした。やっぱヒロインぢゃなかったのか、と(笑)。
ただの道連れでしかなく、どーでもいいと思っていた相手だが、警官隊の襲撃を受け、ボニーが撃たれたあとは「逃避行の道連れ」ではなく「黄泉路の道連れ」となったふたり。
現実から乖離しはじめた彼らは、ひとりで死ねない自殺志願者がサイトで道連れを募るよーに、ふたりだけで走りはじめる。
でも所詮は「道連れ」でしかないんだよね。そこに、愛はない。
だから最期のときも抱き合わない。触れあわない。心にあるのは、別の人。
ボニーの「愛してる」の台詞の浮きっぷりも、それがクライドに対して言ったものじゃないからだろう。クライドも背を向けたままだし。
Bチームの主人公はクライドだったので(Aチームはボニーだった)、彼中心で見ると、道連れにしたのがこんな女でしかなかった彼の行き詰まり感に、なお悲しくなる。
クライドもボニーも愛する人と生きていけない悲しみから、道を誤っている。
クライドはアニスと相愛であるにも関わらず、魂の違いから共に生きていけないために、互いが互いを失った。
でもボニーはチガウんだよね。彼女は夫のロイを愛していながら離婚するわけだけど、別に、そんなに好きなら彼を選べばよかったんだよ。ロイといれば不幸になる、彼もボニーを愛しているかわからない……つまり、自分を守るために別れたんだ。
いわばアニスの立場だけど、アニスは別のチンピラと逃げたりしない。クライドを捨ててまで選んだ自分のテリトリーでちゃんと生き続ける。どんなに苦しくても。……そんな女だからこそクライドが愛し、また、別れなければならなかった、とわかる。
ボニーはろくでなしのロイと別れたのに、結局またろくでなしのクライドと一緒になる。それならはじめから、ロイについていけばよかったんだ。彼と地獄まで行く覚悟がなかったくせに、代用品相手に身を汚すことで自分を哀れんでいる。
根本的な飢えや狂気や倦怠や、いわゆる「ボニー」を感じさせるキャラクタではない平凡感、小物感ゆえに、彼女が「不幸」だと思っていることが矮小に思えてならない。
クライドはボニーを道具として見ていないのだから、お互い様ではあるんだけれど、そんな小物な女しか最期に残らなかったんだ。
たぶん、自分の意志で、残さなかった。
テッドの愛にクライドが気づいていたかどうかは疑問だが、ジェレミーの愛情には気づいて然るべきだろう。
しかしクライドは、とことん鈍感だった。
ジェレミーがクライドを熱愛し、渇望しても、クライドはかわしていた。それは「気づいてはいけないこと」だったんだろう。
アニスを失い、心の聖域を架空の兄バックにのみ求めた彼は、現実に自分を愛している者の存在は、不要だった。
ジェレミーの愛に気づいてしまったら、彼はまた世俗の愛憎に、この世界に足をつけて思い悩むことになる。アニスとの別れで疲れ切った彼には、もうこれ以上愛であれ憎であれ、心を費やしたくなかったんだろう。
だから彼は、ボニーに手を伸ばした。
傷つけてもいい、どーでもいい相手。
自分が愛しているわけでも、自分を愛しているわけでもない女。
そんなどーでもいい相手を、心中の相手に選ぶところまで追いつめられた、クライドの壊れ方が、悲しい。
ボニーが脇役になっているため、Bチームではジェレミーの比重が上がっている。
Bチームのジェレミーはちゃんと「若い男」だ。少年ではあるが、Aチームのジェレミーのような「子ども」ではなく、大人ではないという意味での「少年」だ。
最初年上のボニーに憧れているが、次第に同世代の少女ビリーと愛し合うようになる。
クライドを尊敬し、かなりの熱を持って愛している。尊敬の念とは別に、彼の弟分ではなく片腕に……親友になりたいと思っている。同等になりたいのではなく、愛する人を助けられるだけの力が欲しいと思っている。
この子の存在があざやかな分、クライドの孤独、別れの悲劇が際立つ。
初演の泣きポイントはいくらでもあるが、ジェレミーに感情移入したときの爆発的なカタルシスが印象的だったために、再演Aチームを観たときに、ジェレミーのあまりに軽い扱い、感情移入どころじゃない脇役ぶりに拍子抜けしたんだが。
Bチームではちゃんとジェレミー視点が存在した。
最後の「死にに行かなくてもいいじゃないか!」の台詞にたどり着くまでの「ジェレミー」というキャラクタが見えた。
子どもではなく、若い男として、クライドより年下の少年として、クライドを熱愛している存在。や、腐った意味ではなく(笑)。
アニスはクライドを愛していたけれど、彼と共に堕ちてはくれなかった。
ボニーは共に堕ちてくれたけれど、彼を愛してはくれない。
ジェレミーだけが、クライドを愛し、彼と共にどこまでも堕ちてきた。彼の行くところへ、どこまでもついて行こうとした。
ずっとずっと、そばにあった。
クライドは、それに気づくだけでよかった。振り返るだけでよかった。
ジェレミーの愛を受け入れれば、違う明日があっただろう。
でもクライドは、それをしなかった。
本能的に。
無意識に。
ジェレミーの愛に気づかないよう、防御した。
もう、行く道は決まっていたから。
別の明日を探すことはやめ、ボニーの手を取って進んだ。
ある意味、ジェレミーもアニスと同じだったのかもしれない。
「ジェレミーはチガウ」から、と共に行くことを拒むのは、アニスと別れたのと同じ理由かもしれない。無意識であったにしろ。
そうしてクライドは、ボニーと抱き合うことすらなく、最期のときを迎える。
死してなお、ひとりで微笑む。ボニーを振り返りもせず。目線すら与えず。
その、いびつな魂。
その、孤独。
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