で、『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』って、なんだったんだろう?

 愛する作品の再演が観られたことはうれしいし、初演への思い入れとは別に、新しいカタチでの『凍てついた明日』をたのしんだ。
 だけどやっぱり、この再演WSでは、『凍てついた明日』として足りていないと思うんだ。
 出演者に力がないことは、はじめからわかっている。今の若者はタカラヅカに限らず成長が遅いため、昔ほどカタチを作ることができない。(そのかわり、いつまでも若々しい)
 実力不足はそりゃー作品ファンとしては不満だけど、それはもう最初からわかっていたことだからあまり気にしていない。
 それよりも、オギーの半端なアレンジが、不満だ。

 アテ書きのオギーだから、実力不足の若者たち用に書き直してくるだろうと思った。
 足りない部分をどう補ってくれるのかを、たのしみにしていたんだ。

 実際、新作と言ってもいいくらいの細かい再構築ぶりで、相変わらずプライドを持って仕事をしているんだと感激はした。
 しかし。

 根本的に、ズレている気がする。

 足りていなくても、できてなくても、とにかく『凍てついた明日』を演じさせる、というのが目的なのか?
 えーっと、月組WSの『ホフマン物語』みたいに? ぜんっぜん歌えないことはわかっているけど、出来映えよりも「挑戦しました」「あの歌を歌いました」という事実だけを優先?
 高いハードルに挑むことで、経験値を上げるのが目的? 結果は問うな、成功よりも努力を尊ぶのがタカラヅカだ。

 それとも、技術が足りない若者たちで、足りないことが欠点にならないよう、彼らの持てるモノだけでなんとかできるよう、『凍てついた明日』を演じさせる、というのが目的なのか?
 歌いこなせないことがわかっている歌は、はじめから歌わせない。できないことはやらせない。興行としてのクオリティ優先、お金を取ってお客様に観ていただくんだから、努力よりも成功を必要とする? や、ジェンヌはいかなるときも努力しているという前提で言うけれど。

 どちらにしても、今回の『凍てついた明日−ボニー&クライドとの邂逅』は、中途半端だ。

 シビさんとトウコという、ヅカを代表する歌い手たちの「持ち歌」ともいえる名曲「ブルース・レクイエム」。
 作品のテーマとなるこの歌を、歌いこなせる生徒は残念ながら、このWSにはいない。(ハマコ除く)

 歌える人間がいないから、歌わせなかった。
 それは正しい判断だ。

 ただでさえ『凍てついた明日』は、難しい物語だ。初演上演時、「わからない」「それでふたりは天国で結ばれたの?」などという感想があちこちで聞こえてきた。
 実力者たちで演じてなお、ついてきてくれるファンが少なかった。
 その物語を、台詞もろくに喋ったことがないような若者たちを多く使って再演するんだ。役者に力無くても観客が理解できるよう、わかりやすく作り直す必要がある。

 膨大な説明台詞の挿入、画面を派手にするためのショー部分の挿入、人物の比重調整、実に細かく加筆修正してある。

 下級生たちでも、演じられるように。彼らの演技でも、観客が理解できるように。ぶっちゃけ、テルの演技力でも、やっていけるように(笑)。

 ハードルを低く設定してあることがわかり、「オギー、やるなあ」と最初は思ったんだ。

 でもさー。

 そこまでするなら、何故、「ブルース・レクイエム」を削除しなかったんだ?

 「ブルース・レクイエム」だけでなく、「クライドのテーマ」もかな。
 つまり、『凍てついた明日』のテーマ部分、全部別物にするべきだった。

 わたしは初演ファンで、『凍てついた明日』といえば「ブルース・レクイエム」だと思っているし、『凍てついた明日』を再演する以上「ブルース・レクイエム」を聴きたかったと思う。たとえ、どれほど足りない歌声でも。
 「ブルース・レクイエム」がないと、『凍てついた明日』だと思えない。
 それくらい思い入れているけれど、それてもなお、思うんだ。

 「ブルース・レクイエム」は、不要だった。

 「ブルース・レクイエム」はジェレミー@トウコの歌だった。クライドとボニーを裏切り、死地へ追いやった……ことになるジェレミーが、泣きながら歌う。
 捨てられたのは、裏切られたのは、彼の方なのだけれど。結果として、彼が裏切り者となった。誰よりも、クライドとボニーを愛しているのに。
 そのジェレミーが歌う。魂の絶唱。

 だが、再演では、この歌を歌える人がいない。
 ジェレミーは歌わない。
 Aチームのジェレミーは歌わなくて当然の比重だったけれど、Bチームの子なら歌ってもいいと思ったけどな。歌の実力は知らないが、役として。

 物語の中では、役としては、誰も歌わない。ジェレミーがワンフレーズ、テッドが1曲の中の1部分だけというように、わずかに口にするだけ。
 「曲」として1曲まんま歌うのはオーディエンス、つまり役以外の子たち。それほど上手くはないが、ニュートラルに素直な音を出せる子たちが歌っていた。

 『凍てついた明日』のテーマだから、たしかにこの歌を1曲まるまる聴かせることは、まちがいじゃない。
 でも。

 プロモーションビデオはいらん。

 物語の中で、登場人物が歌うから、曲に意味があったんだ。
 歌うことで、「芝居」として表現できるという前提で、「ブルース・レクイエム」はあった。「クライドのテーマ」もね。
 台詞を言うより、踊るより、なによりも有効な表現手段。必然だったから、それらの歌だったんだ。

 なのに再演ではまず曲ありきで、安易に1曲まるまる流してしまう。
 役ではなく、ナレーションに過ぎない人が、芝居としてではなく、BGMとして歌う。

 そして主役は、曲のイメージに合わせて、苦悩のパントマイムをする。
 
 イメージ映像なの、「ブルース・レクイエム」という曲の。プロモーションビデオなの。
 この歌詞に合わせて、はい、立ち上がります。顔を歪めます。はい、この歌詞に合わせて閉塞感を出して。
 ……1曲まるまる、曲に合わせて、クライド@かなめくんのパントマイム。

 「ブルース・レクイエム」は、なによりも歌自体がテーマであり、「芝居」なんだよ。
 ただ正しい音程でキレイに歌う声をバックに、曲のイメージ演技をするモノぢゃない。

 この歌て「表現」できる人がいないなら、登場人物に歌わせないなら、「ブルース・レクイエム」自体、なくしていい。なくすべきだ。

 「クライドのテーマ」もまた、この歌を歌うことで「演技」ができないなら、長々と歌わせなくていい。歌うことだけに精一杯、振付をこなすことに精一杯、程度ならクライドがまるまる1曲歌わなくていいから、他のことで同じ場面を表現させてよ。

 半端なんだよなあ。

 とにかく、名曲「ブルース・レクイエム」が長くてこまったよ。かなめくんの「苦悩してます」イメージ演技だけでまるまる1曲は。
 歌だけで聴かせることのできる歌声ではなかったし、癖のない綺麗な声ではあったけど、そこにドラマはなく、冗長で無駄な場面に思えた。
 これで数分取るなら、もっと別のことをしてくれよ、と思った。

 「ブルース・レクイエム」が名曲であるがゆえに、思わぬ落とし穴になった、って感じ。

 主要人物に歌える人がいないなら、「ブルース・レクイエム」は削除。
 かわりに、歌以外で同じテーマを、同じだけ印象的に表現できる方法を探す。
 そうやって、過去にとらわれすぎずに『凍てついた明日』を再構築したものをも観てみたかった。

 WS版も、そりゃ興味深く、おもしろい作品だったけどさ。

 ……や、実力ある人々で初演に近いカタチで再演してくれて、いいんだけど。
 トウコとあすかで観てみたいのが本音っつーか、このふたり用にオギーがどんな『凍てついた明日』を、「ブルース・レクイエム」を演出するのかが、観たいのだけど。



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