別の地球に生きる人が書いた作品。@殉情
2008年7月27日 タカラヅカ 宙組バウWS『殉情』両チーム、観劇済です。
……いやあ、感想が書きづらくてさー。
なんでかっつーと、作品がキライ過ぎて、考えるのがつらいからっす……。
これはもう好みの問題で、個人の趣味だから、仕方がない。
バイト抜け出した現代のカップルが墓場でラヴシーンやってるのも、したり顔の老人が春琴の解説をはじめるのも、おてもやんがたくさん出て吉本喜劇はじめるのも、利太郎がバカ殿全開でお笑いライヴをはじめるのも、現代パートでいちいちいちいちいちいち観客の自由な感情すら踏みにじりたったひとつの「見方」を強要されること、テーマからなにから全部語られ尽くされること、下世話で下品で下劣な表現で美しいモノをひとつずつ壊していくことも、萌えメイドが登場することも、娘役の太股まで全開に逆立ちさせるよーに脚を引っ張ることも、それを「笑い」にしていることも、肝心のオチを先に言ってしまうことも、とにかく、なにもかも、嫌。
ああ、わたしはほんっとーに、石田昌也が嫌いなんだ、と、実感しました(笑)。
石田だから全部キライ、というわけではもちろんなく、彼は嫌いな部類の作家だけど、なかには好きなものだってある。
ただ、この『殉情』という作品は、わたしが石田を嫌いだと思うモノのすべてが、凝縮されているんだ。
他のナニより拒絶反応が激しいのは、そのせいだなー。
気になる生徒さんが出演していなかったら、観劇自体あきらめていた。
ここまでキライな作品を観るのはつらいから。
初演は観ていない。ポスターしか知らない。当時「あまりにも売れなかった」ということで、客入りの悪い公演の代名詞としてよく耳にはした。観ていないので、事実かどうかは知らない。
佳作がかえって興行成績がよくないことぐらい、この世界にはいくらでもある。再演が決まったときは、動員が奮わなかったために観た人は少ないが、実はよい作品だったのだろうと思った。場を整えて再演すれば、質に相応しい興行的評価を得られると踏んでのことだろう、と。
演出家が苦手だったので猜疑心はあったものの、百聞は一見にしかず、予備知識ないまま再演を観に行って……わたしとは、生涯無関係なモノだと判断した。
関わり合いにならなくていい。
アンタッチャブル。別の地球に生きる人が書いたんだわ。それくらい、わたしの価値観と無関係。
不快なモノばかりが詰まっている。
創作する上で、こんなふうにだけはしたくない、こんなふうには描きたくない、と思うお手本がそこにある。
『春琴抄』を何故ここまで無惨にみっともなくできるのか、不思議でならない。
原作まんまミュージカル化すれば、美しいものになるのに。
美しくしてはいかんのか? ドリフの大爆笑でなきゃいかんのか? 深遠なテーマは「20字以内で答えよ」てなテストの解答みたいな、つまらん短文でまとめなきゃならんのか? 感じ方、見方はひとつしかなく、それ以外は存在してはならないのか?
原作がどうあれ、ソレを下敷きに独自の物語を展開するのはアリだと思っている。
原作まんまをコピーして再現すること、なんか正直どうでもいい。原作至上主義なら原作だけ大事に抱えていろ、メディアミックスや二次創作を自分で見て読んで「原作とチガウ」ことに文句言うな、と思っているクチだ。
「創作」というもの、「フィクション」というものに、こだわりと愛情を持つがゆえに、原作と原作を元とした別作品それぞれに価値を見出している。
たしかにわたしは『殉情』をキライだが、べつに「原作を貶めた」からキライなわけじゃない。すちゃらかちゃんな音楽や効果音を使って、水洟やら赤い丸を顔に描いてお笑い芸人芝居をやりたい、というのも創作・表現の一環と認める。その上で「でも、わたしはそーゆーのキライ」と言って、終わるだけのこと。わたしはそんなものを、「タカラヅカ」に求めていない。わたしの趣味じゃない、というだけのこと。
そして、趣味じゃない作品なんて、石田作品を含めて、いくらでもある。
主義主張の押し付け、はかまわないんだ。
作家はなにかしら言いたいこと、世に問いたいことがあって創作する。それを大上段に叫んでもかまわない。それは「作者の言いたいこと」だからだ。
それに対しての考え方の違いや好き嫌いはあるだろうけれど、それ自体はイイ。
「創作」というもの、「フィクション」というものに、こだわりと愛情を持つがゆえに、作家の叫びの見える作品の方が好きだ。
たしかにわたしは『殉情』をキライだが、べつに「愛とはこういうもの」と主義主張を押し付けられたからキライなわけじゃない。
彼が愛についてどう思っていてもかまわないさ。
ここまで嫌悪感を持つのは、「見方・感じ方の強制」をされることだろう。
現代パートがなければ、ただの「石田作品」としてふつーに「趣味じゃないからキライ」で済んだんだけどな。
そして、この現代パートこそが「石田作品」の特色だけど、題材が難しすぎるために「ただの解説」ではなく「答え合わせ」になっている。
何故彼女はこうしたのか、何故彼はそうしたのか、を、いちいち全部解説していく。
何故彼女はこうしたのか、何故彼はそうしたのか……そこを考えることが、フィクションを愉しむ醍醐味なのに、それを全部奪われる。
おいしそうなリンゴを差し出しておいて、目の前で皮を剥き、芯を取り、実のおいしいところをゴミ箱に捨て、皮と芯を「はい、どうぞ」と差し出された不快感。食べ物を粗末にすることへの怒り。
「創作」というもの、「フィクション」というものに、こだわりと愛情を持つがゆえに、読者・観客の感覚を奪う・否定する作品……「創作」「フィクション」自体を貶めているモノには強い反感を持つ。
好き・キライってほんと、人それぞれだからなあ。
逆鱗ってのは、人ひとりずつチガウところにあるんだよなー。
わたしにとって『殉情』はまさに逆鱗ポイントにクリティカルする作品。別の人にとってはチガウだろうし、わたしが大好きなモノが別の人の逆鱗だったり、あったりまえにあるわけだし。
だから、人はひとりずつちがって、良いとされるものもいろんなものがあって、そーゆーところこそがおもしろいのだけど。
にしても、キライだわ、コレ。
……いやあ、感想が書きづらくてさー。
なんでかっつーと、作品がキライ過ぎて、考えるのがつらいからっす……。
これはもう好みの問題で、個人の趣味だから、仕方がない。
バイト抜け出した現代のカップルが墓場でラヴシーンやってるのも、したり顔の老人が春琴の解説をはじめるのも、おてもやんがたくさん出て吉本喜劇はじめるのも、利太郎がバカ殿全開でお笑いライヴをはじめるのも、現代パートでいちいちいちいちいちいち観客の自由な感情すら踏みにじりたったひとつの「見方」を強要されること、テーマからなにから全部語られ尽くされること、下世話で下品で下劣な表現で美しいモノをひとつずつ壊していくことも、萌えメイドが登場することも、娘役の太股まで全開に逆立ちさせるよーに脚を引っ張ることも、それを「笑い」にしていることも、肝心のオチを先に言ってしまうことも、とにかく、なにもかも、嫌。
ああ、わたしはほんっとーに、石田昌也が嫌いなんだ、と、実感しました(笑)。
石田だから全部キライ、というわけではもちろんなく、彼は嫌いな部類の作家だけど、なかには好きなものだってある。
ただ、この『殉情』という作品は、わたしが石田を嫌いだと思うモノのすべてが、凝縮されているんだ。
他のナニより拒絶反応が激しいのは、そのせいだなー。
気になる生徒さんが出演していなかったら、観劇自体あきらめていた。
ここまでキライな作品を観るのはつらいから。
初演は観ていない。ポスターしか知らない。当時「あまりにも売れなかった」ということで、客入りの悪い公演の代名詞としてよく耳にはした。観ていないので、事実かどうかは知らない。
佳作がかえって興行成績がよくないことぐらい、この世界にはいくらでもある。再演が決まったときは、動員が奮わなかったために観た人は少ないが、実はよい作品だったのだろうと思った。場を整えて再演すれば、質に相応しい興行的評価を得られると踏んでのことだろう、と。
演出家が苦手だったので猜疑心はあったものの、百聞は一見にしかず、予備知識ないまま再演を観に行って……わたしとは、生涯無関係なモノだと判断した。
関わり合いにならなくていい。
アンタッチャブル。別の地球に生きる人が書いたんだわ。それくらい、わたしの価値観と無関係。
不快なモノばかりが詰まっている。
創作する上で、こんなふうにだけはしたくない、こんなふうには描きたくない、と思うお手本がそこにある。
『春琴抄』を何故ここまで無惨にみっともなくできるのか、不思議でならない。
原作まんまミュージカル化すれば、美しいものになるのに。
美しくしてはいかんのか? ドリフの大爆笑でなきゃいかんのか? 深遠なテーマは「20字以内で答えよ」てなテストの解答みたいな、つまらん短文でまとめなきゃならんのか? 感じ方、見方はひとつしかなく、それ以外は存在してはならないのか?
原作がどうあれ、ソレを下敷きに独自の物語を展開するのはアリだと思っている。
原作まんまをコピーして再現すること、なんか正直どうでもいい。原作至上主義なら原作だけ大事に抱えていろ、メディアミックスや二次創作を自分で見て読んで「原作とチガウ」ことに文句言うな、と思っているクチだ。
「創作」というもの、「フィクション」というものに、こだわりと愛情を持つがゆえに、原作と原作を元とした別作品それぞれに価値を見出している。
たしかにわたしは『殉情』をキライだが、べつに「原作を貶めた」からキライなわけじゃない。すちゃらかちゃんな音楽や効果音を使って、水洟やら赤い丸を顔に描いてお笑い芸人芝居をやりたい、というのも創作・表現の一環と認める。その上で「でも、わたしはそーゆーのキライ」と言って、終わるだけのこと。わたしはそんなものを、「タカラヅカ」に求めていない。わたしの趣味じゃない、というだけのこと。
そして、趣味じゃない作品なんて、石田作品を含めて、いくらでもある。
主義主張の押し付け、はかまわないんだ。
作家はなにかしら言いたいこと、世に問いたいことがあって創作する。それを大上段に叫んでもかまわない。それは「作者の言いたいこと」だからだ。
それに対しての考え方の違いや好き嫌いはあるだろうけれど、それ自体はイイ。
「創作」というもの、「フィクション」というものに、こだわりと愛情を持つがゆえに、作家の叫びの見える作品の方が好きだ。
たしかにわたしは『殉情』をキライだが、べつに「愛とはこういうもの」と主義主張を押し付けられたからキライなわけじゃない。
彼が愛についてどう思っていてもかまわないさ。
ここまで嫌悪感を持つのは、「見方・感じ方の強制」をされることだろう。
現代パートがなければ、ただの「石田作品」としてふつーに「趣味じゃないからキライ」で済んだんだけどな。
そして、この現代パートこそが「石田作品」の特色だけど、題材が難しすぎるために「ただの解説」ではなく「答え合わせ」になっている。
何故彼女はこうしたのか、何故彼はそうしたのか、を、いちいち全部解説していく。
何故彼女はこうしたのか、何故彼はそうしたのか……そこを考えることが、フィクションを愉しむ醍醐味なのに、それを全部奪われる。
おいしそうなリンゴを差し出しておいて、目の前で皮を剥き、芯を取り、実のおいしいところをゴミ箱に捨て、皮と芯を「はい、どうぞ」と差し出された不快感。食べ物を粗末にすることへの怒り。
「創作」というもの、「フィクション」というものに、こだわりと愛情を持つがゆえに、読者・観客の感覚を奪う・否定する作品……「創作」「フィクション」自体を貶めているモノには強い反感を持つ。
好き・キライってほんと、人それぞれだからなあ。
逆鱗ってのは、人ひとりずつチガウところにあるんだよなー。
わたしにとって『殉情』はまさに逆鱗ポイントにクリティカルする作品。別の人にとってはチガウだろうし、わたしが大好きなモノが別の人の逆鱗だったり、あったりまえにあるわけだし。
だから、人はひとりずつちがって、良いとされるものもいろんなものがあって、そーゆーところこそがおもしろいのだけど。
にしても、キライだわ、コレ。
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