タイトルを素直に使わない・台詞にしないのが漢・正塚晴彦のこだわり。

 『マリポーサの花』も、作品中に名前は出てこない(はずだよな?)。

 たとえば、ネロ@水とセリア@とにゃみが、一面のマリポーサの花畑で、「この花はスペイン語でマリポーサ、英語でジンジャー♪」とか歌ったりしない。
 「私、マリポーサの花を見ると身振ひの出るほど好もしひの」「セリアさんはマリポーサの花のやうな人だ」とか、言わない。
 「この花には想い出があるんだ。昔、まだ父が生きていた頃……」とか、「ちょっとイイ話」とかをはじめない。

 キーアイテムであり、最後の「泣かせ」の小道具であるにもかかわらず、ソレがタイトルそのものの花であると説明することなく、無造作に使われる。

 戦闘に赴く男が、泣いてすがる女を納得させるため、黙って行かせてもらうために、目についた花を手に取り、「生きている証として、毎月この日にこの花を贈る」と約束する。
 たとえ戦闘で死ぬことはなくても、男はもうこの国にはいられない。
 女に想いを伝える術がない。
 だから、花を贈る。
 同じ日に、同じ花を。
 それが、生きている証。愛している証。

 その瞬間までこの花は物語に絡まないし、なんの解説もない。
 プロローグでネロとセリアが手にしているが、それは「これからはじまる物語で解説される」という前提だから、関係ない。

 ここまで、花になんのエピソードも解説もしないことが、かえってかっこいい。
 正塚らしい(笑)、と思う。

 また、「この国」としか語られない、舞台となっている国のモデルがキューバであり、「この花」がキューバの国花であることを思えば、さらに意味深になる。

 や、語られないのだから、架空の国でいいと思っているけど。現実の国だの歴史だのを架空と謳っているフィクションに持ち出すのは野暮だと思っているし。

 正塚芝居は、説明台詞がほとんどない。
 主語や固有名詞を省いた、短い会話の応酬。研ぎ澄まされた、無駄のない言葉たち。行間を読む芝居。

 正塚らしくて大好きだ、このテンポ、このセンス。

 ネロがセリアにこの花を贈るのは、ほんとに、あのときあの場にあったから、というだけなのが、イイ。
 あれはセリアの屋敷ですか? それとも病院? なんにせよ、建物の中に花が飾ってあったのね。
 ネロは咄嗟にその花をセリアに贈った。
 セリアを納得させる、希望を持たせるために、ナニか必要だった。

 で。
 このナニかってさ……ぶっちゃけ、なんでもよかったのよね。

 そこにあったものを、差し出しただけだから。

 いやあ、マリポーサの花で良かったね。

 たとえば、そこに置いてあったのがたまたま蟹の置物だったら。
 某かに道楽店の看板みたいな、リアルなヤツ。

 ネロは大真面目な顔で、蟹の置物を手に取り、「生きている証として、毎月この日に蟹を贈る」と約束するはめになったわけだ。

 で、セリアのもとには毎月、蟹が届けられるわけだ。

 たとえば、そこに置いてあったのがたまたまたぬきの置物だったら。
 信楽焼の、大福帳持ったアレ。

 ネロは大真面目な顔で、たぬきの置物を手に取り、「生きている証として、毎月この日にコレを贈る」と約束するはめになったわけだ。

 で、セリアのもとには毎月、信楽焼のたぬきが届けられるわけだ。
 
 
 ……や、それくらい無造作なとこが、この作品のクールなところだな、と(笑)。

 正塚万歳。

 

 えーと。
 花の名前、解説してたっけ?(その程度の海馬・笑)←最後の最後に言ってます、水しぇん。聞いてやれよ、最後の台詞(笑)。


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