そして、箱船が行く。
2008年9月13日 タカラヅカ 演出家・荻田浩一退団が、ついに公表された。
知っていた答えを、改めて手に取る感触。
タカラジェンヌがいつか退団するように、このときがくることがわかっているからこそ、少しでも遠くあれと願ってやまなかった。
あれは『パッサージュ』観劇後だったと思う。ムラのホテルでごはんを食べながら、かねすきさんと話した。
「オギーがタカラヅカにいることは、奇跡だと思う」
『パッサージュ』はあまりに痛く救いのない作品で、こんなものを吐き出さずにいられないひとは、現実社会でどうやって生きていくのだろう、と、いらん心配をした。
また、その画面の美しさやセンスの良さと反対に(あるいは、その陰に隠れた)、あまりに反社会的な、ダークな特性に、彼の商業作家としての限界を感じた。
商業作家として、大衆に受けいられるモノを生み出すのならば、彼の持つ毒を、闇を、なんとか誤魔化さなければならない。大衆はそんなもん、のぞまないからだ。
真の姿だけで勝負し、ソレを受け入れてくれる一部の人たちにだけ認められればいい……そう思っていたのでは、商業作家は務まらない。結果的にそーゆー位置に落ち着くとしても、最初から「30%の人に売れればいいや」と思って出す企画なんか、商業ベースに挙げてはくれないんだ。「100%売れます!」という企画でないと。
オギーの特性の独特さは、かなり生息の場を限られる……と、思った。
だからこそ、タカラヅカはオギーにとって最適な場所だと思えた。
タカラヅカの「美しさ」は「毒」を隠すことが出来るからだ。
外部で、本能のままに毒全開闇全開にどろどろしたものをやったとしても、一部のマニアに支持されて終わりだ。信者は出来ても、収入にはつながらない。
他のなにより漠然とした、広い意味での「大衆」を相手にする大きな場で、大きいからこそ多少の毒をも飲み込んで、覆い隠すことの出来るところにいるべきだ。
だからオギーが、タカラヅカにいるのは正しいことで、また、こんな才能がよりによってタカラヅカにいることは、奇跡だと思った。
オギーにとっても。タカラヅカにとっても。
それから、時は流れ。
オギーの作風は、どんどん「大人」になっていった。
現実社会でどうやって生きていくんだろう? と思った繊細さ……言葉を換えるなら、「弱さ」は、それを補うだけの技術を得ることで別の姿へ変わっていった。
本質は変わっていないのだとろうと思う。わたしが勝手に思っているだけだが。
「こんな内面世界を持つひとが、狂わずに、自殺せずに生きていけるのだろうか?」と思わせるような作風自体は、変わっていないのだろうと思う。
だけど、時と共に、「どうやってこの世界で生きていくか」というHOW TOを手に入れていった。
毒の濃度や表現を変え、大衆性と折り合いを付け、最初から「100%売れます!」という企画を出せるだけのスキルを得た。それを繰り返すことで安定した実力を、知名度を得た。
これだけ世慣れてくれば、世間的な力を手に入れれば、安全な囲いの中でなくても、生きていける。
実際、外部での評価も高い。
タカラヅカでなくても、生きていけるだけの強さを、彼は手に入れていた。
それでもわたしは、「タカラヅカの荻田浩一」であることに、安心していた。
タカラヅカは、特殊な世界だ。
外部がどれほど魅力的な世界であったとしても、タカラヅカにはタカラヅカにしかない魅力がある。
タカラヅカでしかできないことがある。
1クリエイターとして、その魅力は捨てがたいモノだと思っていたからだ。
そこでしか生きていけないからそこにいるのではなく、魅力があるから、あえてそこにもいる。そう思っていた。
安心していた。「タカラヅカ」というものが持つ、力に。
そして。
……きしみは、感じていた。
オギーと「タカラヅカ」……あるいは、「宝塚歌劇団」とのきしみ。
美しい音楽の中、不吉なノイズはたしかに聞こえていた。
それでもわたしは、ただのノイズだと思った。
「タカラヅカ」には、力がある。オギーのような才能をつなぎ止めておけるだけの魅力がある。
そう思うこと、信じることで、耳をふさいだ。
そうやってさらに時が過ぎ、ついに答えが打ち出された。
オギーが退団することは、ずっと予感があった。実際、話も聞こえてきていた。
現実問題として「もうオギー作品が観られないの?!」という個人的な絶望感はある。
だが、それとは別に。
荻田浩一をつなぎとめておけない「タカラヅカ」という創作ジャンルに、危機感を持つ。
ジャンルとして。創作する表現の場として。
世界に例を見ない、他にはない特殊な形態だ。ここで「表現したい」と思ったら、他で代用は利かないんだ。
宝塚歌劇団は、芸術家のパトロンではなく、利潤追求を旨とする会社だ。そこに所属する者として、待遇をめぐって納得に至らず決裂するのは、社会人としてあり得ることだと思う。
だが、どれほど物質面・精神面で摩擦があろうと、創作者として「代用の利かない魅力」を感じているならば、踏み止まることができるはずだ。
なにかと秤に掛けて、オギーはタカラヅカを捨てた。
タカラヅカを捨ててでも、なにか別のモノを選んだ。
選ぶ、という行為は、選ばなかったモノすべてを捨てるということ。ノアは選び、そして地上のすべては水に沈んだ。
「タカラヅカ」は、唯一無二の創作形態であるにも関わらず、クリエイターに「捨ててもかまわない」と思わせる程度のモノなんだ。
……という、ショック、ですな。
荻田浩一が「どこへ行くのか」であり、宝塚歌劇団が「どこへ行くのか」である……喪失感。
タカラヅカ自体が斜陽であることは、ずっと感じている。
単純にファンの数が減っているのだろうなと思う。
全組平日にムラ通いしてりゃー、嫌でもわかる。どの組が、というより、タカラヅカ全体が。
どうやったら盛り返せるのか、正直わからない。
世界に求められていない娯楽なのだ、と言われればそれまでだが。
それでもわたしは「タカラヅカ」を愛しているし、ここでしかできない創作ジャンルとして、表現形態としての「タカラヅカ」に価値と誇りを見出している。
「タカラヅカ」というジャンルで、荻田浩一作品を観続けたかった。
彼がすぐれたクリエイターであり、これからも素晴らしい作品を生み出していくことはわかっているが、それとは別に、「タカラヅカ」で観たかったんだ。
この特殊な場所でしかできない作品を、退団後も彼が作り続けてくれることを、祈る。クリエイターとして「タカラヅカ」という表現を欲してくれることを、祈る。
知っていた答えを、改めて手に取る感触。
タカラジェンヌがいつか退団するように、このときがくることがわかっているからこそ、少しでも遠くあれと願ってやまなかった。
あれは『パッサージュ』観劇後だったと思う。ムラのホテルでごはんを食べながら、かねすきさんと話した。
「オギーがタカラヅカにいることは、奇跡だと思う」
『パッサージュ』はあまりに痛く救いのない作品で、こんなものを吐き出さずにいられないひとは、現実社会でどうやって生きていくのだろう、と、いらん心配をした。
また、その画面の美しさやセンスの良さと反対に(あるいは、その陰に隠れた)、あまりに反社会的な、ダークな特性に、彼の商業作家としての限界を感じた。
商業作家として、大衆に受けいられるモノを生み出すのならば、彼の持つ毒を、闇を、なんとか誤魔化さなければならない。大衆はそんなもん、のぞまないからだ。
真の姿だけで勝負し、ソレを受け入れてくれる一部の人たちにだけ認められればいい……そう思っていたのでは、商業作家は務まらない。結果的にそーゆー位置に落ち着くとしても、最初から「30%の人に売れればいいや」と思って出す企画なんか、商業ベースに挙げてはくれないんだ。「100%売れます!」という企画でないと。
オギーの特性の独特さは、かなり生息の場を限られる……と、思った。
だからこそ、タカラヅカはオギーにとって最適な場所だと思えた。
タカラヅカの「美しさ」は「毒」を隠すことが出来るからだ。
外部で、本能のままに毒全開闇全開にどろどろしたものをやったとしても、一部のマニアに支持されて終わりだ。信者は出来ても、収入にはつながらない。
他のなにより漠然とした、広い意味での「大衆」を相手にする大きな場で、大きいからこそ多少の毒をも飲み込んで、覆い隠すことの出来るところにいるべきだ。
だからオギーが、タカラヅカにいるのは正しいことで、また、こんな才能がよりによってタカラヅカにいることは、奇跡だと思った。
オギーにとっても。タカラヅカにとっても。
それから、時は流れ。
オギーの作風は、どんどん「大人」になっていった。
現実社会でどうやって生きていくんだろう? と思った繊細さ……言葉を換えるなら、「弱さ」は、それを補うだけの技術を得ることで別の姿へ変わっていった。
本質は変わっていないのだとろうと思う。わたしが勝手に思っているだけだが。
「こんな内面世界を持つひとが、狂わずに、自殺せずに生きていけるのだろうか?」と思わせるような作風自体は、変わっていないのだろうと思う。
だけど、時と共に、「どうやってこの世界で生きていくか」というHOW TOを手に入れていった。
毒の濃度や表現を変え、大衆性と折り合いを付け、最初から「100%売れます!」という企画を出せるだけのスキルを得た。それを繰り返すことで安定した実力を、知名度を得た。
これだけ世慣れてくれば、世間的な力を手に入れれば、安全な囲いの中でなくても、生きていける。
実際、外部での評価も高い。
タカラヅカでなくても、生きていけるだけの強さを、彼は手に入れていた。
それでもわたしは、「タカラヅカの荻田浩一」であることに、安心していた。
タカラヅカは、特殊な世界だ。
外部がどれほど魅力的な世界であったとしても、タカラヅカにはタカラヅカにしかない魅力がある。
タカラヅカでしかできないことがある。
1クリエイターとして、その魅力は捨てがたいモノだと思っていたからだ。
そこでしか生きていけないからそこにいるのではなく、魅力があるから、あえてそこにもいる。そう思っていた。
安心していた。「タカラヅカ」というものが持つ、力に。
そして。
……きしみは、感じていた。
オギーと「タカラヅカ」……あるいは、「宝塚歌劇団」とのきしみ。
美しい音楽の中、不吉なノイズはたしかに聞こえていた。
それでもわたしは、ただのノイズだと思った。
「タカラヅカ」には、力がある。オギーのような才能をつなぎ止めておけるだけの魅力がある。
そう思うこと、信じることで、耳をふさいだ。
そうやってさらに時が過ぎ、ついに答えが打ち出された。
オギーが退団することは、ずっと予感があった。実際、話も聞こえてきていた。
現実問題として「もうオギー作品が観られないの?!」という個人的な絶望感はある。
だが、それとは別に。
荻田浩一をつなぎとめておけない「タカラヅカ」という創作ジャンルに、危機感を持つ。
ジャンルとして。創作する表現の場として。
世界に例を見ない、他にはない特殊な形態だ。ここで「表現したい」と思ったら、他で代用は利かないんだ。
宝塚歌劇団は、芸術家のパトロンではなく、利潤追求を旨とする会社だ。そこに所属する者として、待遇をめぐって納得に至らず決裂するのは、社会人としてあり得ることだと思う。
だが、どれほど物質面・精神面で摩擦があろうと、創作者として「代用の利かない魅力」を感じているならば、踏み止まることができるはずだ。
なにかと秤に掛けて、オギーはタカラヅカを捨てた。
タカラヅカを捨ててでも、なにか別のモノを選んだ。
選ぶ、という行為は、選ばなかったモノすべてを捨てるということ。ノアは選び、そして地上のすべては水に沈んだ。
「タカラヅカ」は、唯一無二の創作形態であるにも関わらず、クリエイターに「捨ててもかまわない」と思わせる程度のモノなんだ。
……という、ショック、ですな。
荻田浩一が「どこへ行くのか」であり、宝塚歌劇団が「どこへ行くのか」である……喪失感。
タカラヅカ自体が斜陽であることは、ずっと感じている。
単純にファンの数が減っているのだろうなと思う。
全組平日にムラ通いしてりゃー、嫌でもわかる。どの組が、というより、タカラヅカ全体が。
どうやったら盛り返せるのか、正直わからない。
世界に求められていない娯楽なのだ、と言われればそれまでだが。
それでもわたしは「タカラヅカ」を愛しているし、ここでしかできない創作ジャンルとして、表現形態としての「タカラヅカ」に価値と誇りを見出している。
「タカラヅカ」というジャンルで、荻田浩一作品を観続けたかった。
彼がすぐれたクリエイターであり、これからも素晴らしい作品を生み出していくことはわかっているが、それとは別に、「タカラヅカ」で観たかったんだ。
この特殊な場所でしかできない作品を、退団後も彼が作り続けてくれることを、祈る。クリエイターとして「タカラヅカ」という表現を欲してくれることを、祈る。
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