あれほど爆笑されたアンドレ@壮くん。

 男に無理矢理チューされている女の子を助けたのに、女の子はチュー魔を「やだ、待って~~」と追って行ってしまった。てことは、助ける必要なかったんじゃ? カップルがじゃれていただけで、ふたりのプレイを邪魔しただけなんじゃ?
 ……とゆー、ただのカンチガイお節介男になり果てたアンドレ。
 オスカルはアランを追っていった、てことはつまり、オスカルはアランを選んだってことなのに。
「アラン、お前もか」
 勝手にアランを片想いと決めつけて、かっこつけてぐたぐた独白。
 や、女はあっちの男を追っていっただろう! フラレたのはキミだけだから!!
 どこまでコケにされてるんだアンドレ。そして、そのことを理解もせず、悦に入ってるんだアンドレ。

 脚本も演出もコメディまっしぐらなんだから仕方ないけど、悪いのは間違いなく植爺だけど、実際に舞台に立ち、笑われるのは壮くんで。

 なんとかするのも、壮くんしかいない。

 『外伝 ベルサイユのばら-アラン編-』初日初回に未曾有の大爆笑をくらい、2回目は手さぐりながらも再度爆笑され、ついに2日目通算3回目の公演では。
 演技を、変えてきた。

 もっとも激しい大爆笑ポイントであった台詞、「アラン、お前もか」の言い方を変えた。

 「アラン……」で溜めを作り、小さく「お前もか」とつぶやく。
 やったね、これなら笑われない。

 さらに4回目の公演では、「お前もか」を、ほとんどささやくように言っていた。集中してなきゃ聞き取れないくらいに。

 壮くんのささやき声に萌え。

 なんだよ、リアルタイムで演技が変わっていくなんて、変えるなんて、壮くん舞台役者みたいなことしてんじゃん。舞台役者なんだけどさ。
 空気読まないのが壮くんの愛すべき持ち味で、ひとりで突っ走るのが彼の醍醐味なんだけど、そんな彼が変化していることが、興味深い。つか、愛しい。
 『愛と死のアラビア』でも彼はどんどん変わっていったし(東宝まで行くと狙いすぎてて好きじゃない)、役者として今の彼はとてもおもしろい時期にいるんだなと思う。

 あれほど大爆笑だったのに、2日目はそれほど笑われなくなってしまい、初日の感想を聞いて「どれほど笑えるのか」と期待してやって来たチェリさんなんかはがっかりしてたみたいだ(笑)。
 や、初日はすごかったの。植爺演出まんまだったからね。2日目は舞台の上で役者たちが工夫しはじめたの。植爺のままじゃダメだからって。2日目ならもうあのじーさん観に来てないだろーから、演技変えてもわかんないだろうし。

 コメディにしか見えなかったやりとりも、アンドレ、アラン@まとぶ、オスカル@みわっちたちが力尽くで乗り切っていく。
 ブイエ将軍を追うアラン、アランを追うオスカル……ここで流れる音楽がコメディちっくで運動会の徒競走風味なのは変わらないが、それでもがんばって盛り上げてる。
 ……いやその客席も、「笑っちゃダメだ」と言い聞かしている風情はあったが……植爺から『ベルばら』を救え! という使命感に、舞台も客席も心をひとつにしている一体感に満ちあふれた、緊張と感動のある公演になったのではないかと。

 そもそも、アランとオスカルの無理矢理チューを描くのなら、アランがオスカルに心を開く場面を入れなきゃいけないのね。
 オスカルに惹かれる……が、それを認めない。やせ我慢している。それらがついに爆発して無理矢理チューになる。
 が、一切なくていきなりチューだから、ギャグになる。

 植爺が「必要なエピソード」「不要なモノ」の区別のつかない人だということはわかりきった事実であるけれど、今回もソレが致命的な欠陥となっている。
 「アラン」が主役である以上描かなくてはならないエピソードをことごとくはずし、どーでもいいことに時間と場面を割く。いらない台詞をただ何度も繰り返し、冗長で散漫な時間稼ぎをすることを「役者のため」だと思っている。

 植爺や谷に共通して感じることなんだけれど、「台詞の行数」というものに神話があるのではないだろうか。
 台本をもらったときに台詞の行数が多いと「今回の役は素晴らしい」、少ないと「今回は私、大切にされてないんだ」と判断する、みたいな。
 演技の内容でも役の質でもなく、重要視されるのは台本の行数。どれだけマーカーを引けるか。
 だから「格上(と、劇団が思っている)」の人には、無駄に台詞が多い。
 不必要でも、台詞が多い。
 物語として必要だから台詞があるのではなく、ただたくさん喋らせるためだけに台詞がある。
 物語的には不要なのに、「役者の格付け」のためだけに喋らせなければならないから、同じことを何度も繰り返したり、ただ水増し会話をするためだけの水増し場面を何度も作る。
 「役者の格付け」として、アラン>ディアンヌ>アンドレ>オスカルなので、アランとディアンヌの「台詞の行数」を増やさなければならない。だからアランがディアンヌの亡霊とえんえんえんえんえんえんえん喋る場面を作らなければならない。役の重要度ではなく、役者の格付けで計るあたり、終わっているのだが、植爺だから仕方ない。
 星原先輩とハッチ組長が無意味に長々喋るのも、彼らの「格」ゆえ。
 また、そこしか出番がない人や、学年・立場の考慮で「最低何行は台詞を喋らせなきゃな」というのも、あるらしい。ジェローデル@まっつが登場するなりひとりでえんえん何行分も説明台詞を喋り、芝居として成り立っているのか謎なくらいひとりで完結して去っていくのも、そこしか出番のない女の子たちが壊れたレコードだかCDだかのよーに「ソレさっきも聞いた」台詞を何度も何度も同じことをぐるぐる喋り続けるのも、そのためだろう。
 行数稼ぎ。
 「原稿用紙3枚分作文を書きなさい」と言われた小学生が、同じことを何度も何度も書いて、無理矢理マス目を埋めるよーに。

 台本を開いたときにわかる、台詞の行数。
 目で見えるモノにしか価値を感じることが出来ない、とゆーことですかね。や、わかりやすく「アナタを大切にしてますよ旦那(モミ手)」という文化だとは思うけど。
 わたしが演出家で、芝居のことなんかまったくわかってない権力の横槍を煙に巻くためになら、このテを使うかしらね。
 それにしても、植爺の「台詞の行数教」には絶望するばかり。

 必要なエピソードもないまま、いきなりクライマックスの無理矢理チューをやらされたアランとオスカル、コキュにされたアンドレが可哀想だ。

 それでも、笑われないよう、舞台上で、ナマで、戦い続けた彼らが、素晴らしい。 

 続く。

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