うわわわわ。
 どうしようどうしよう。

 『ベルサイユのばら』で泣いてしまった。

 ちょっと待て。植爺作『ベルばら』で泣くなんて、なにもわかってなくてもただ「人が死ぬ」と脊髄反射で泣いていた平成『ベルばら』(カリンチョとかネッシーとかのヤツ)ぐらいだよ? あのころわたしは若くて純粋で、どんな駄作でも腹を立てたり爆笑したりせず、ほんとありのままに感動していたの。
 あとは、2001年の宙組版、お花様アントワネットに力尽くの迫力勝ちで泣かされたことはあったよーな気がするが、そのころはもうすっかりヨゴレた大人になっていたわたしは、駄作具合にプンスカしていたし。

 植爺作品は、笑うためにある。
 怒っても精神衛生上悪いだけだから、なにがあっても笑いへ転換する。笑って笑って、笑うことで自分を慰める。
 これぞ人生。

 「これ以上酷いモノは地球上に存在すまい」と思うものすごい作品を書き続ける植爺だが、彼は新作のたびにその記録を自分で破り、「信じられない、前作よりさらに酷いなんて! これ以上酷いモノは地球上に存在すまい!!」と、いつも新鮮な衝撃で観客を奈落へ突き落とす。
 ある意味ゴッドハンドの持ち主、植爺。彼は神に選ばれた駄作製造者。

 今年の『外伝』シリーズはその神に選ばれた才能を駆使した、まさに歴史に残る破壊作ぶりで、「宝塚の破壊神」としての能力を遺憾なく発揮していた。
 だからこそ、どんだけものすごいことになろうとも、腹筋を鍛える目的で受け止める覚悟を決めて、挑んだのに。

 …………あ、あれ?

 植爺作……だよね、コレ?

 もちろん、植爺らしさはちりばめられている。
 無意味に大仰な言い回し、どこまで続くんだ中身のない格言合戦、貴婦人たちの悶絶パフォーマンス、マロングラッセのコント、無意味な二役、同じ境遇のモノ同士でないと理解し合えない教、てゆーか剣より強いのはペンだ、筆ぢゃねえ、とか、突っ込みどころは満載だが。

 それでも。

 植爺作じゃないよね、これ?
 絶対チガウって。植爺に書けるわけないって。

 観劇後、わたしと仲間たちは「演出補誰だ」と騒ぎました。
 で、鈴木圭せんせだとわかり、納得した。

 きっとコレ、鈴木圭演出作品だよ。

 過去の壊れきった植爺『ベルばら』2幕2時間半を、新公専用に本公には存在しない歌を入れたりして正しくアレンジ、新公1幕1時間半に再構築した鈴木せんせ。散漫駄作『ファントム』2幕2時間半を整理してテーマを明確に新公1幕1時間半に再構築した鈴木せんせだよ。
 「本公より新公の方が作品が壊れてない」と言われる演出をした、あの鈴木圭だよ!(笑)

「植爺はきっと、途中まで書いて投げ出したんだよ、さすがに体力持たなくて」
「いつもの調子で2時間半分書いちゃって、それを鈴木圭が1時間半用にまとめ直したんだよ」
「ほんとはナポレオン暗殺未遂前後からはじまるはずだったのに、鈴木圭が『時間ないからここはカット』ってやったんだよ」
 とか、調子よく会話が続いていたのに。
「最初は張り切って『Zガンダム』書きはじめた富野由悠季が、『ZZ』になると投げ出しちゃったみたいなもんぢゃね?」
 ……沈黙のあと、「マニアックな喩えは出さないように、誰もついて来れないから」と、ばっさりやられちゃったよ。あれ?

 なにはともあれ、植爺らしさは残しつつも、とても植爺が作ったとは思えない『ベルばら』になってます、『外伝 ベルサイユのばら-ベルナール編-』

 
 なにしろ、主役とヒロインが夫婦(恋人)役なの!!
 接点のカケラもない主役とヒロインが「同じ境遇の私たち」と無理矢理こじつけて立ち話をするだけでいつの間にか愛し合っていたことになっていたり、瀕死の男と尼僧がえんえん立ち話して、話が長すぎて瀕死の男がご臨終したりしないの!
 ヒロインが主役の妹だったりしないの! しかも妹が幽霊で、10年間主役に取り憑いていたりしないの! 主役と幽霊がえんえんえんえん立ち話して、愛の歌を歌ったりしないの!
 物語が時系列に進むの!
 お前らいくつなんだよ?という時点から、意味のない回想シーンになったりしないの!
 物語の肝心なところになると突然ぶった切られて「10年後の主役と幽霊」が出てきて、その肝心な部分を説明台詞で一から十まで全部読み上げていったりしないの!
 無意味に現在と回想が行ったり来たりして、流れを壊さないの!
 物語のもっとも盛り上がる部分に、主役が登場しているの!
 革命ダンス場面を率いるのが脇役だったり、そもそも「アンタ誰? 今までいなかったよね?」な人だったりしないの!
 それまで主役に思えるほどの比重で描かれていたオスカルが、あとになって「死にました」という台詞で片づけられることがなく、革命場面で描かれているの! 彼女の戦死シーンが華々しく描かれるのではなく、革命成功の歓喜の人々の中、オスカルの剣を抱いたロザリーが泣き崩れる、という無音のアクションで表現しているの!
 無意味に死んで殺して、とにかく主役が死ねば感動巨編、と思ってない終わり方になっているの!
 瀕死の主役をべらべら喋らせて手遅れで死なせたり、それまでの人生やこだわりをすべて投げ出して「それは誰かがやってくれる」「しんどい思いして生きるより、死んで楽になる方がかっこいいよ」と主役が自殺して終わったりしないの!
 「主役が死ぬとかっこいい」という結論ありきで、ただ死なせるためだけに無理矢理こじつけて主役を殺しておしまいじゃないの! 主役とヒロインが「生きる」ことを誓って、前を向いて終わるの!

 主役とヒロインが愛し合っていて、物語が順番に進んでいって、いちばん盛り上がるところに主役もヒロインも登場して、物語に絡んでいて、困難を乗り越えたふたりがさらに愛情を深めて、未来に希望を残して終わるの。

 ……て、あたりまえじゃん。

 「物語」として、ごくごくあたりまえな、いちばん基本的な起承転結、シンプルなラインじゃん。
 いちいちおどろくこともない、世の中のほとんどの物語はふつーに、というか物語である前提としてクリアしている事柄ばかりじゃん。

 でも、植爺だから。
 そんなあたりまえな物語なんて、植爺に書けるわけないじゃん?!

 だから、植爺が書いたのではナイんじゃないか、と思えるのですよ。

 主役とヒロインがふつーに愛し合ってるなんて、おかしい。
 ロザリーがオスカルに夜這いして愛を告白するガチレズ話とか、幽霊ディアンヌが「お兄さんを愛しているの。自殺したのもお兄さんのせいよ」と告白する近親相姦話とかを書くのが植爺ですよ。
 
 主役はなにもしない、なにもできない人。物語を動かすのは別のところで、主役はなにもせずにきれーな服を着て「主役様すごい!」「主役様ステキ!」と意味なく誉められるだけ、なのが植爺クオリティ。
 物語の重要な部分は怒濤の説明台詞だけで、とにかく主役は蚊帳の外。
 「結局あの人、なにしたの?」「さあ?」が、いつもの植爺作品の主役でしょう。
 主役を中心とした物語を書けないんだよね、植爺。

 いやあ、植爺らしくない。
 これが、『外伝 ベルサイユのばら-ベルナール編-』の最大の特徴。

 ラストシーンではダダ泣き(笑)。

 ベルナール@トウコすげえ、ロザリー@あすかすげえ。

 このふたり、うますぎるよ。
 脚本がまだまともなところへもってきて、トウコとあすかが力尽くで盛り上げるもんだから、もお。
 『ベルばら』なのに、感動しちゃったよお。

 …………いやその、紗幕の向こうのアントワネット@まひろ、フェルゼン@ともみんに一瞬涙が引いたんだが。(ナニこの謎のキャスティング?!・笑) 

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