物語をどう見るか、どう感じるかは、観客の自由だ。

 『夢の浮橋』を、わたしは「まともで健康なふつうの人間だった青年が、狂気に身を染める物語」だと思っている。

 「愛ゆえに」。

 イザナギはイザナミを取り戻そうと黄泉の国へ行き、結局は叶わなかった。
 イザナギは間違えたんだよ。
 イザナミを得たいのなら、現世に連れ戻そうなんてせずに、自分が黄泉の国の住人になるべきだったんだよ。

 愛しているなら、すべて捨てれば良かったんだ。

 世界すら。

 
 『夢の浮橋』で象徴的に登場する、階段。
 プロローグで光源氏と薫が上っていき、ラストシーンで匂宮がひとり上っていく、あの階段。

 わたしはあの階段に、「世界」を見る。

 
 匂宮は視点であり、薫はこの物語の軸だ。
 薫が登場したときから物語ははじまり、それまでは承前でしかない。

 視点である匂宮が、あの日失った薫を探す物語。
 少年の日、横にいるはずの薫が、階段を上っていった。
 そのときから、薫は「あちら側」へ行ってしまった。同じ宮中で生きているのに、姿はたしかにここにあるのに、本当の意味で薫はいなくなってしまった。

 匂宮は、薫を探す。
 伊達男を気取り、浮き名を流し、香をたきしめ薫に対抗しつつ、彼は薫を探している。
 現世に薫はいない。薄々気づきながらも、知らない振りで探し続ける。
 そして。
 祭りの中で匂宮は薫を見つける。それは、光る君の姿をしていたかも、しれない。
 薫が生きる世界を、垣間見る。

 そこではじめて、痛感するんだ。

 薫を得たいのならば、彼の住む世界に行くしかないんだ。

 この世で、こちら側でどれほど薫を恋うても、薫は決して振り向かない。
 だって薫は同じ世界にはいないのだから。

 闇の芽を宿して現世に戻った匂宮は、思い知った答えにたどり着くための道を、歩みはじめる。
 薫のいる場所へ、続く道。

 それまで生きていた正常な平穏な世界を捨て、匂宮は狂気と絶望の世界を選んだ。
 他の誰もいない。
 ふつうの人間は、存在しない。
 そこにいるし話せるし触れるけれど、同じ地平で生きていないから、魂を触れあわせることは出来ない。
 そんな、二重写しになったもうひとつの世界へ、自ら足を踏み入れた。

 誰もいない?
 いや、ちがう。

 ここには、薫がいる。

 あの日失った薫を追いかけて、ここまで来た。
 薫のいる世界へ、やって来た。

 たとえ薫が今まで通り自分になんの興味も持たず、拒絶されるとしても……少なくとも今の自分は、薫と同じ世界で、同じものを見ている。

 
 そして、薫。

 少年の日、匂宮を置いて階段を上っていった薫は。
 あの階段を上がることで、彼も確実にナニかを捨てていた。失っていた。
 失っていたことにすら、気づいていなかった。

 今、自分と同じ地平に立つ匂宮を見て。
 同じ世界に、自分ひとりしかいない永遠の孤独の世界に、匂宮が現れたのを見て。

 気づくんだ。
 あの日、自分を失ったものを。

 あのときまで、たしかに自分の中にあったものを。

 匂宮が、世界を捨ててまで、魂を闇に侵させてまで、追ってきた。
 薫が失ったものを、薫に還らせるために。

 それがわかるから、薫は匂宮にひざまずくんだ。

 自分のために、すべてを捨てた男に。
 匂宮がすべてを捨てたならば、自分がすべてを捧げようと。

 そうすることで、彼は彼の中へ還る。

 
 運命のふたり。
 裂くことはできないふたり。

 こうして視点は、軸とひとつになる。主人公とテーマはひとつになり、そのために語り手は彼らとは別の、もうひとりの匂宮である女一の宮が必要だった。

 
 とまあ、こんなふーに思ったのよ。
 『夢の浮橋』という物語を。

 あくまでも、わたし個人の感想として。

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